
各設問の考え方と解答例です。
記述の鉄則は「本文のどこを参照したのかがわかるように書く」ということです。
答案をまとめるにあたっては、ある程度「自分のことば」にする必要がありますが、その構成要素の「もと」は本文に書いてある情報になります。
読解にまつわる問い
〈問〉次の傍線部「同時代にダダやシュールレアリズムが興隆した影響もあるのだろうか」とあるが、「ダダやシュールレアリズム」と『夢十夜』は、どのような点で共通しているのか。
①『夢十夜』は、「こんな夢を見た」という書き出しが有名な漱石の幻想小説である。現代、太古、中世といった時代が入り乱れる時間軸の混乱、脈絡のないシナリオの展開、主客が混交する視点など、夢の特徴を備えた小話十編によって構成されている。全体的に不穏な空気が漂い、死を匂わせる語彙が散りばめられ、暗い色調の文章で組み立てられた作品だ。
②思うに、夢物語という主題は、古くは荘子の『胡蝶の夢』からルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』まで、多くの著者を蠱惑してきた。おもしろいことに、青空文庫の作品目録を眺めると、寺田寅彦、萩原朔太郎、芥川龍之介、和辻哲郎、森鷗外、正岡子規といった面々が『夢』というタイトルの作品を発表していることがわかる。他にも、北原白秋『夢殿』、与謝野晶子『夢の影響』、室生犀星『ゆめの話』、柳田國男『夢と文芸』と、二十世紀前半の多くの日本の文人が夢について書いてきた。
③同時代にダダやシュールレアリズムが興隆した影響もあるのだろうか。西洋において夢という主題が流行した背景には、十九世紀にフロイトが切り開き、二十世紀にユングが発展させた心理学の影響が指摘されている。幾多の政治的革命、科学と哲学の進歩、そして数度の産業革命が重なる近代の大きなうねり。その中で、心の理、つまり「心理」に対しても自然科学の顕微鏡が覗き込むようになったことの帰結なのだろう。特に明治以降の日本では、万民に戸籍が与えられ、「個人」として社会の中で屹立することが制度的に要請されるようになり、新しい自己の在り方が芽吹こうとしていた様子が想起される。

いきなり難しい問題なのですが、これは〈⑨段落〉まで読み進めると、次のように書かれています。
⑨それでも、記述対象となる物語世界を作者の恣意からなるべく切り離し、自律させようとする表現の欲望は、後世のシュールレアリストたちの企てにも通じているように思える。また、ダダとも距離が近く、工務店で買った便器を噴水に見立てて「レディメイド」と呼んだり、『大ガラス』に入った偶然のひび割れを作品の一部として受け入れたマルセル・デュシャンの志向性をも想起させられる。つまりは、強い「個人」が世界から屹立して「創造」するのだという、勇壮であると同時に貧しい、西洋近代の認識論から遠く離れた創作観だ。『夢十夜』とデュシャンやダダの詩人たちに共通するのは、作者が偶然、自律的に存在する世界に遭遇し、それを覗き見した結果を報告するような表現の方法、とも言えるだろう。この感覚は能舞台を半眼で鑑賞している時とよく似ている。

①作者が偶然遭遇した世界
②(その世界は)自律的に存在している
③(作者の意図をはなれて)あるがままに描こうとする
という3ポイントが「要点」になります。
〈解答例〉
作者が恣意的に作品を創造するのではなく、偶然遭遇した自律的に存在する世界をあるがままに描こうとした点。

ああ~。
「西洋近代」の「作品」は、作者が「創造主」となって、世界観そのものをゼロから構築していくようなスタイルが多かったけれども、「ダダやシュールレアリズム」は、「たまたま出会った面白そうなもの」について、できるだけ手を加えずにそのまま作品としていったということだね。

そうですね!
夏目漱石の「夢十夜」も、「見た夢」を「そのまま書いている」ようなスタイルなので、「こういう世界を作ってやろう!」という「恣意的な創造意図」は薄いといえます。
「夢十夜」を読むと、ファンタジックで脈絡がないような感じがしますが、夢って実際のところそんなものですよね。
〈問〉次の傍線部「その過程」とはどのようなものか。
③同時代にダダやシュールレアリズムが興隆した影響もあるのだろうか。西洋において夢という主題が流行した背景には、十九世紀にフロイトが切り開き、二十世紀にユングが発展させた心理学の影響が指摘されている。幾多の政治的革命、科学と哲学の進歩、そして数度の産業革命が重なる近代の大きなうねり。その中で、心の理、つまり「心理」に対しても自然科学の顕微鏡が覗き込むようになったことの帰結なのだろう。特に明治以降の日本では、万民に戸籍が与えられ、「個人」として社会の中で屹立することが制度的に要請されるようになり、新しい自己の在り方が芽吹こうとしていた様子が想起される。
④漱石もまた、この明治の過渡期を生き抜き、その過程を文学作品の中で表現し続けた人だった。というよりは、漱石ほど新旧の認識論の地殻変動に揺さぶられた文学者はいなかったのではないだろうか。

シンプルに直前をまとめればいいですね。
〈解答例〉
明治以降の日本で、万民に戸籍が与えられ、個人として社会の中で屹立することが制度的に要請されるようになり、新しい自己の在り方が芽吹こうとしていた過程。

60字程度にまとめるのであれば、要点を落とさないようにして、次のように圧縮することができます。
〈解答例〉
明治以降、日本人に戸籍が与えられ、個人として社会で屹立することが制度上求められ、新しい自己の在り方が芽吹き始めた過程。
〈問〉次の傍線部「十九世紀のフランスの多くの文学者たち」の作品と『夢十夜』とでは、作品における「夢」の役割にどのような違いがあるか。
⑤西洋における夢の研究について鷗外が書いた短い紹介文である『夢』は一八八九年であり、一八九九年に子規が書いた『夢』は百十四文字のごく短い散文である。ヴィクトール・ユーゴー、ポール・ヴェルレーヌ、アルベール・メラなど、十九世紀のフランスの多くの文学者たちが夢を主題に詩を書いているが、そこで夢はそれぞれの詩の主題(特に恋愛)を際立たせるために用いられているように見える。
⑥漱石が『夢十夜』を書いたのは、強度の神経衰弱に襲われたイギリス留学期の後、日本に帰国して六年が経った時期にあたる。この作品においては、彼の見たという数々の夢の意味解釈は読者に委ねられている。夢を別の主題を描写するためでなく、それ自体を一つの主題として書き切った『夢十夜』は、少し後にモダニズム作家たちが「意識の流れ」の移ろいを記述したり、シュールレアリストたちが自動筆記で無意識に迫ろうとした動きとも重ねて見るとおもしろい。

十九世紀のフランスの文学者たちは、恋愛などの詩の主題を際立たせるために「夢」をテーマにしているけれども、
「夢十夜」は、「夢そのもの」の面白さとか不思議さとかをテーマにしているということだね。

そうですね!
たとえばフランス文学で「君の夢を見た」という詩があれば、その「真の主題」は「君を愛している」とか、そういうことなんですね。
一方で『夢十夜』は、「こんな夢を見た。夢って面白いね」ということに終始しているのですね。「夢」によって「言いたいことがある」というよりは、「夢」そのものを語りたい、という主題で書かれているということです。
〈解答例〉
十九世紀のフランスの文学者たちの作品では、夢は詩の主題を際立たせるために用いられているだけだが、『夢十夜』は、夢がそれ自体一つの主題であるという違い。

60字程度にするなら、次のようにできます。
〈解答例〉
十九世紀のフランス文学者たちの作品では詩の主題を際立たせるために夢を用いているが、『夢十夜』は夢自体が一つの主題であるという違い。
〈問〉次の傍線部について、『こころ』と『夢十夜』とでは、「人間心理の観察」の仕方にどのような違いがあるか。
⑦『夢十夜』の六年後の一九一四年に『こころ』が発表されているが、この作品を対に読むと、漱石が人間心理の観察にただならぬ関心を寄せていたことがよくわかる。およそ十七万字で書かれた『こころ』では、「心」という字を含む語彙が三百九回使われている。そのうち「心持」が五十七回、「心配」が二十九回、「決心」が二十回、「安心」が十七回、「心臓」が七回、「好奇心」「良心」が五回、そして「心」という字が単独の名詞として使われているのは百八回にのぼる。なかでも「私の心」という表現は全編を通して二十四回も現れているが、『こころ』の前半では先生に惹かれる「私」、後半では先生が主語となり、それぞれ自身の心理の推移を事細かく描写している。自分語りの私小説に慣れきっている現代人からしてみたら、不思議なほど現代的な印象を与える小説であるが、百年以上前の明治後期の読者たちにとっては、この執拗な自己観察のスタイルはかなりの違和感と斬新な印象を与えたのではないだろうか。
⑧明治人が近代的な自意識を獲得するプロセスとして『こころ』が書かれたのだとすれば、それとは対照的に『夢十夜』は、意識が前景化する以前の、無意識が支配する領域を描写する作品として浮き上がってくる。しかし、『夢十夜』における漱石の文体と物語りは、狡猾であることを最初に了解しなければならない。なぜならば、実際の夢というものは『夢十夜』に記述されているよりもずっと支離滅裂なものであり、見たとおりの夢の描写というものはもっと読みにくいはずだからだ。だから、『夢十夜』は、たとえ作者が限りなく自然に近づけようと努力したと想像してみても、相当によく編集された夢の記述であると言わざるをえない。なぜなら、それぞれの話にはオチがないようで、ゆるやかな結末がついているからだ。
⑨それでも、記述対象となる物語世界を作者の恣意からなるべく切り離し、自律させようとする表現の欲望は、後世のシュールレアリストたちの企てにも通じているように思える。また、ダダとも距離が近く、工務店で買った便器を噴水に見立てて「レディメイド」と呼んだり、『大ガラス』に入った偶然のひび割れを作品の一部として受け入れたマルセル・デュシャンの志向性をも想起させられる。つまりは、強い「個人」が世界から屹立して「創造」するのだという、勇壮であると同時に貧しい、西洋近代の認識論から遠く離れた創作観だ。『夢十夜』とデュシャンやダダの詩人たちに共通するのは、作者が偶然、自律的に存在する世界に遭遇し、それを覗き見した結果を報告するような表現の方法、とも言えるだろう。この感覚は能舞台を半眼で鑑賞している時とよく似ている。

「対照的」というキーワードがありますので、そこでの対比が答案の核になります。
〈下書き〉
『こころ』は、明治人が近代的な自意識を獲得するプロセスを観察しているのに対し、『夢十夜』は、意識が前景化する以前の無意識が支配する領域を観察しているという違い。

60字程度に圧縮します。
圧縮する時には、細かいことはそれほど気にせず、「要点」を落とさないようにまとめましょう。
「程度」という指示があるときは、過不足は一割以内にしたいです。つまり「60字程度」であれば「54~66字」のあいだにおさめたいですね。
〈解答例〉
『こころ』は明治人が近代的自意識を得る過程を観察しているが、『夢十夜』は意識が前景化する前の無意識の領域を観察している違い。
〈問〉次の傍線部について、日本で古来「超現実的な存在が現実空間に出現する目撃譚が多く語られてきた」のはなぜか。本文中から五十字以内で抜き出して答えよ。
⑩黒澤明の晩年の作品に、『夢十夜』の影響が見られる『夢』という映画があるが、第一話『日照り雨』では狐の嫁入りの行列が登場する。日本には古来、百鬼夜行や百物語のようなフォークロアであったり、夢幻能における亡霊との遭遇のように、超現実的な存在が現実空間に出現する目撃譚が多く語られてきた。だが、善悪の彼岸にあって、ただただ存在しているとしか形容できない存在との邂逅にある種のリアリティが宿るのは、かつては夢というものが現代のように狂気としてではなく、日常生活の根幹を成す大事な一要素と捉えられていたからなのではないか。

直後にある「善悪の彼岸にあって、ただただ存在しているとしか形容できない存在」というのは、「いいとか悪いとかいうことの向こう側にあって(つまり、現実的な良し悪しを超えた領域にあって)、ただそこに何かいるとしか状態の説明ができない存在」ということです。要するに、「狐の嫁入り」や「鬼」や「亡霊」といった「超現実的な存在(現実を超えた存在)」のことですね。
「邂逅」は、「思いがけなく出会うこと」なので、そういった「超現実的な存在」に「偶然めぐり合ってしまうこと」を意味しています。
ということは、「善悪の彼岸にあって、ただただ存在しているとしか形容できない存在との邂逅にある種のリアリティが宿る」という部分は、傍線部の意味内容とほぼ同じことを述べていることになります。
それに続く文脈に「~から」という表現があるのですから、解答はその部分を抜き出せばよいことになります。
〈解答〉
夢というものが現代のように狂気としてではなく、日常生活の根幹を成す大事な一要素と捉えられていたから
〈問〉次の傍線部「文字という低解像度の情報から自由にイメージを紡ぎ出す文学の体験こそが、無意識の自律性を滋養するために不可欠な実践であり続ける」とあるが、それはなぜか。
⑪幻想的な映像が現実を超えるきめ細かさで液晶ディスプレイを覆う今日においてなお、生身の体のみで夢を見て、夢を表現するという行為は、情報機器を要さずに拡張現実や複合現実を感得する最も身近で手軽な術であり続けている。その意味では、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という設問はサイエンス・フィクションというよりは、現実的な問題としてサイボーグ化する私たちに迫っているように思えてくる。これからも、文字という低解像度の情報から自由にイメージを紡ぎ出す文学の体験こそが、無意識の自律性を滋養するために不可欠な実践であり続けるだろう。言葉とイメージの誤差にこそ、未だ誰も見たことのない夢の振幅が潜在しているのだから。

傍線部の直後に「~から」という理由表現があるから、そこが「キーポイント」になるよね。

はい。
そこが「答案の核」になります。
〈答案の核〉
言葉とイメージの誤差にこそ、未だ誰も見たことのない夢の振幅が潜在しているから。

でも、「夢の振幅」とか何言ってるのかわからないね。

少し寄り道しますけど、
「小説」を読むと「その世界」をイメージすることになりますね。これは「読み手が100人」いれば、「100通り」のイメージになります。
「映像」だとそうならないですよね。もう映像として与えられているわけですから。

ああ~。
「イメージ」が固定的に与えられてしまうと、「想像世界」も固定されてしまうけれども、「文字」だと「読む人」「読む環境」「読むタイミング」とかで「イメージ」は千差万別になっていくよね。それを「振幅」と述べていると考えられるね。

そうですね!
したがって、「夢の振幅」をわかりやすく説明すると、次のような答案になります。
「夢」というのも、同段落内にある「拡張現実や複合現実」と言い換えたほうがわかりやすくなります。
「言葉とイメージの誤差」というのも、同段落内の情報をもとにくわしくしておきましょう。
〈解答例〉
解像度の低い文字情報と、イメージの世界の誤差こそ、既存の想像世界とは異なる拡張現実や複合現実を幅広く想像させるから。

解説はここまで!