死と宗教

(一)

「主語S」ー「述語P」という基礎的な論理構成を持つ傍線部であるが、傍線部そのものが非常に短い。このような場合、答案には「補充」が必要になる。「補充」には主に次の(ⅰ)(ⅱ)がある。

(ⅰ)論拠の補充をする。
(ⅱ)対比の補充をする。

ただし、傍線部が短ければ常にやみくもに「補充」をするのではなく、構造的に「補充」が求められているのかどうかを考える必要がある。

くわしくは後述するが、(ⅰ:論拠)は、傍線部の論理関係が「主語S≒述語P(Sの状態・性質)」になっているときに求められやすく、(ⅱ:対比)は、傍線部と密接にかかわるところに明確な対比が認められるときに求められやすい。

なお、(ⅰ)と(ⅱ)の重要度としては、(ⅰ)のほうが高い。なぜなら、「論理的な構文」というのは、基本として次のかたちをとるからである。

主題(主語)
   主題(主語)の定義(この文脈ではそれは何なのか)
   結論に対する論拠(結論のようにいえる根拠)
結論(述語)

「何か」を説明するためには、骨格として「主題(テーマ)と結論」が必要である。基本的に、「主題」は「主語」が担当し、「結論」は「述語」が担当する。

実際に問題を見ていこう。

「主語S」の「意味規定」/「述語P」の「言い換え」

傍線部では、「死者は消滅などしない」と述べている。「消滅」「しない」ということであるから、「消滅」の反対の語を意識して探すと、本文には「実在」というワードが出てくるので、そこに着目する。

本文〈①段落〉には、こう書かれている。

先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。

ここを利用し、次のような〈下書き ver.01〉を作ることができる。

〈下書き ver.01〉
先行者としての死者は、生物学的に存在せずとも、社会的に実在しているということ。

さて、この答案では、傍線部の「死者は」という「主語S」に対して、「先行者」という意味の規定をしている。こうしたほうがよい理由は次の通りである。

主語の規定

傍線部の「主語S」である「死者は」は、十分に「客観的かつ一般的」な語なので、答案にそのまま出して問題ない。ただし、その「死者は」という主語に対して「先行者」という「付け加えによる意味規定」をしたほうがよりよい答案になる。

「もともと傍線部内にある客観語」は、「意味広範な表現(多義的な表現)」になっている可能性がある。そのような場合、文脈に即して「一義的表現(一つの意味に規定できる表現)」にできるといっそうよい答案になる。

たとえば、「日本人」について述べている文章で、傍線部の主語が「人」であったとする。その際、その「人」が「日本人」を差しているのであれば、答案では「日本人」と書くほうがよい。なぜなら、「人」とだけ書くと、「アメリカ人」「フランス人」「中国人」など、あらゆる人を意味するからである。

さて、ここでの「死者」だが、この文章を先まで読んでいくと、「現在・過去・未来」の死者について話が展開していく。

この〈傍線部ア〉で述べられている「死者」は、「現在からみた過去の死者」である。それが端的に表現されているのが「先行者」というワードである。

何度も繰り返し登場することからも、「先行者」は、筆者にとって重要な語句〈キーワード〉だと判断できる。したがって、

◆ 死者は、先行者であり、~
◆ 死者は、過去を生きた者であり、

というようなかたちで、「死者」の「意味の枠」を文脈に応じて規定できるとよりよい。

〈下書き ver.01〉は字数が短いので、まだまだ書き込むことができる。補足事項を考えていこう。

論拠の補足

ここで「傍線部の論理関係」における「述語P」が、「動作・行為」などではなく、「状態・性質」であることに注意しよう。つまりこれは「主語Sー述語P(Sの状態・性質)」型の傍線部になっている。

この「主語Sー述語P(Sの状態・性質)」型の論理関係には、次のような「三段論法」が内在していて、「S」と「P」をつなぐ「論拠w」が見えなくなっているからこそ、問題になっていることが多い。

主語Sは  w である
      w であるのは、 述語P である。

 →  よって、 主語S  述語P である。

この形式の場合、「いえるのはなぜか」と問うことが多いのだが、今回は「どういうことか」と問われている。この2つの問いの違いは後述するとして、図における「wである」を代入した解答例を作ってみよう。先ほど着眼した「社会的に実在する」の直後に、「~からである」と述べているところがある。

先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである

そこを「論拠w」として補充すると、次のような〈下書き ver.02〉が成立する

〈下書き ver.02〉
先行者としての死者は、生物学的には存在せずとも、現在の生者に作用を及ぼし、現在を規定している点で、社会的に実在するということ。

文中にあった「われわれ」という語は、そのままでは客観的に誰を指すのかわからないので、答案内では「現在の生者」「現成員」などと表現する必要がある。

ここまで書ければ提出してよい水準だが、あと一歩考えてみよう。答案内の「社会」という語も「意味広範」な語であるため、文脈に応じて少しでも「意味規定」できると、いっそうよい答案になる。

そこで、もう少し先を読んでいくと、次のような複数の重要構文が発見できる。

③名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。

④人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。

〈③段落〉では、「こうした」という要約系指示語のあとに、「連続性」という語が2回出てくる。

さらに、〈④段落〉では、「生きるとは社会の中に生きること」と定義されており、その「社会」についても、「生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体」と定義されている。

あくまでも「補足」なので、あまり字数は割けないのだが、「社会」というものが、「過去を生きた先行者と現在の生者との連続性によって成立している共同体」であることに言及できると、答案の充実度がいっそう増すことになる。

「社会は過去と現在でつながっている」あるいは「社会は過去の人間と現在の人間の共同体である」ことについて言及できれば、「社会」という「意味広範な語」を、少なくとも傍線部よりは「意味規定」したことになる。答案の表現的には、「連続」「共同」のどちらかがあればよい。

〈解答例〉
先行者としての死者は、生物学的に存在せずとも、現在の生者に作用し、現在を規定するため、過去と連続する社会的に実在するということ。64

〈論点チェック〉⑥点
先行者としての死者は  ① 
生物学的に存在しない  ① 
現在の生者に作用する  ①
現在を規定する     ①
過去から連続する現在  ① 「死者と生者の共同体」なども可
社会(的)に実在する  ① 

(二)

(一)のように、傍線部そのものが短い場合は、〈論拠〉や〈対比〉といった「補充」をしていく必要があるが、本問のように傍線部が長い場合、傍線部内の各要素の「意味内容」を説明するだけでどうにかなる場合が多い。

さて、傍線部の〈各要素〉は、

(a)人間 は
(b)自分が死んだあともたぶん生きている人々 と
(c)社会的な相互作用を行う。

というものである。

さて、主語の「人間」は、十分客観的な表現であるので、そのまま答案に出せるが、「人間」というのは意味の広い語であるので、もう少し限定的に規定できないか考えてみよう。

(要素b)に「自分が死んだあともたぶん生きている人々」とあるのであるから、そことの対比で考えれば、主語の「人間」は、すでに話題にされている「先行者」のことであると判断できる。

さらに言えば、傍線部周辺には、

以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。(イ)人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。

と書かれている。つまり、ここまでの〈①②段落〉の話題が、「過去から現在へという方向」の話であったことに対し、この〈③段落〉では、その「過去 ⇒ 現在」の方向は、「現在 ⇒ 未来」にも当てはまると述べているのである。

つまり、ここでいう「パラレル」とは、下図の〈線A〉と〈線B〉のように、「過去と現在」の関係性が、同じように「現在と未来」にも認められるということである。

 過去ーーーーーー現在
    〈線A〉
         現在ーーーーーー未来
            〈線B〉

そのため、この傍線部の(a)(b)については、

先行する現在の生者は、想定される未来の生者と、(社会的な相互作用を行う)

などと説明することができる。

では、「相互作用」とは何か? 

「現在から未来」への作用は、わりとスムーズに見つけられる。傍線部の2行後に「働きかける」と書いてあるからだ。これは「作用」の換言表現である。

死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。
その存続する何かに有益に働きかける

ここは解答の根拠になる。ただし、「何か」という表現が曖昧である。文脈上、この「何か」は、「未来の社会/未来の生者」のことであるので、代入すると、

死後も自分と結びついた社会が存続すると考え、想定される未来の生者(or社会)に有益に働きかける

などと説明することができる。

以上のことから、次のような〈下書き ver.01〉が成立する。

〈下書き ver.01〉
先行する現在の生者は、死後も自分と結びついた社会が存続すると考え、想定される未来の生者に有益に働きかけるということ。58

ただし、傍線部には「相互」と書いてある。このように「現在⇒未来」のことだけを解答化しても、「相互」を説明しきったことにはならない。

そのため、反対に、「未来から現在(未来の生者から現在の生者)」に及ぼされる作用について、何らかの論点を拾ってこなければならない。

では、それは何か? ――傍線部の2行後には、ズバリ「意義」と書いてある。つまり、想定上の「未来(の社会・生者)」からは、「意義」が与えられるのである。それこそが「相互作用」である。

一見するとおかしいことと思うかもしれない。まだ生まれていない人間まで、こちら側に意義を与えてくるとは、奇妙なことだ。しかし、次のように考えてみよう。

私たちは、過去の遺産に対して、「ありがとう」と思うことがある。言語も、生活環境も、習慣も、周囲の人々も、社会のすべては、過去の誰か(先行者)がいたおかげで、ここにあるのだから。そのことを「現在―未来」の関係に当てはめれば、「未来の生者たち」も、「現在の生者たち」に対して、「ありがとう」と思う可能性がある。その推察に基づき、私たちは、未来へ働きかけることそのものに「意義」を見出すのである。

つまり、未来の生者という〈相手〉が存在することによってはじめて・・・・・・・・「意義」が生成されるわけであるから、ここでの「意義」は、未来の生者から与えられたようなものだといえる。したがって、この解答において「意義」はとても重要である。これがないと、「相互作用」を説明しきったことにならない。

以上のことから、次のような答案が成立する。

〈解答例〉
先行する現在の生者は、死を越えてなお自分と結びついた社会が存続すると考え、想定される未来の生者に有益に働きかけ、そのことに意義を見出すということ。
73

〈論点チェック〉⑥点
(先行する)現在の生者は、    ①
死を超えてなお自分と結びついた  ①
社会が存続すると考え、      ①
(想定される)未来の生者に    ①
有益に働きかけることに      ①
意義を見出す           ① 

〈補足〉 *最後の(五)にかかわる論点

この段落の後半では、「ここで二つの点が大事である」とされ、その「二つ目」に「犠牲」の話題が出てくる。

設問(二)を解くうえでは解答根拠から外れるところになるが、最後の(五)を解くうえで重要なところになるので、確認しておこう。

ここでは、

むろん人は価値理念と物質的・観念的利害とによって動く。

と述べられている。

価値理念で動く

というのは、考えやすいだろう。

我々が何か行動を起こす際には、その行動に価値があると考えるからである。たとえば誰に言われたわけでもないのに、本屋さんで本を買って読むとしよう。それは、「感動する」とか「知識がつく」とかいったことを、自分にとっての価値とみなしているからであろう。人は、「無価値」と思われる本を積極的に買って読んだりはしない。「運動する」というのも、「健康になる」とか「痩せる」とか「楽しい」とかいったことを、「価値」とみなしているからである。このように、多くの人間行動には、価値理念が根底にあるはずである。

次に、

物質的・観念的利害

というのは、「物質的な(モノにおける)損得」や「観念的な(意識のなかでの)損得」のことである。

物質的利害とは、文字通り、「モノ」による損得のことである。ボールペン一本もらえたら、物質的に「得」である。逆に、飴玉を一個ポケットから落としたら、物質的に「損」である。そのように、「モノがもらえる」ということを「オトク」と感じて、人は動くだろう。

一方で、観念的利害とは、人間の「頭の中」での損得のことである。これは「モノ」の損得とは必ずしも一致しない。モノを失う・・ほうが「オトク」と思えることもあるからだ。たとえば、引っ越しの際に、もういらなくなった家具を誰かに持って行ってもらえたら、「物質的」には「損」だが、もういらないものを新居に持っていく手間が省けるし、新居のスペースも圧迫されないので、総合的にみれば「得」である。しかしこの「得」は、以上のような「思考内での損得」である。このような「思考」における「損得」が、「観念的利害」というものである。

そしてこう書かれている。

したがってここでは観念的利害が作用してもいるのであろうが、それは価値理念なしには発動しない。

「それ」は、「観念的利害」を指している。つまり、先ほど述べた「思考内での損得」は、価値理念なしには発動しない、ということである。

たとえば「よしお」が「しぶしげ」に100円をあげたとする。100円という「モノ」はなくなるのであるから、物質的利害としては「損」である。しかし、「しぶしげを助けることに価値がある」という「思考」を持っていたとすれば、「よしお」は100円をあげるだろう。要するにこれは「物質的利害」よりも「価値理念にもとづく観念的利害」を重視したのである。

そのことについて、本文には「犠牲という価値理念」とある。つまりこれは、「自分が犠牲となり、他者を救う」という行為に、価値がおかれていることを意味する。

この〈価値のベース〉があるからこそ、「自分が犠牲となってまでも、他者のために何かを受け渡すこと」を、人はしようとするのであり、そのような受け渡しに「意義」を見出すのである。

最終問題である(五)では、「世俗的一般的価値理念」と「宗教的来世観」に「通底する(ないし対応する)」ものは何か?ということが問われるのだが、先取りしておくと、その答えはこの「犠牲という価値理念」のことである。

(三)

「なぜか?」という理由説明問題は、主に次の3つに分類できる。

(a)原因・きっかけ型
(b)意図・目的型
(c)論拠・判断材料型

傍線部の論理関係に応じて、(a)(b)(c)は概ね判断できるので、今回もまずは「論理関係の把握」をしよう。なお、傍線部ではよく「倒置や省略」などが起きているので、できるだけ論理を簡素化して考えるとよい。

(1)論理の簡素化

傍線部の論理関係は、論理関係を簡素化すると、次のようにいえる。

先行者の世界は ー 象徴化されなければならない。
(主語S)        (述語P) 

「象徴化する・される」というのは一種の「行為」であるので、この「なぜか」は「意図・目的型」の「なぜか」であると判断できる。先行者の世界が象徴化されることで、意図される(目的とされる)「何か」が起きるのである。

「意図・目的型」の「なぜか」は、「傍線部の論理」を「前提条件」とし、その「次」にくるものが「理由」になるので、答案の構文は、たとえば以下のようになる。

〈答案の構成例〉
先行者の世界が象徴化されることで【          】から。
      ↑              ↑
   傍線部のSーP         意図・目的

「先行者の世界が象徴化される」ことで、「次」に何が成立するのか(期待されるのか)、その「意図・目的」を探そう。

すると、

なお、〈傍線部ウ〉の文末が「~ということである」と表現されていることに着眼すると、〈傍線部ウ〉とその直前の文は、ほぼ同義であるとみなせる。さらにその文の先頭には「それゆえ」とあり、さらにその前には「あってこそ」がある。

この縦の連続性=伝統
 あってこそ
  社会は真に安定し、強力であり得る
   それゆえ
    先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。
      = 先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。

こここそ「意図・目的」としての「理由」になるとみなせるので、次のような〈下書き ver.01〉が成立する。

〈下書き ver.01〉
先行者の世界が象徴化されることで、縦の連続性=伝統が生まれ、社会は真に安定し、強力であり得るから。

(2)「前提(主部)」の説明不足の解消

前述の〈下書き ver.01〉における「先行者の世界」「象徴化」といった表現は、そもそも傍線部に存在する語句なので、「言い換え」または「補足」をして少しでも説明を充実させよう。

また、「縦」という表現も、答案に残すべきではない「比喩的な表現」であるので、答案には登場させないような工夫をする。

先行者の世界

まず、「先行者の世界」については、直前で「先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるように~」と述べられているので、「実在」という語を拾っておくと、「先行者の世界」の説明を少しでも充実させたことになる。

そのため答案では、「実在としての先行者の世界」とか「先行者の実在性」などのように書けるとよい。

縦の連続性

次に、「縦」は、具体的には「歴史を先に行っている者」と「現成員」の関係である。

たとえば、学校生活でいえば「先輩後輩関係」である。俗にこういう関係を「縦社会」などと言うこともある。つまり「縦」とは、「先に生きた者」と「今(未来)を生きる者」の「つながり」の性質のことである。要するに、「縦」という表現は「比喩」なのである。過去と未来が「縦」につながっているという表現は、年表的世界観による「図表」的イメージにすぎない。

したがって、「縦の連続性」という表現は、「(先行者と)現成員との連帯」などと示したほうがよい。

ただし、ここでは「縦の連続性=伝統」というかたちで、「伝統」という語に言い換えているわけだから、比喩表現ではない「伝統」のほうを使う手段でもよい。

象徴化

次に「象徴化」である。「象徴」の意味は次のとおりである。

〈象徴〉
 知覚できない観念を、知覚可能な具象で示すこと(もの)。
 抽象的な物事を、それを連想させる具体物で代表させて表すこと(もの)。

「象徴化」とは、このように、「意味広範な観念を、知覚可能な具象で表現すること」である。たとえば「極楽」は、我々にとって知覚することが不可能であるが、それを「曼荼羅」や「極楽図屏風」などを通して「イメージ」することはできる。そのとき「曼荼羅」や「極楽図屏風」は、「極楽」の「象徴」である。

では、その「象徴」の意味として機能する表現は、本文にあるだろうか? ――ある。本文の表現を用いれば、傍線部2行前の、「表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒される」という部分が、まさに「象徴」の説明にあたる。

以上により、次のような答案が成り立つ。

〈解答例〉
先行者の実在性が、表現され、意識可能な形にされ、絶えず覚醒されることで、現成員との連帯が生まれ、社会は真に安定し、強力でありうるから。68

〈別解〉 
伝統が生まれ、社会が強力に安定するためには、実在的な先行者の世界が表現され、意識可能な形にされ、絶えず覚醒されなければないから。70

〈論点チェック〉⑥点
先行者の世界の実在性が      ① 
現成員と連帯するものとして    ①
意識、表現、覚醒されることで   ② 「意識」「表現」「覚醒」は意味としてすべてほしい
社会は真に安定し、強力になるから ② 「安定」「強力」はどちらもあるほうがよい

(四)

傍線部の論理関係は、

他者のために死の犠牲を払うことは ー 評価の対象となる
   (主語S)            (述語P)

となる。

これは、「評価される」という「結果」に至る「原因・きっかけ」を問う「なぜか」であると判断できるので、

したがって、

他者のために死の犠牲を払うこと は 【       】から。(→評価の対象となる)
      ↑               ↑
     主語S             原因c

における「原因c」a)と(b)を達成すれば答案が成立すると考える。なお、(a)と(b)はどちらから考えてもよい。

理由①

ではまず、「主部」と「述部」の「飛躍」を埋める情報を探そう。

同段落の冒頭を見ると、このように書いてある。

年老いた個体が順次死んでいき、若い個体に道を譲らないなら、集団の存続は危殆に瀕する。

ここには「仮定条件」がある。多くの場合「条件句」は「前提」としてはたらくので、この内容は答案にほしい内容であるといえる。

〈ポイント〉
仮説・仮定法・条件法において、「前提」と「結果」の関係がある場合、それを因果関係として説明することができる。

 ~x~すれば、~y~
 ~x~ならば、~y~

    ⇒  x するからこそ y
       x であるからこそ y

たとえば、「よしおが帰ってきたら夕ご飯にしましょう」という「仮定文・条件文」において、「よしおが帰ってくる」ことは、「夕ご飯にする」ことの「前提」である。

「ただいまー」とよしおが帰ってきて、実際に夕ご飯を食べた後になれば、この一節は「よしおが帰ってきたから夕ご飯を食べた」ということになる。つまり、「仮定法・条件法」と「因果関係」というのは、非常に似ている関係なのだ。

傍線部問題において「理由」が問われているときは、

から・ため・ので・よって・により・ゆえに・それゆえ

といった「因果」のラベルを探すことが重要であるが、同様に、

すれば・ならば・するなら・なるなら

といった「仮定・条件」のラベルにも注目しておきたい。

その観点で、さきほどの条件文因果関係として書き直せば、次のようにすることができる。

◆ 年老いた個体が死ぬことで若い個体に道を譲るなら、集団の存続は危殆に瀕することを回避できる。
◆ 年老いた個体が死ぬことで若い個体に道を譲るからこそ、集団は存続しうる。

「年老いた個体が死ぬことで若い個体に道を譲る」という情報は、傍線部の「主部」であった「他者のために死の犠牲を払うこと」内容的に一致するので、「主部の言い換え」という観点で答案に取り込めるとよい。

さらに、「(そのことによって)集団が存続する」という論点は、「結論に至る飛躍を埋める」情報といえる。

したがって、次のような〈とりあえず答案〉が成立する。

〈とりあえず答案〉
老いた者が死に、若い個体に道を譲ることで、集団は存続できるから。(→評価される)
(先行者が) (後継者に)

「年老いた個体」は「先行者」のことであり、「若い個体」は「後継者」なのであるから、答案はそのように書いてもよい。

理由②

一方、傍線部の直前には、「ゆえの」というラベルがある。

人は死を選ぶのではなく、引き受けざるを得ないものとして納得するだけであり、生を諦めるのである。それは他者の生を尊重するゆえの死の受容である。これは、他者の命のために自分の命を失う人間の勇気と能力である。(たとえ客観的には杜会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでも)(エ)他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。

(たとえ~ても、それでも)の部分は、「ても」「でも」が逆接表現であり、筆者の主張に含めるべきポイントではないので、そこを飛ばして考えると、文脈的には〈傍線部エ〉の直前に、

生を諦めることは、他者の生を尊重するがゆえの死の受容であり、そのことには、人間の勇気と能力が必要となる。

という説明が存在することになる。

ここでの、「他者の生を尊重するがゆえの死の受容」という表現は、傍線部での「主部」とみなした「他者のための死の犠牲」と内容的に一致するので、「主部の言い換え」という観点で答案に取り込めるとよい。

さらに、「勇気と能力」があるからこそ「評価」につながるといえるので、「勇気と能力」は「結論に至る飛躍を埋める情報」だとみなせる。

したがって、次のような〈とりあえず答案その2〉が成立する。

〈とりあえず答案その2〉
他者の生を尊重するがゆえの死の受容には、勇気と能力が必要だから。(→評価される)

つまり、この問題には、

(1)集団が存続するから → 評価される
(2)勇気と能力が必要だから → 評価される

というように、結論に至る飛躍を埋める「理由」が「2つ」存在しているといえます。

なお、この「勇気」というキーワードは、傍線部の直後でも繰り返される。

これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは、自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対局である。

傍線部の直後では、「これ」「それ」「それ」という指示語でつながり、「犠牲」のモチーフについて述べられている。ここで語られている、

他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは執着の対局である。

といった情報は、とても重要なものであるものの、傍線部の「前」にあった、

他者の生を尊重するがゆえの死の受容には、勇気と能力が必要

という意味内容と、大きくみればほぼ同じことを述べているので、傍線部の「前の情報」と「後ろの情報」は、どちらかをうまく使えればよい。つまり、「どちらも使わない」ということを避ければよい。

ただし、明確に繰り返されている「勇気」については、取りこぼさないように注意しよう。

以上の考察により、次のような答案が成立する。「道」は比喩的なので、「生存する社会」などと言い換えておきたい。

〈解答例〉
他者の生を尊重し、死を受容する(生への執着を捨てる)という勇気と諦めの能力を発揮し、老いた者が若い個体に生存する社会を譲ることで、集団は存続できるから。65

〈別解〉
先行者が後継者に生存する社会を譲ることで集団は存続するが、そのためには他者の生を尊重し、生への執着を捨てる(死を受容する)勇気と諦めの能力が必要だから。68

〈論点チェック〉⑥
老いた者が若い個体に  ① 「先行者が後継者に」なども可
生存する社会を譲る   ① 「道」のままは加点なし
集団は存続する     ①
他者の生を尊重     ①
死の受容        ① 「生への執着を捨てる」「生を諦める」なども可
勇気と能力が必要    ① 「勇気」のみも可   

(五)

全体の主旨を踏まえる必要があるが、原則的には傍線部問題である。

傍線部は大雑把に分けると次のようになる。

(a)先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、
(b)来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、
(c)通底するないし対応するところがある

「設問の核心」は、「通底するないし対応するところ」というのが「どういうところなのか」を説明することである。

さて、傍線部直前には「そうであれば」という表現がある。ということは、その「前の部分」は、傍線部の「条件(前提)」として機能していることになる。

このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。

「このモチーフ」の「この」は「犠牲」を指している。

「犠牲」の価値モチーフの話題は、〈傍線部エ〉の周辺において「宗教」の話題で出てきたものであるが、〈傍線部イ〉の直後でもすでに登場している(つまり「世俗的一般的価値理念」の話題ですでに登場している)。

ということは、

犠牲のモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる

ということが、「世俗的一般的価値理念」にも「宗教的価値理念」にも、ともに・・・見出せると述べていることになる。

「命のリレー」「つないでいる」というのは、比喩的な表現なので、「先行者と生者の世界が連帯し、生が継承される」といったように、客観的・一般的な表現で説明できるとよい。

「生が継承される」という表現はまだ少々比喩的なので、それによって引き継がれるものが「安定した社会」であることを示せるといっそうよい。

最終段落の冒頭の話題から考えると、「リレー」は、「命そのものを引き継いでいくこと」のみならず、「安定した社会を引き継いでいくこと」も意味していると考えるほうがよい。

以上の考察により、次のような〈とりあえず答案〉が成立する。

〈とりあえず答案〉
先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、ともに犠牲の価値モチーフがあり、それゆえ、先行者と生者の世界は連帯し、生を後継する意志となり、安定した社会が維持されるということ。

(a)(b)については、そのまま書いても伝わる表現なのですが、傍線部の長い表現をそのまま使用するのは抵抗がありますね。

字数が増えないように工夫しながら補足情報を盛り込んでみると、次のように説明できます。

(a)死者の世界の実在性を象徴化する世俗一般社会
(b)生への執着を捨てることを望ましいとする宗教的来世観

(a)であれば、「表象」のより詳しい説明として、「死者の世界の実在性を象徴化」などと表現することができます。

(b)であれば、「宗教的来世観」の説明として、直前の説明を補足し、「生への執着を捨てることを望ましいとする」などと表現することができます。

この「両方」に「犠牲の価値モチーフ」が見いだせるということが説明できるといいですね。

〈解答例〉
死者の世界の実在性を象徴化する世俗一般社会にも、生への執着を捨てることを望ましいとする宗教的来世観にも、他者の生を尊重する犠牲の価値理念があり、その理念が先行者と生者の連帯や、命を継承する意志となり、安定した社会が引き継がれるということ。120

〈論点チェック〉⑧点
死者の世界の実在性を象徴化する世俗一般社会      ①  
生への執着を捨てることを望ましいとする宗教的来世観  ① 
他者の生を尊重する                  ①
犠牲の価値理念があり                 ② 両者にあることがわかるように
(その犠牲の価値理念により)
先行者と生者の世界の連帯や              ① 「つなげている」の言い換え
生を後継する意志が生まれ               ①
(安定した)社会が引き継がれる            ① 「命のリレー」の言い換え 
ということ。    

(六)

a.沈殿 

b.厳然 

c.要請  

d.従容  

e.克服

以上です!

(以下余白)