シンボル!
意味
◆抽象的な物事を、それを連想させる具体物で代表させて表すこと。
ポイント
「(具体的な)Aの背景に(抽象的な)Bが連想される」
「(具体的な)Aが(抽象的な)Bを暗示している」
という関係のとき、「A」は「B」の「象徴」だといえます。
よく「ハトは平和の象徴」なんていうよね。
「ハトは平和の象徴」というとき、「ハト」という「具体的なもの」で、「平和」という「抽象的なもの」を連想させている関係にあります。
「象徴」と「記号」の違い
それは「記号」とは違うのか?
「象徴」は「記号」の一種ではありますが、はたらきがけっこう異なります。
「記号」は、「意味」もシンプルなので、それが何を意味しているのかすぐにわかるものです。
その一方、「象徴」は、「意味」の広がりがあるので、それが意味するものをパッとは説明しにくいところがあります。
はて。
たとえば「【赤信号】は【止まれ】の記号である」とか、「試験での【〇】は【正解】の記号である」といったようなことは、「すぐにわかるもの(説明不要のつながり・一言で言えるもの)」です。
ああ~。
すぐわかるね。
その一方、「【校章】は【学校】の象徴である」という場合には、「どうしてかっていうと、【○○○】という理念があるからだよ」という説明が必要になります。
「ハト」は「平和」の象徴であるという場合には、「旧約聖書におけるノアの洪水で、陸地が再び現れたかどうかを調べるために飛ばしたハトが、オリーブの枝をくわえて戻ってきたからであって、第二次大戦後のパリ国際平和擁護会議では、このエピソードをふまえて、ピカソがハトをデザインしたポスターを作って、世界に広まったからだよ」などという説明が必要になります。
そのように、「記号」よりも「象徴」のほうが、一言では言えない広いものを意味していることになります。
たとえば例に挙げた「校章」は、単なる「キャンパス(かたちのあるもの)」を指しているわけではなくて、校風とか、理念とか、生徒や先生の様子といった「抽象的なイメージ」を具体物で暗示している(象徴している)のですね。
ほうほう。
あとちょっとおもしろい説明があって・・・
村上春樹『スプートニクの恋人』には、「記号と象徴の違いを教えて欲しいの」という女の子に対して、主人公が、「象徴は片側通行で、記号は相互通行」と答える場面があるんです。
これは、「記号」と「象徴」の特徴を述べたものとして秀逸な説明です。
たとえば子どもに、「赤信号は?」と聞くと、「止まれ!」と答えますよね。そして逆に「止まれは?」と聞いた場合にも、多くの子どもは「赤信号!」と言うと思います。「記号」はこのように、お互いがお互いを連想しやすい関係にあります。
こんなふうに、双方向の連想関係がスムーズに成り立つものが「記号」です。
一方、「象徴」は、「記号」のような「くっきりとしたイコール関係」とまでは言えません。
ああ~。
たとえば「慶應の学生」に、「ペンが交差した校章は?」と聞けば、「え、うちの校章でしょ」って答えられるだとうけど、「慶應とは?」と聞けば、「頭いい」とか「おしゃれ」とか「福沢諭吉」とか、さまざまな返答が出てくるだろうね。
そういう点で、「【ペンが交差している校章】は【慶應】を象徴している」ということはできるけど、「記号」といえるほどの双方向性はないだろうね。
また決定的な違いは、「象徴」は「具体的なもの」によって「抽象的なもの」を連想させることなのですが、「記号」は、「具体的なもの」を「別の具体的なもの」に置き換えることがあります。
たとえば地図記号では「市役所」は「◎」で表し、「小中学校」は「文」で表します。市役所や小中学校の「建物」が実際にそこに「かたちとしてある」ことを、「◎」や「文」という「別のかたち」で表現しているのであり、これは「かたち」から「かたち」への変換ですよね。
こういう働きは「象徴」にはありません。「象徴」は、「かたち」の背景に「かたちにならないもの」が暗示されているはたらきを示します。
ただ、前述したように、「記号」と「象徴」は、くっきり区別できるほど遠い言葉ではなく、境界域は曖昧です。
「象徴」と「比喩」の違い
「象徴」は、「比喩」とは別物なの?
「象徴」は「たとえ」とは違いますので、「比喩」とは別物です。
「比喩」は、あくまでもレトリックであり、対象を何らかの手段で表現するための修辞法(文の装飾技術)です。
基本的に「比喩」は、〈目の前のもの〉を〈そこにはない何か〉でたとえる技法です。
たとえば、目の前の野球少年に対して、「きみのバッティングは、まるでイチローだな」と言ったら、それは比喩です。その際、「たとえ」は、ある程度わかりやすい実像としてイメージされなければ、比喩として成立しません。
「お前の態度はまるで愛だな」とか、「お前の顔はまるで平和だな」と言っても、「たとえ」のほうに実像がないので、たとえとして成立しません。
したがって、「象徴」と「比喩」には、以下のような相違点があるといえます。
ハト は 平和 の象徴
花束 は 愛情 の象徴
(知覚可能) (観念・概念)
カラス が 胡麻をまいたように(飛んでいる) (比喩)
きみのバッティング は イチローだ (比喩)
(知覚可能) (知覚可能)
ああ~。
「象徴」は、「知覚可能な像」の背景に「かたちにしにくい観念・概念」が暗示されていることだけど、
「比喩」は、「たとえられているもの」と「たとえるもの」が両方とも「知覚可能な像」になっているね。
基本的にはそういう傾向があります。
ここでいう「知覚可能な像」とは、現実的に存在していなければならないわけではありません。アニメや映画の「キャラ」や「セット」であっても、実像としてイメージしうるものであれば問題ないのですね。
ただ、ある表現に対して、「比喩」とも言えるし「象徴」とも言えるというケースは存在しますので、これも明確には区別しにくいものだと考えておきましょう。