(一)
その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも、まず「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかるわけである。
論点収集
◆「主語S」は「(二流の役者の中でもさらに)いいかげんな演技者」になる。
◆「『ウレシソウ』に振る舞うというジェスチュア」というのは、直前の「嬉しいパターンの身ぶり」で演技するということが言えればよい。
◆傍線部を含む一文が「対比」の構造を取っているので、「そのからだのプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも」という「対比項目」を取り入れたい。
◆「跳びかかる」は比喩である。文脈上「深く考えずに振る舞う」「短絡的に行動する」という意味なので、そのニュアンスを答案に出す。
以上により、次のような〈下書き〉が成立する。
〈下書き〉
いいかげんな役者は、からだのプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くのではなく、嬉しいときのパターンを想定し、明るくはずんだ調子で声を張り上げるといった身振りを、深く考えずに用いるということ。
答案化(簡潔化)
◆「明るくはずんだ調子で声を張り上げる」は、例示的であるため、「嬉しいときの身振りの定型/典型」などと一般化できるとよい。もちろん、「パターン」をそのまま使用してもよい。
◆「対比項目」の部分が何を言っているのか不明瞭なので、「その」という指示語の指す内容のほうを用いると、「主人公が自分の状態を表現するために選んだことばであることを意識せず」などと説明できる。ただ、これは「主人公」に限定される話ではないので、「登場人物」とか「役柄」などとしておくほうがよい。
◆「対比項目」の部分は、「からだのプロセス、ことばの内実に身を置く」ということを「否定」しているわけであるから、「言葉に至る身体の過程や、自身と言葉の調和を気にしない」などと説明することもできる。
演じている「世界」においては、その登場人物に何らかの「出来事」があり、「心躍るような身体反応」あり、その結果「嬉しい」という「言葉」が出てきたことになる。それが「からだのプロセス」であり「ことばの内実」である。
したがって、「役柄としての身体反応と言葉との調和を考えない」といった簡素化が可能である。
ただし、ここは「対比」の部分であり、傍線部そのものの説明部分ではないので、緻密さを求めるよりも、「要は」の観点であっさり書けるほうがよい。
〈答案〉
いいかげんな演技者は、登場人物としての身体反応と、発する言葉との調和を無視し、短絡的に、嬉しいときの典型的な身振りを適用して演じるということ。
答案化(簡潔化)
◆「対比」の部分はもっと短くしてよい。(あくまでも対比なので)
〈さらに簡潔な答案〉
いいかげんな役者は、役柄の状況と同化した発話を目指さず、嬉しさの定型というべき身振りをあさはかに用いてしまうということ。
〈論点チェック〉
いいかげんな演技者は (ないと減点) 「二流の役者」も許容
役柄としての自分を示す言葉を発さず ② 同内容なら可
嬉しさを示す定型(典型)的な身振り ② 「パターン」の意味合いが必要
短絡的に用いる ② 「浅慮」「短慮」「あさはか」なども可
(二)
若い頃はナルホドと思ったものだが、この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中であって、賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない。
論点収集
傍線部直前の「一筋縄ではいかぬ」を活かせるとよいので、「簡単にはいかない」という意味を入れる。「容易に~できない」なども可。
「虚実」は、ここでは、セリフの中身が「本当」なのか「嘘」なのかがわからない、ということなので、そのニュアンスを含める。
〈下書き〉
芝居で涙を流す役者に対する、「すばらしい」「奇蹟だ」というセリフは、役者の凄さへの感嘆なのか、内心はしらけていることの皮肉なのか、どこまでが本音でどこまでが嘘なのかわからないということ。
答案化(簡潔化)
〈答案〉
芝居で涙を流す役者に対する称賛は、役者の凄さへの感嘆を意味する本音なのか、内心はしらけていることの皮肉めいた虚言なのか、容易には判断できないということ。
〈さらに簡潔な答案〉
芝居で涙を流す役者に対する称賛は、演技力に感服した本心なのか、興ざめをほのめかす嫌味なのか、容易に判断できないということ。
〈論点チェック〉
芝居で涙を流す ①
役者に対する称賛 (ないと減点)
演技力に感心している本音 ② 「本心」などでも可
興ざめの気持ちを含意する嫌味 ② 「虚言」「嘘」などでも可
容易には判断できない ① 「容易には」「簡単には」がない場合は加点なし
(三)
「なんでえ、自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。
論点収集
結論部の言い回しは答案の自由度が高いが、「共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っている」「シーンとした楽屋」といった表現から、「芝居がしらけてしまう」などと説明することもできる。
あるいは、最終段落のひとつ前の段落に、「だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる」という説明もある。ここを用いて、「芝居に必要な緊張感が失われる」などと説明してもよい。
シンプルに「芝居がよいものにならない」「悪質な芝居になる」などとしても文脈にはあう。
〈下書き〉
主演の役者が主人公の行動の展開とは無縁の位置に立って、回想や連想によるわが身あわれさに浸っていると、そのすりかえが舞台上の共演者にはすぐにわかってしまうため、芝居の緊張感が失われてしまうということ。
答案化(簡潔化)
〈答案〉
主演の役者が、主人公の行動の展開とは無縁の回想や連想によるわが身あわれさに浸ると、そのすりかえが共演者にはすぐに伝わり、芝居に必要な緊張感が失われるということ。
*「わが身あわれさに浸っている」という表現は、「自己陶酔」などと圧縮できる。
〈さらに簡潔な答案〉
主演の役者が、役柄の状況とは無縁の回想に浸ると、共演者は、その自己陶酔によるすりかえをすぐに見抜き、芝居がしらけてしまうということ。
〈論点チェック〉
主演の役者が、 (ないと減点) 「主演の」はなくても可
役柄の状況とは無縁の回想で ②
自己陶酔すると ② 「わが身あわれさに浸っている」のままも可
すりかえが共演者には伝わり ①
芝居の緊張感が失われる ① 「芝居がよくならない」という趣旨なら可
(四)
こういう観察を重ねて見えてくることは、感情の昂まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。
論点収集
傍線部の少し前には、
「演技の瞬間」には、「悲しみ」を意識する余裕などないはずであり、後になって、「悲しみ」は意識されてくる。
と述べられている。
つまり、「その演技の瞬間」には、「悲しみ」という感情は「ない」はずだ、と筆者は主張している。にもかかわらず、「二流の役者」ほど「悲しい」情緒を十分に味わいたがるのである。このことから、「感情を捨てる」ということに関しては、
あとから認知されるはずの感情(≒情緒)を、「その演技の時点」で味わっていけない。
ということが書けるとよい。
ただし、「Aではない」という答案は「では何なのか」というほうも書き込みたい。
ここでは、「感情を先取りして味わってはいけない」というのであれば、「ではどうすればいいのか」というほうも書き込んでおきたいということだ。
傍線部の後ろに着眼すると、
激烈に行動している身体を満たし溢れている何か(を名づけたもの本源的な感情)
とあるので、「名づける前の状態のままでいる」ということがまず大切なことである。筆者はそれを「からだの動きそのものに他ならない」と述べているので、推論的に言えば、
概念化された(名づけられた)感情とか情緒のことを考えずに、身体を満たし溢れている何かをそのままからだを使って表現せよ。
と述べていることになる。

ブルース・リーふうに言うなら、「Don’t think. Feel !」というやつですね。
〈下書き〉
役者は、からだの動きによって、激烈に行動している身体を満たし溢れているものをそのまま表現すべきであり、事後的に意識されるはずの情緒を先取りして意識すべきではないということ。
答案化(簡潔化)
〈答案〉
役者は、激烈に行動する身体を満たし溢れるものを、からだの動きのままに表現すべきであり、事後的に意識されるはずの情緒を先取りして演じるべきではないということ。
〈さらに簡潔な答案〉
役者は、感情が意識される前の身体の躍動自体を直に表現すべきであり、事後に獲得される概念としての情緒を演技時に適用してはならないということ。
〈論点チェック〉
役者は、 (ないと減点)
身体のおもむくまま表現すべき ② 「からだの動きそのもの」に言及していれば可
事後的に意識される ①
概念としての情緒(感情)を ①
先取りして意識すべきではない ② 「演技の時点で」なども可