記述問題の出題者は〈自分のことば〉を期待しているのか?

合格していく受験生の再現答案を見る限り、積極的に本文の語句を使用し、「自分のことば」は必要最小限にしていることが多いという話は前回にしたとおりです。

もちろん、入試を総合的に考えた時に、「現代文はとにかく部分点を取る」という態度は、戦略的には正しい場合が多いです。現代文という科目単独で見ても、「課題文の語句を組み合わせる」という作業を徹底したほうが得点を取れる受験生もいます。

では、入試作成側は、「受験生自身のことば」を求めてはいないのでしょうか?

いえ、理想論としては「求めている」と考えられています。(正確に言えば、「部分的に求めている」と言えます)

たとえば、東大を例にすると、字数制限のない問題の解答欄は13.4cm×2行です。ここに、常識てな文字の大きさで書き込むと、60字程度になります。文字のバランスから考えると、出題者が「想定」している模範解答は、60字程度であると推測することができます。

しかし、「東進」や「河合塾」といった予備校の解答例を見ると、やや小さめの文字で、75字くらいまでは書き込んでいます。また、高得点を取った受験生の再現答案を見ても、やはり70字は超えて書き込んでいます。平均すると75字くらいです。80字近くまで書き込んでいるものもあります。

とはいえ、「理想的な答案」が80字近くまでいくのであれば、13.4cm×2行はあまりにも小さいものです。せめて15~17cmくらいないと、大きくしっかりとした文字で80字書くことはできません。

この「食い違い」はどうして起きるのでしょうか。

それは、次のような事情が考えられます。

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たとえば、「本文」に、「人は集団で生活をする」と書いてあり、

少し後に書かれている「このことに例外はない」という箇所に傍線が引かれているとします。

そして、さらに文章を読み進めると、「時代を超えた、広く一般的な現象である」と書かれていたとしましょう。

この場合、推奨される記述答案は、

①「人が集団で生活することは、時代を超えた、広く一般的な現象であるということ。」

というものです。本文にある語句をそのまま使用しています。

しかし、この答案が制限字数に入らなかったらどうすればよいでしょう。

②「人が集団で生活することは、普遍的現象である。」

といったように、「本文にはない熟語」を登場させて説明することができます。

このとき、①と②の「意味」は同じです。

意味が同じなのであるから、もし、どちらも解答欄に収まるのであれば、得点は同じになります。

東大、京大といった難関国立を例に取ると、②のような答案を求めてきていると考えられる設問が散見されます。

過去問を分析していく限りでは、おそらく東大は、②のような答案を「模範解答」として想定しており、受験生にも、そのように書くことを期待しています。しかし一方で、①のような答案も、小さい字でうまく詰め込んでしまえば、解答欄に収まってしまいます。その際、「意味」が同じなのであれば、①を減点することはできません

逆に、②のような答案を目指し、「自分のことば」を生成させようとする受験生が、その「生成」に失敗した場合、その論点にまつわる部分点をもらうことはできません。減点もありえます。

だからこそ、欄に収まるのであれば、本文に存在する語句を使用したほうが、リスクの少ない答案作成になります。

以上のことから、このように言えます。

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① 入試作成側は、部分的には「自分のことば」で書くことを求めている。

② しかし、その期待に応えようとして、かえって失点することもある。

③ 少ない制限時間で部分点を取っていくためには、本文中の語句を採用していくほうが安全である。

④ とはいえ、説明に使用できる語句がそもそも本文中に存在しない場合は、自身の語彙力で説明表現を「生成」しなければならない。

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東北大学などは、出題意図を公表しており、そこでは、「一般化」の重要性が繰り返し語られています。「一般化」とは、本文中に列挙されている具体性の強い部分を、まるごとひとつの表現にまとめる作業(いわゆる抽象化)です。

そのことから考えれば、「本文中の語句」のみでは答案が完成できないことが推察されます。

しかし、それは「答案の全体」ではありません。あくまでも答案の一部分についての話です。そうでなければ、現代文の公平な採点は困難になりますから、基本姿勢としては「本文中の語句を使用する」という態度で臨むことが大切です。