相手依存の自己規定

「相手依存の自己期待」の補足説明です。

①段落

 私がアメリカのある大学に滞在しているとき、日本から、友人の一人が、私の興味をもちそうな話題を選んで新聞の切り抜きを送ってくれた。その中に、近頃の中学生・高校生の悩みとして、「自分の心をすっかり打ち明けてとことんまで話のできる相手が誰もいないこと」が大きな比率を占めているという記事があった。学校の先生は悩み事の相談に乗ってくれない。同級生は皆受験のライバルで、心を打ち明けることなど思いもよらないし、両親はただ勉強白の一点張りで、話にもならない。自分はこの孤独にもう耐えられないというのである。

「この孤独」については、30字くらいで端的にまとめると、次のようになりますね。

〈解答例1〉
自分の心をすべて打ち明け、語りつくせる相手がいない孤独。

〈解答例2〉
自分の心の全てを伝えて徹底的に話す相手が存在しない孤独。

ああ~。

何もかもさらけだして話す相手がいないことを「孤独」って言ってるんだね。

②③④段落

 私はたまたま担当していた大学院の講義が、日本人の自我の構造と言語表現の関係に触れるものだったので、早速この話を学生たちにして、どう思うかと尋ねてみた驚いたことに、何人かの学生がおかしくてたまらないという様子で笑いだしたのである。私が理由をただすと、一人が次のように答えた。

 私は、本当に大切なことは友人はもちろん親にも話したことがない。先生や他人と相当深くいろいろ議論はするが、それは自分の心の中にあるだいじな問題について自分で決定する手がかりを得るためであって、問題そのものを打ち明けることはしないし、ましてその解決を他人から教わろうとは思わない。個人が本当に個人である部分は、他人に言えない部分であって、それを明かすことは自分の存在を危険にさらすようなものだ。だから何もかも心をすっかり打ち明ける他人がいないことで悩むなど愚の骨頂である、というような答えであった。

 私は少々唖然として他の者の意見をも求めてみた。女子学生の一人は、自分も大体同意見で、本当に自分にとって大切なことは夫にも決して言ったことがないと言う。そして自分以外の人間に、自分の本当の気持ちなど分かるはずがないと付け加えるのだった。

 これは一つの挿話にしか過ぎないないのであるが、しかしこの話ほど、私がこれから述べようとする、日本人にとって、自分とは何か、相手とは何かの問題を解明するための適切な糸口を与えてくれるものもないと思うのである。

ふーん・・・。

アメリカ人は

「相手に心をすっかり打ち明けることなんてない」
「相手に自分の気持ちなんて分からない」


って考えているんだね。

そうなりますね。

筆者はこのエピソードから、「日本人にとっての自分・・、そして相手・・というものについて語ろうとしているんですね。

⑥段落

 私たち日本人は、絶えず自分の本当の気持ち、意のあるところを誰か適当な他人に分かってもらうことを求めているらしい。他の人に賛成してもらいたい、同意してほしい、共感を味わいたいという願望は、私たちの他人との関係の中で手を替え品を替えて各種の行動に現れてくる。何もかもぶちまけてしまいたい、すっかりしゃべって胸がせいせいするというような態度、日本の犯罪者の自白率が高いという事実、外交の舞台でしばしば問題になる日本人の機密や秘密を保持することの難しさ、それらは全て、重大な問題を一人心にしまって、それの重みにじっと耐えていくという固く閉ざされた自我の仕組みが、私たち日本人には極めて弱いためなのではないか思われる

「~のではないか」という「統括文」に、「思われる」という「主観表現」がついています。

とても重要な文になりますね。

日本人は、「賛成してほしい」「同意してほしい」「共感を味わいたい」っていう気持ちがあって、「自分だけの気持ちを、自分だけの心にしまう」ということが不得意なんだね。

そうですね。

日本人は「自白率」も高く、「機密や秘密を守ること」も難しいと指摘されています。

「一人の心に問題を閉じ込めて、その重みに耐える」という「自我の仕組み」が、「日本人には弱い」と述べられていますね。

本当にそうなのかどうかはわからないけど、読解においてはひとまず筆者の意見に集中しておこう。

そうですね。

「本当にそうなのかな?」と思うことは非常に大切な思考回路なのですが、ひとまず自分の意見はわきにおいて、「筆者の意見」に集中しましょう。

⑦段落

 今述べたような極めて印象的で大づかみな日本人の自我の構造は、私の考えでは、私たちの人間関係の把握の様式と深い関係がある。それは、日本人は自分が何であるかという自己同一性の確認を他者を基準にして行う傾向が強いからである。他者の存在をまず前提とし、自己をその上に拡大投影して自他の合一を図るか、他者との具体的な関係において、自己の座標を決定しながら自己確認を行うかのどちらかの方式をとる。どちらも相手を基準とする自己確認である点では共通のものと言える。

「自己同一性」という語が出てきた。

入試現代文における「超重要語」だ!

外来語で言うと「アイデンティティ」だね。

アイデンティティ(自己同一性)

① 自己の証明・自分らしさ・ 自己の独自性
② 帰属性・帰属意識

「自己同一性」の「同一」ということについては、主に2つの意味があります。

ひとつは、「自分にまつわる事実」と「自分自身の認識」が「同一」であることです。

「自分は高校生である」という事実と、「自分は高校生である」という認識が「同一」である場合、その人は「アイデンティティが確立している」といえます。

逆に、「高校生」であるのにもかかわらず、「自分は幼稚園児である」と認識していたら、その人は「アイデンティティが確立していない」といえます。この状態を「アイデンティティ・クライシス(アイデンティティの危機)」と言います。

心理学系統の文章だと、この①の意味で使用していることが多いですね。

さて、いま「自分にまつわる事実」と言いましたが、この「事実」というのは、多くの場合、「短期間では変化しないもの」ですね。つまり、「自己同一性」における「同一」のもうひとつの意味は、「昨日/今日/明日」の自分にとって「同一」であるものです。

たとえば、「高校生である」「吹奏楽部である」「川越市に住んでいる」といったものは、「過去/現在/未来」でやすやすと変化しませんよね。

みなさんが持っている「身分証(アイデンティティ・カード)」には「名前」とか「所属する学校」とかが明記されています。これらは毎日変化するものではなく、ある一定期間は変化しないものです。そういう「自分にとっての変化しないもの(同一であるもの)」が、個人の「アイデンティティ」を構成していきます。

「自分にとっての変化しないもの」って、多くの場合は、「名前」「学校」「部活動」「住所」といったものですよね。これらのほとんどは、「所属」とイコールです。

つまり、「アイデンティティ」はどうしても「所属する集団」によって規定されていくのです。その意味で、「ある集団」への「帰属性」「帰属意識」そのものを「アイデンティティ」と呼ぶこともあります。

たとえば、

よしおのアイデンティティは陸上部にある。

という場合、「帰属性」「帰属意識」と訳しても問題ありません。

社会学系統の文章の場合、この②の意味で使用されていることが多いですね。

日本人は、この「アイデンティティ」の確立において、「相手」を前提にすることが多いんだね。

この文脈でいうと、「自己同一性」は、①の意味で使用している感じがするね。

そうですね!

この段落における「自己同一性」は、「自分にまつわる自己認識」という意味あいで使用していますね。

本文でいう、

他者の存在をまず前提とし、自己をその上に拡大投影して自他の合一を図る

というのは、たとえば「ヤフーニュース」の「コメント欄」をつい見てしまうことなどに現れているだろうね。

「ある事件」を知った時の「感想」は、「自分独自」のものを持てばいいのに、日本人はついつい「他者の意見」を参考にしたがる。

「他者の意見」の中から、「そうだなあ」と思うものを拾っていって、自分の意見にしていくようなイメージだよね。

そうですね。また、それに続く、

他者との具体的な関係において、自己の座標を決定しながら自己確認を行うか

というのは、「自分とは何か」という定義が、多くの場合「相手との関係」によって規定されることを意味しています。

たとえば、みなさんは「中3」のときは「最上級生」でしたが、「高1」になると「後輩」になります。

「中3」のときは「中1・中2」という「相手」がいるからこそ、「最上級生」と規定されますし、「高1」の場合は「高2・高3」という「相手」がいるからこそ「後輩」と規定されます。

こういうことは、たしかに、日本では多いでしょうね。アメリカでは「先輩」「後輩」という単語はありません。「兄」「弟」「姉」「妹」といった単語もありません。相手との相対関係によって規定される「呼び名」が多いのは日本の特徴だと言えるでしょう。

このように、日本人は「自分の意見」を持つ際にも「他者の意見」にふりまわされているし、「自分とは何か」という「個の特性」を考える際にも、「他者との比較」の観点が介入してくる。

どちらにしても、「他者(相手)」がいることによって「自分の思い」「自分の特性」が決定されていくんだね。

まさに「相手依存の自己規定」だといえるなあ。

⑧⑨⑩⑪⑫⑬段落

 今述べた点を、もっと具体的な事実に基づきながら説明しよう。

 現代の標準日本語には、話し手が自分を表す一人称代名詞、そして相手を示す二人称代名詞が、それぞれ数個もあることが知られている。ところが実際に、ある特定の人物を限って、その人が日常の生活の中で自分および相手をどのように言語で表現しているかを調査してみたところ、意外な結果が出たのである。

 第一に人称代名詞を使用する範囲が意外に限られているという事実である。それでは代わりに何を使っているかというと、自分および相手の、広い意味での資格や地位を表す言葉が使用されていることが分かった。

 例えば、一家の長である男性は、子どもと話すときには、自分のことを「お父さん」とか、「パパ」と言う。兄は弟妹に向かって、「お兄ちゃんのボールペンどこへやった?」などと言うのである。しかし弟が姉に対して自分のことを、「ねえ、弟ちゃんにこれちょうだいよ。」というようなことは言わないし、男子が母親に向かって、「息子は出かけるよ。」とも言わない。このような場合には、「僕」「私」のような代名詞を使うのである。

 相手に直接呼びかける場合にも、お父さん、お母さん、おじさん、兄さん、姉さんなどは用いられるが、弟、妹、息子、娘、孫、甥、姪のような言葉は、いかに変形しても使用することはできない。このような親族に対しては、名前が二人称代名詞を使うのが普通である。その反面、親や兄姉には人称代名詞を使って呼びかけることはまれである。

 こうした相手および自分を示す言葉の使い方は、家の外での社会的な場面においても見ることができる。学校の先生は生徒に対して自分のことを先生と言う。生徒のほうは、先生を先生と呼んで、あなたなどとは言わない。会社でも、目上を職名、地位名で呼ぶのは普通であるが、二人称代名詞には用いられないのである。

「意外な結果」とありますが、「意外」というからには、「自然に予想されること」とは「別の結果が出た」ことになりますね。

ここでは「ところが」の前に着目すると、

現代の標準日本語には、話し手が自分を表す一人称代名詞、そして相手を示す二人称代名詞が、それぞれ数個もあることが知られている。

とあります。

どんなものがありますかね?

一人称代名詞なら・・・

わたし
おれ
ぼく
あたい
おいどん
せっしゃ
おら
わい
うち

とか・・・たしかにいろいろあるよね。

二人称代名詞なら・・・

あんた
おまえ
きさま
きみ
おぬし

てめえ
貴殿

とか・・・まあいろいろあるね。

こんなにいろいろあるんだから、状況に応じて「人称代名詞」を使いわけているって思いますよね。

でも、実際には、使用される範囲は限定されていたんですね。

じゃあ、どうしているのかというと、人称代名詞のかわりに、「お姉ちゃんはね、こう思うの」とか、「社長のおっしゃることは、そのとおりです!」とか、「資格や地位」を示す語が用いられていたんですね。

そうすると、「この調査結果がなぜ意外なのか」と問われた場合、ひとまず次のように解答することができます。

〈問〉なぜ「意外な結果」なのか?

〈解答例1〉
人称代名詞の多様さにもかかわらず、実際にはその使用の範囲が限られ自他の資格や地位を表す言葉が用いられていたから。

たしかになあ・・・。これ古文の時代からそうだよね。

中将殿・・・」とか「中宮のおはしませば」とか、「地位や役職」で呼ぶことが多いよね。

そうですね。

そもそも「相手に応じて人称を変える傾向」があるから、「人称代名詞」が多いんですよね。

たとえば「拙者」は、「つたない者」という意味です。これは相手を高めて自分を低める言い方なので、「相手あっての人称代名詞」だと言えます。

英語では、相手がだれであっても「私」は「I」ですし、相手は「You」です。

ですから、人称代名詞が複数あるということだけみても、「日本は相手に応じて自他の呼び方を変えている。相手依存の自己規定をしている」と言えそうです。

ところが、その「複数の人称代名詞」自体、いつも使えるわけではないってことがわかったのですね。

たとえば、「私」という一人称代名詞は、「家庭内の年上年下に対して話すとき」にはあまり使用されませんが、「家庭内の年下年上に対して話すとき」には用いられます。

また、「あなた」という二人称代名詞は、「目上の者」に対しては使用されず、たいていは「先生は~」「社長は~」といったように、「役職名」で呼ぶことが一般的です。

このように、「人称代名詞」が「複数」あること自体、日本人の特性を示しているといえるのに、実際には、それ自体「使用できる状況」が限定されていて、「資格や地位」で呼ぶことが多く見られたのですね。

「役職名」なんてもう無限にあるわけだから、「人間を立場で見ている」ことがよくわかるよね。

しかも、調査によると「年上」や「目上」を呼ぶ時に「役職名」が使われるということだから、「相手が自分の立場より上かどうか」ということが、「呼び方」に反映されているといえる。

そうすると、「思っていた以上に、日本人は相手依存の自己規定をしている」と筆者は感じていると言えますね。

⑭⑮⑯段落

 そこでこのような原則に基づいて、一人の個人が生活の中でどのくらいの異なった自己の呼び方をするものかを、次に見てみることにする。

 年齢四十歳の小学校の先生Aには妻と男の子一人、そしてまだ大学生の弟がいる。ほかに近い親族としては別居している父と兄がいる。この先生がいくつ自分の呼び方を持っているかというと、少なく見て七種もあるのである。自分の子に対しては「お父さん」、弟に対するときは「兄さん」、妻と話すときは「俺」、校長に対しては「私」であることが分かった。

 この人は、話の相手が誰で、自分に対してどのような地位、資格を持っているかを見極めたうえで、その場に最も適切な言葉選びをしている。つまり、相手の性質が自分の自己を言語的に把握する角度に直接反映するのである。「自分は何者であるのか」ということが、「相手は誰か」に依存する構造になっていると言える。このような言語による自己把握の相対性は、少なくとも西欧諸国の言語には全く見られないことは特筆に値する

調査の結果について述べる際に、筆者は「第一に」と言っていましたよね。

そのうえで、ここには「次に」という表現があります。

内容を見ても、「~であることが分かった」とあるので、ここも「調査の結果」について話していることがわかります。

ということは、先ほどの「意外な結果」について問う問題に対しては、ここの内容を含めたほうが、いっそう適切だといえますね。

〈問〉なぜ「意外な結果」なのか?

〈解答例2〉
多様な人称代名詞があるが、その使用範囲は限られ自他の資格や地位で呼ぶことが多く一人の個人はいくつもの呼称を相手に応じて使いわけていたから。

ああ~。

ここまで書いたほうが、「調査結果」のすべてに言及したといえるね。

どのへんまでが「意外」だったのか明確に示されていませんので、〈解答例1〉と〈解答例2〉はどちらも合格点であると言えますね。

ただし、「第一に~」「次に~」と書かれていて、「~であることが分かった」とありますから、⑭⑮⑯段落も「調査結果」について話していることは明白ですね。

そうすると、⑮⑯段落の内容を拾って、「一人の個人が、相手に応じて自分の呼び方を変えている」という論点を解答に取り込んだほうが、「調査結果」のすべてに言及しているといえます。

したがって、あえて優劣をつけるなら〈解答例2〉のほうが高得点になります。

ふむふむ。

⑯段落には、

このような言語による自己把握の相対性は、少なくとも西欧諸国の言語には全く見られないこと特筆に値する

って書いてあるね。「特筆に値する」っていうことは、かなり重要な部分だといえるね。

そうですね。

「言語による自己把握の相対性」というのは、もし設問で問われるなら、直前をまとめておけばいいですね。

ポイントなんですけど、「相対」を説明する問題に対する答案には、「相手/他者」「比較/比べる」「(他との)関係」といった語が入りやすいですよ。

そもそも「相対」という語が、「他との関係があって成立するさま」を示していますので、「その言葉を知っている」ということが答案に生きるようにしたいですね。

〈問〉「言語による自己把握の相対性」とはどういうことか。

〈解答例1〉
相手の性質が自分の自己を言語的に把握する角度に直接反映するということ。

〈解答例2〉
「自分は何者であるのか」ということが、「相手は誰か」に依存する構造になっていること。

まあまあの答案ですね。

でも、〈解答例1〉は、「言語的に把握する」というところが、ほぼ傍線部のままで「説明を深めている」とは言い難いし、「角度に直接反映する」というところが比喩的で、意味がわかりにくいね。

一方で〈解答例2〉は、「言語」の論点に言及していないから、傍線部の「言語による」という部分を無視してしまっているといえるね。

そういう点では、〈解答例1〉も〈解答例2〉も「高得点」とはいえないですね。

いま二匹が指摘した「なんとかすべきポイント」を修正すると、次のような答案が成立します。

〈問〉「言語による自己把握の相対性」とはどういうことか。

〈解答例3〉
相手に応じて自分の呼称を選択するように、他者視点での自己理解をすること。

〈解答例4〉
自分の存在を言葉で把握する際、相手の立場や関係性に依存しているということ。

〈解答例1〉や〈解答例2〉よりも、高得点になります。

もうちょっと後まで読めば、別の表現での答案も作成できますね。

読んでいきましょう。

⑰段落

 英・独・仏のようなヨーロッパの言語では、話者が自己を言語的に表現する角度は、原則として一定不変であって、用語としては一人称代名詞のみが用いられる。私はこの型の自己把握を絶対的な自己表現と呼んで、日本型の相対的自己表現と区別したのである。

ここにも「角度」という語が出てくるね。

日本型の自己理解は、「相手」にいっかい飛んで、そこから自分を定義するような「角度」になるから、いわば「180°」の角度とでもいえるだろう。その場に「さまざまな相手」が複数いたりすると、「角度」はさまざまな方向から反射されることになるから、いろんな線が飛び交っているような複雑な「角度」になる。

それに対して、ヨーロッパの言語は、「いっかい相手に飛ぶ」ということをせずに、「自分だけ」で定義できてしまうわけだから、いわば「0°」の角度とでもいえるだろうね。

そうですね。

ヨーロッパの言語では、相手次第で呼び方が変わるということがありませんから、「角度」は常に一定であることになりますね。

⑱⑲⑳段落

 さて、このような相手に依存する自己規定とは自己が自己自身を見る視点を他者の立場に移すことを意味すると考えられる。人は自分を「お父さん」として把握できるためには、自分の子供の視点から自分を見る必要がある。また、ある人が先生と自称しうるためには、生徒の立場から自己を見直さなければならないからである。

 相対的な自己表現の言語習慣は、かくして必然的に相手の立場からの自己規定他者を介しての自己同一性の確立という心理的パターンにつながっていくものと言えよう。これは自己と相手の立場の同一化と称することもできよう。自分が具体的な自分であるためには相手が必要であり、その相手を通しての確認が要求されるからである。

 私が初めに、自分の気持ちを打ち明け、理解し同調してくれる者がいないという、最近の中学生・高校生の悩みの中に、アメリカ人の理解できない自我の構造が現れていることを指摘し、このことが日本人の人間関係の把握の様式および言葉の使い方に深いつながりがあると述べたのは、このことを指していたのである。

さきほど、

「言語による自己把握の相対性」とはどういうことか。

という問題を検討しましたけれど、〈⑱⑲段落〉あたりまで読むと、そのまま解答に使用できる表現が存在しますね。このあたりの表現を拾うと、たとえば、

自己表現の言語習慣をとおして、相手の立場からの自己規定をするということ。

とか、

自己表現の言語習慣において、他者を介しての自己同一性の確立をするということ。

といった解答が成立します。

〈解答例3〉や〈解答例4〉あたりと同水準の得点が入りますね。

記述解答って、「ここを必ず使わなきゃいけない」っていうものでもないんだね。

「意味内容を読解できているかどうか」が評価されるので、書き方はいろいろ出てきますね。

読めていることがわかる答案になっていれば、点数は入りますよ。

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