ミロのヴィーナス③

②パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初め頃、メロス島でそこの農民により思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーヴル美術館に運ばれたといわれている。そのとき、彼女はその両腕を、故郷であるギリシャの海か陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために。このことは、僕には、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにも思われる。

「どういうことか」の問題は、

③僕はここで逆説を弄しようとしているのではない。これは僕の実感なのだ。ミロのヴィーナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔がそこにはたたえられている。しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。それは、確かに半ばは偶然の生みだしたものだろうが、何という微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。その雰囲気に一度でも引きずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。

「全体性」

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