鏡の中の現代社会

重要語句チェック&設問解説

①自分自身を知ろうとするとき、人間は鏡の前に立ちます。全体としておかしくないか、見ようとするときは、相当に離れた所に立ってみないと、全体は見ることができない。自分の生きている社会を見るときも同じです。いったんは離れた世界に立ってみる。外に出てみる。遠くに出てみる。そのことによって、僕たちは空気のように自明(「あたりまえ」)だと思ってきたさまざまなことが、「あたりまえではないもの」として見えてくる。演劇の好きな人は、「異化効果」というブレヒトの言葉を思い出すでしょう。社会学のキーワードで言うと、〈自明性の罠からの解放〉ということです。

「異化効果」ということばがありますね。

〈異化効果〉
日常生活において当たり前と思い込んでいるものを、初めて経験するもののように扱うことで、従来とは異なる認識をもたらす作用のこと。

これを言い換えているのが「自明性の罠からの解放」という表現なんだな。

そうですね。

評論文では、現代芸術の例として「マルセル・デュシャン」の「泉」とか、「ジョン・ケージ」の「4分33秒」とかが挙げられますね。

デュシャンの「泉」は、そのへんにある便器を展覧会会場に置いたもので、ケージの「4分33秒」は、ピアノの演奏会で、ピアノの前に4分33秒間何もせずに座っているという楽曲です。

なんともすごい。

「展覧会」には、「作者が意匠をほどこした創作物」があることが「当たり前」ですよね。

「ピアノの演奏会」も「演奏者がピアノを弾く」ことが「当たり前」です。

その「当たり前」を「崩す」ことで、「そもそも当たり前って何だろう?」って「考え直す」効果がありますよね。

まあ現代芸術の件は極端な例ですけれども、「外国」に行ったりすると、こういった「異化効果」は何らかのかたちで生じますよね。

②インドやメキシコやブラジルに行った日本人は、その国が大嫌いになるか、大好きになるか、どちらかが多い。僕自身は大好きになったほうですが、嫌いになった人の気持ちはよく分かる。嫌いになることの理由はよく分かる。しかし、どうして自分が好きになったかということは、よく分からない。日本に帰って、「どうだった?」と聞かれて、話すことはほとんど、困ったことや不便なこと、ひどいこととか危なかったことです。

「インド」「メキシコ」「ブラジル」は、日本と比べてみると「困ったこと」「不便なこと」「ひどいこと」「危ないこと」が起こりやすいです。

そういったことが苦手な人は「大嫌い」になり、そういったことを楽しんでしまう人は「大好き」になるのでしょうね。

③後になって振り返ってみると、「途方に暮れる」というところから、僕たちのインドの旅は始まっていた。もしも、この「途方に暮れる」ということがなくてスケジュール通りに運んでいたら、ヨーロッパやアメリカの旅行と同じ、これも一つの旅行にすぎなかったと思う。旅と旅行は違うのです。

④けれども、それは後になってから思うことで、そのときは本当に途方に暮れる。

⑤それで嫌いになったのだろうときかれると、不思議な魅力で、好きになっている。これは矛盾です。

〈問〉傍線部「旅と旅行は違うのです」とあるが、どういうことか。50字以内で説明せよ。

〈解答例〉
旅は途方に暮れるものだが、旅行はスケジュール通りに運ぶものである点で、両者は性格が異なるということ。

「ラベルなし」で、「~のです。」という「統括文」になっているので、最大の根拠は「前文」になりますね。

字数がとても短ければ、「スケジュール」を「計画」などにしてもOKです。

ちなみに、傍線部が「旅と旅行は~」となっているので、「旅の性質 → 旅行の性質」の順番で書くほうが親切です。

⑥⑦⑧段落

⑥異国でいちばんおもしろいのは、バザール、メルカードなどとよばれる市場ですが、そこでは人々がちょっとした値段とか品物のことで、朝から夕方まで飽きることなく交渉し、機知を競い熱弁をふるっています。売る人と買う人の間で交わされる会話の長さは、賭けられている金額の僅かさからみると割に合わないくらいのもので、しかも最後には、相手が気に入ったり入らなかったりするみたいなことで、長時間にわたった交渉の成果を惜しげもなく放棄しておまけしてくれたりします。彼らの意識では、たぶん損得にこだわっているつもりらしいが、無意識にはそういう交渉自体を楽しんでいるように見えます。バザールだけでなくて、例えばバスを待つみたいな時間でも、田舎だったら「午前」に一本、「午後」に一本来るというバスを日だまりで待っているうちに、他愛のない話題で、すぐにみんなで盛り上がってしまう。バスを待つ時間は無駄だという感覚はなくて、待つときには待つという時間を楽しんでしまう。時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか、お金と同じ動詞を使って考えるという習慣は「近代」の精神で(”Time is money.”!)、彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものです。そういえば、僕たちでさえ、旅で不思議に印象に残る時間は、都市の広場に面したカフェテラスで何もしないで行き交う人たちを眺めて過ごした朝だとか、海岸線を日が暮れるまでただ歩き続けた一日とか、要するに、何かに有効に「使われた」時間ではなく、ただ「生きられた」時間です。

〈問〉傍線部「お金と同じ動詞を使って考える」とあるが、筆者はここでどのようなことを言いたいのか。60字以内で説明せよ。

傍線部の直前に、

時間を「使う」とか「費やす」とか「無駄にする」とか

と書いてありますね。「とか」という表現からもわかるように、これは「例示的な表現」です。

例示は、できるだけ「一気にまとめられる表現」を探しましょう。なければ自分でなんとかします。

この段落の最後に、「何かに有効に使われた」という表現があります。このあたりを拾えるといいですね。

〈下書き〉
時間に対し、お金を使用する感覚をあてはめ、何かに有効に使えるもののように扱ってしまうということ。

ここに、「ただ生きるためのものである」という「対比」をもりこめるといいですね。

〈解答例〉
時間は、ただ生きるためのものでもあるのに、お金を使用するように、何かに有効に使われるべきだと考えてしまうということ。

⑦遠くから自分の社会を見る、という経験のいちばん直接的なかたちは、異国で日本のニュースを見る、という機会です。ある朝、小さい雑貨店の前の石段に腰を下ろして、「午前」のバスを待っていると、新聞売りの男の子が来て、「日本のことが出ているよ!」と言う。日本の東京近郊の駅で、電車が一時間くらい遅れたために乗客が騒ぎを起こして、駅長室の窓がたたき割られた、という報道だった。世界の中にはずいぶん異常な国々がある、という感じの扱いだった。僕はその中にいた人間だから、朝の通勤時間の五分十分の電車の遅れが、ビジネスマンにとってどんなにたいへんなことかよく分かる。分刻みに追われる時間に生活がかけられているという、僕にとってはあたりまえであった世界が、「遠くの狂気」のように不思議な奇怪なものとして、今ここでは語られている。

⑧近代社会の基本の構造は、ビジネスです。businessとはbusyness、「忙しさ」ということです。「忙しさ」の無限連鎖のシステムとしての「近代」のうわさ。遠い鏡に映された狂気。僕はその中に帰っていくのだ。

〈問〉傍線部「遠い鏡に映された狂気」とはどういうことか。60字以内で説明せよ。

「遠い鏡」は、文脈上「異国」を示しています。ただの異国ではないので、「(日本と)異なる価値観の国」くらいに書けるといいですね。

「狂気」は「分刻みに追われる時間に生活がかけられている日本という世界」のことですね。

「映された」は、文脈上、「異国から見るとそれが異常だとわかる」と読解できます。

それらをまとめましょう。

〈解答例〉
異なる価値観を持つ国から見れば、分刻みに追われる時間に生活がかけられている日本の忙しさは、異常な精神状態に見えるということ。

「精神状態」って本文にないけど、書いたほうがいいの?

まあなくても点数変わらない気もしますが、「狂気」という傍線部内の語句が、「異常な精神状態」を意味するので、辞書的意味を少し取り込みました。

選択肢問題であれば、

常軌を逸した人々のようにみなされるということ
正常な理性がはたらいていない社会集団に見えるということ

などのように、ざっくりとかみくだいて説明してくる可能性があります。

ふむふむ!

ポイントを言っておくと、記述問題というのは、「本文のどこを重要視したか」を「示す」ことが大切であって、「表現」のレベルでは「こう書かないと点数をもらえない」というのはそれほどないです。

「書き方(表現の仕方)」の「許容度」は高いんです。

どんなに日本語として美しく書けていても、「本文のどこを拾ったのかがわからない答案」にはなかなか点が入りません。この意識が重要です。

おげおげ

⑨ヨーロッパの都市の中心には時計がある。都市の中心の広場には、教会があり市役所があり、そして必ず大時計がある。ヨーロッパの人たちはいつの頃からか、時計を見上げながら「近代」を育んできた。

⑩いつの頃からか? 十四世紀の前半、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェのようなイタリアの諸都市で、初めて「公共用時打時計」が設置された。十四世紀の後半から十五世紀にかけて、ドイツ、オランダ、スイス、フランス、ベルギー、イギリスの都市に、ほぼこの順番で大時計が設置される。人々が毎日の生活の中で、時間を計りながら生きる、という時代が始まった。時間、という枠組みの中に、人間たちの生がおかれた。

⑪それでもこの時代の時計は、一本針だった。「分針」というものはなかった。「分」という単位は、まだ生活に必要なかった。僕たちには、もう時計といえば、二本針があたりまえです。というか、三本針も普通です。

〈問〉傍線部「三本針も普通」とあるが、それはどういうことか。60字以内で記せ。

「一本針」は「時間単位」で、「二本針」は「分単位」で、「三本針」は「秒単位」を意味するわけだから、答案に必須の語は「秒」だね。

そうですね!

この答案には「秒」がないと失格ですね。

何を秒刻みではかっているのかというと、直前には「生活」がありますので、「生活」を拾っておきましょう。

主語は「僕たち」なので、「現代人」くらいに客観化しておきましょう。

〈下書き〉

現代人は、秒単位で時間を計り生活するのが当たり前になっているということ。

ここは、「一本」「二本」との「対比」があるから、対比が織り込まれた答案にしたほうがいいかな。

そうですね!

傍線部の直前に「というか」とあるので、「二本針」の話題を入れるのはマストです。「一本針」のことまでふまえて答案をつくると、次のようになりますね。

〈解答例〉

時間単位で生きていた近代に比べ、現代人は、分単位どころか秒単位で時間を計り生活するのが当たり前になっているということ。

「時間」「分」「秒」

「近代」「現代」

という比較の視点で答案を構成できるといいんだね。

そうです!

⑫メキシコのインディオにとってとても大切な祭りの一つに、「死者の日」というのがあります。十一月一日から二日にかけて死者たちが帰ってくる日で、村の墓場で死者たちといっしょに歌ったり踊ったりして、夜と昼を楽しく過ごします。何日も前から、この日のためにごちそうを作ったりして準備をします。いっしょに過ごす死者の範囲は、「自分の死者たち」で、血縁関係の近さとは必ずしも同じではなく、懐かしいと思う死者たちだということです。もう一つおもしろいのは、ごちそうを「自分の死者たち」の数よりも一人分多く、余分に作っておくのだそうです。どの生者にも呼び出されない孤独な死者たちもいるので、そういう死者たちがうろうろしていると、どこかの家族に呼び出されている死者の一人が、「俺といっしょに来いよ。」と言って誘うのです。そういうプラスワンの死者が来たときに、ごちそうの数に余裕がないと寂しい思いをさせるので、必ず余分に作っておくのです。これはもちろんメキシコの生者の社会の投影です。メキシコでは友人を二人誘うと、その友達とかフィアンセとかを引き連れて、右四人で来たりする。こうして友情が広がってゆく。この社会が「よそ者」にとっても魅力的なのは、こういう感覚から来るように思います。死者の日のごちそうの「余分の一人分」ということは、社会学にとっても究極の理想でもある「開かれた共同体」、「自由な共同体」ということとも関わる話で、たくさんのことを考えさせます。

〈問〉「こういう感覚」とあるが、それはどういうものか。60字以内で説明せよ。

「こういう」という「要約系指示語」がありますね。

①プラスワンの死者 / 想定外の客

②余裕のあるごちそう / ごちそうを余分に作っておく

③友情が広がってゆく

このあたりの論点を拾っておきましょう。

〈解答例〉

ごちそうを余分に作ることで、プラスワンの客が来た時にも対応できるようにし、そのことで友情が広がっていく感覚。

「こういう」が具体的なエピソードを指しているので、「ごちそう」とか「プラスワンの客」といった具体的要素を答案化していますが、さらに抽象化して次のように解答することも可能ですね。

〈別解〉

人をもてなす準備を多めにしておくことで、余計な客をまねくことができるため、よそ者にまで友情が広がっていく(予期せぬ人間関係がもたらされる)感覚。

⑬マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文で、近代社会を形作ってきた基本的な「精神」を解き明かしているのですが、その核心にある典型例として紹介しているのが、ベンジャミン・フランクリン、アメリカの百ドル紙幣の肖像になっている人物の、”Time is money.”(「時は金なり」)という生活信条です。少し引用してみます。「一日に自分の時間の中から一グロート銀貨に相当するだけの時間(それは恐らく数分間にすぎないだろう)を無為に過ごす者は、一年間には六ポンドを浪費する者であり、六ポンドを失う者は、百ポンドを使う権利を失うのである。五シリングの価値のある時間を無為に浪費する者は、五シリングを海に捨てるのと同じことである。五シリングを失う者は、これを生業に用いて回転させることによって得る一切の利益を失う者である。この利益は、青年が相当の年配に達するまでには、巨大な金額に上ることであろう」。時間を貨幣と同じように考えて、このように「使う」精神こそが資本主義社会、つまり「近代」の社会を形成してきたことを、ウェーバーはみごとに解き明かしています。

〈問〉傍線部「近代社会を形作ってきた基本的な『精神』」とあるが、それはどういうことか。60字以内で説明せよ。

「ベンジャミン・フランクリン」の例が終わるところに、「精神」の話題が出てくるね。

まさにそこがキーフレーズです。そこをまとめましょう。

設問が「どういうことか」になっていることに着眼してください。傍線部の終了地点が「体言」であっても、「どういうことか」と問われている場合には「述語化」して解答しましょう。

ポイントはそこに「こうして」という「要約系指示語」があることです。「フランクリンの例示」のなかを指しているのですが、無視はできないので、一般化(抽象化)できそうな話題を拾う努力をしましょう。「無為」とか「浪費」を戒めている話題なのですから、「時間を無駄にせずに使う」くらいに書ければ上出来ですね。

〈解答例〉

時間を貨幣と同じように考えて、無駄にせず使う精神が、資本主義社会すなわち近代社会を形成してきたということ。

⑭死者たちのための食事を何日もかけて準備し、一日をその墓場で過ごし、そのうえ更に、ゆかりもない死者のために余分の一人分までも用意するということは、”Time is money.”の精神からすれば、ムダの上にムダを重ねるようなものです。インディオが、社会の近代化の中で生活を合理化しようとすれば、真っ先に削り落とされるのは、この「余分の一人分」でしょう。けれども、そのときこの社会からは、何かある本質的なものが削り落とされることになるだろう。人生は何かを失うことになるだろう。そぎ落とされたものは、フランクリンの貨幣換算のように、計算してみることもできないし、目にも見えないし、言葉にもほとんどならないものです。

⑮社会の「近代化」ということの中で、人間は、実に多くのものを獲得し、また、実に多くのものを失いました。獲得したものは、計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって明確に表現できるものが多い。しかし喪失したものは、計算できないもの、目に見えないもの、言葉によって表現することのできないものが多い。

⑯「現代」から離れたいくつかの世界の中で経験することは、ネガティブな話が多い。それなのに好きになっているという矛盾の理由を、僕たちは今、言うことができる。これらの世界が嫌いになる理由(よくない点)は、目に見えるもの、計算できるもの、言葉にしやすいものが多い。反対に好きになる理由(魅力)は、目に見えないもの、測定できないもの、言葉では説明できないものが多い。けれども、人間が生きていくうえでいちばん核心にあるものは、目に見えないもの、数量化できないもの、言葉にはなりにくいものが多い。

〈問〉傍線部「人生は何かを失うことになる」とあるが、どういうことか。60字程度で説明せよ。

これまあ、絶対に入れなきゃいけないのは、「計算してみることもできないし、目にも見えないし、言葉にもほとんどならないもの」だよね。

その「三要素」はマストですね。絶対に必要です。

人生は、「計算できない(計量化できない)」「目に見えない」「言葉にならない」ものを失うんですね。

ただ、それだけだと、何を言っているのかいまいちわからないね。

二つ後ろのパラグラフまで読むと、「(世界を)好きになる理由(魅力)」と書かれています。

それが失われてしまうと説明することが可能です。

最後までつなげて読むと、「(世界を)好きになる」ことは、「人間が生きていくうえでいちばん核心にあること」だと読解することができますので、ここにある「核心」という語も使用したいですね。

「核心」は「本質」とほぼ同じ意味で使用されていますので、「核心」か「本質」かどちらかがあればOKです。

〈解答例〉

人は、生きている世界を本質的に好きになるうえでの、計算できず、目に見えず、言葉にならないものを感じなくなるということ。

人生は、世界の核心的な魅力である、目に見えないもの、数量化できないもの、言葉にはなりにくいものを失うということ。

ただし、この文脈は、「時と条件の副詞節」のような論理形式で書かれていますよね。

「 A するとき、 B になる」という論理形式です。

この場合、「A」も答案に入っていたほうが、説明はいっそう充実します。

傍線部の意味内容そのものではないので、あくまでも「補足材料」になりますが、字数が許すなら入れたほうがよいです。

「A」に該当するのは、「生活を合理化し、余分な一人分を削り落とすとき」ってことだね。

そうですね! 

「余分な一人分を削り落とすとき」は、比喩的な表現になりますから、「見知らぬ他者をもてなす余裕を失うとき」とか、「人間関係の広がりを無駄とみなしてしまうと」とか、何らかの説明表現に直せるとGOODです。

この部分は「補足」に当たるところなので、「要はどういうことか」が一致していれば大胆に言い換えて問題ありません。

〈長い解答例〉

生活を合理化し、見知らぬ他者をもてなす余裕を失うと、人は可視化、数量化、言語化できない世界の魅力に気づかなくなる点で、人生の核心を損なうということ。

さらに言うと、これを60字に収めることも可能です。

たとえば、次のような圧縮です。

〈解答例〉

生活を合理化し、見知らぬ他者をもてなす余裕を失うと、人は人生の本質にあるはずの、世界の形而上の魅力がわからなくなるということ。

ああ~。

「可視化、数量化、言語化できないもの」は、確かに「形而上のもの」だといえるね。

記述であればここまで抽象化する勇気はなかなか持てませんが、選択肢問題なら「本文に即している」とみなすべきワードですね。

⑰僕たちは今、「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく、近代の後の新しい社会のかたちを構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。積極的な言い方をすれば、人間がこれまでに形成してきたさまざまな社会のかたち、「生き方」のかたちを自在に見はるかしながら、本当によい社会のかたち、「生き方」のかたちというものを構想し、実現することのできるところに立っている。

⑱このときに大切なことは、異世界を理想化することではなく、「両方を見る」ということ、方法としての異世界を知ることによって、現代社会の〈自明性の檻〉の外部に出てみるということです。さまざまな社会を知るということは、さまざまな生き方を知るということであり、「自分にできることはこれだけ。」と決めてしまう前に、人間の可能性を知るということ、人間のつくる社会の可能性について、想像力の翼を獲得するということです。

〈問〉傍線部「方法としての異世界」とあるが、それはどういうことか。60字程度で説明せよ。

「傍線部の終点」が「体言」なのに、「どういうこと・・か」と問われているね。

そうですね。

「どういうもの・・か」であれば、「~という異世界。」というように、「体言」で締めくくればOKです。

しかし、「どういうこと・・か」と問われている場合は、述語化して解答しましょう。

ここは直前に「両方をみるということ」と書かれているので、この「両方」の内容を書けばOKです。

〈下書き〉
異世界を理想化するのではなく、自分の生きる世界と異世界の両方を見るということ。

まだまだ書けるね。

ポイントは「方法としての」ですね。

「方法」や「手段」というのは、「何かを成し遂げるためのもの」ですよね。

ということは、「自分の生きる世界と異世界の両方を見る」ことによって・・・・・・成し遂げるべきことがあることになります。

「~ことによって、現代社会の〈自明性〉の檻の外部に出る」って書いてあるね。

「現代社会の自明性の檻の外部に出る」ことが「目的」だといえるね。

〈下書き〉
現代社会の自明性の檻の外部に出るために、異世界を理想化するのではなく、自分の生きる世界と異世界の両方を見るということ。

さらにいうと、「現代社会の自明性の檻の外部に出る」のは、「何のため」なのでしょうか・・・。

ああ~。

最後まで読むと、「想像力の翼を獲得するため」だと言えそうだ!

そうですね!

「自明性の檻から出る」ことによって、

「想像力の翼を獲得する」ことが最終目的だと言えそうです。

それらの「目的」のほうを答案に入れると、いっそうよい答案になりますね。

〈解答例〉
現代社会の自明性の檻の外部に出て、想像力の翼を獲得するために、異世界を理想視せず、自分の生きる世界と異世界の両方を見るということ。

でも、「檻」とか「翼」って「THE・比喩」だよね。

ですね!

明らかな比喩です。

したがって、意味の通る説明表現になおして清書しましょう。

〈解答例〉
現代社会の自明性にとらわれず、人や社会の可能性について想像の幅を広げるため、異世界と自分の生きる世界をともに客観視するということ。

ああ、「異世界を理想化しない」というのは、「特別なものとして見ない」ということだから、つまり「自分の世界も異世界も公平なものとして見比べる」ということになるよね。

だから、それを「ともに客観視する」と説明することができるね。

そうですね!

「公平に見比べる」などでもよいですね。

私大であれば「恣意性を排して相対化する」などのような選択肢にしてくる可能性もあります。

ああ~。

「主観的で勝手気ままな見方をしないで、客観的に見比べる」という意味になるから、本文の主張と一致しているね。

選択肢は本文にない語句を用いて説明してくることも多いんだね。

選択肢はあくまでも「選択肢同士の相対評価」ですからね。

すべての選択肢において「本文に最も近い・・もの」が正解になります。

ふむふむ。

本文の内容に戻ると、このような筆者の考え方を「文化相対主義」といいます。

それと反対の立場にあるのが「自文化(自民族)中心主義」ですね。

重要語句として覚えておきましょう。

【文化相対主義】

すべての文化には固有の価値があり、そこに優劣はないとする考え方。

⇔ 自文化(自民族)中心主義
 エスノセントリズム

「自文化中心主義/自民族中心主義」は、「エスノセントリズム(Ethnocentrism)」っていうんだね。

「文化相対主義」のほうには、該当するカタカナ語はないの?

カルチュラル・レラティヴィズム(Cultural Relativism)

といいますが、入試現代文ではあまり目にしないので、カタカナ語としては重要語扱いではありません。

エスノセントリズムのほうがよく出てきますね。

今日はここまで!