
入試過去問演習その③です。
問1
(1)偶然
(2)滑
(3)故障
(4)観念
(5)埋
問2
a 猶予はない
正解は「ウ」の「先延ばしできない」になります。
b なくもがな
正解は「エ」の「ないほうがよい」になります。

古文では、「終助詞」の
「もがな」
「もがも」
「がな」
「がも」
「もが」
などは、「願望」「希望」を意味します。
(ちょうど古文でやっていませんか?)
主に「他への願望・希望」を示し、「~があったらなあ」「~があるとよいなあ」などと訳します。
たとえば、現在では、「言わずもがな」という言い方が残っていますね。これは「言わないほうがよい」「言わないのがよいなあ」といった意味です。
本問での「なくもがな」は、形容詞「ない」に「もがな」がついているので、「ないほうがよい」「ないとよいなあ」といった意味になります。

では、「問3」から読解系の問題に入ります。
不正解のパターンは次の4つに注意しましょう。
(1)捏造
(2)混乱
(3)極端
(4)応答不一致
くわしくは、「解答の考え方(選択肢)に示してあります。
問3
年齢のわからない女が店番をしており、私は妻の注文を伝えた。奥のものかげから動く気配がして、老人が出てきた。(ア)まるで、ほこりをかぶった彫像が眠りから醒めて近寄ってくるようだった。そして左手で儀式のように丁寧に妻の手を取り、目をつぶって、手首から指先へと自分の右の手のひらを滑らせた。それが挨拶でないことはすぐにわかった。老人は店番の女に声をかけて、なにやら細かな指示を出した。女があちこちの引き出しを開けて品物を指示どおりにそろえる。
「ほこりをかぶった」「眠りから醒める」という比喩から考えられることは、「非常に長い時間そこにあったものが動き出した」ということです。
その読解に近い解答を探しましょう。
選択肢検討
選択肢ア
◆「確かな技術の持ち主」が「応答不一致」で×です。

この後、老人に確かな技術があったことは判明しますが、「この比喩」から読み取れるものではありません。
選択肢イ 正解
◆「年季を積む」という表現は、問題なく対応していると言えます。傍線部の「ほこりをかぶった彫像」が「長い時間が経過している」ことを意味していると言えるからです。
◆「得体のしれない」は、問題なく対応していると言えます。傍線部の「眠りから醒めて近寄ってくる」が、「次に何をするのかわからない様子」を意味していると言えるからです。
選択肢ウ
◆「誇り高き職人」が「応答不一致」で×です。もう少し後まで読めば、「素晴らしい手袋」を用意してくれる職人であることがわかるので、この老人そのものが「誇り高き職人」である読解することは間違いとは言えませんが、少なくとも、この「動き出した瞬間」に「誇り高き職人だ!」と読み取れるわけではないので、この場面の解釈としては不適です。
◆「店が繁盛していた昔」も、本文にその話題がありません。「根拠なし」で×です。
選択肢エ
◆「時代から取り残され」「仕事が少なくなっている」という意味内容が「本文根拠なし」で×です。老人の仕事が少なくなっているという「事実描写」はありません。
問4

「言えるのはなぜか」という設問です。
「言えるのはなぜか」のパターンは、「原因・理由」「目的・意図」を問う通常の「なぜか」とは異なり、「具体的な意味内容」を答えることが解答の核になります。
傍線部はたいてい「わかりにくい言い回し」になっているので、その主張の中身を探しましょう。
娘と妻がイタリアから帰ってきた。
私「あの手袋屋は見つかったかい。」
妻「見つからなかったけれど、ローマでいちばん古い手袋屋さんで買い物をしたわ。」
私「じゃあ、あの老人には会えなかったわけだね。」
妻「お店が見つかったとしても、もう会えないかもしれないわ。すごい年でしたもの。」
あの老人から私たちは買い物をした。しかし(イ)本当は何を買ったと言えばよいのだろう。「思い出を買った」とも言えるし、「満足を買った」とも言える。買い物をするという行動の今までの生活の中で全く知らなかった意味を経験したということが、ローマで買った手袋の価値であると思う。
〈傍線部イ〉のように「言っている理由」が問われているので、「なぜか」の問題です。
さて、ここでは、直後に理由がズバリ書いてあります。
「思い出を買った」とも言えるし、「満足を買った」とも言える。買い物をするという行動の今までの生活の中で全く知らなかった意味を経験したということが、ローマで買った手袋の価値だと思う。

実際に買ったのは「手袋」なのですが、手袋という「商品」以外にも、筆者は「思い出」や「満足」などを「手に入れた」のですね。
言い換えれば、「お金を払って、結果的に商品(手袋)以外のものまで手に入った」と思っていることになります。
記述で書くなら、次のような答案が考えられます。
記述想定答案
手袋屋での買い物の経験によって、手袋という商品以外に思い出や満足まで手に入れたため、買ったものを一つにしぼれないと思ったから。
では、選択肢を見比べてみましょう。
選択肢検討
選択肢ア
◆傍線部直後にある「思い出を買ったとも言えるし満足を買ったとも言える」という「重要論点」を拾っていません。

その「重要論点」にまったくふれないと、「何を買ったのかわからない」という表現によって「筆者が何を言いたいのか」という「具体的意味内容」に言及していないことになります。
「応答不一致」という観点で×になります。
選択肢イ
◆「互いに~吟味」が×です。「妻」は特に吟味していません。
◆「十分に満足できるものを買うことができた」ときっぱり言い切っているところが×です。「もの」は「手袋」を指していると考えられますが、「手袋だけを買ったわけではない」というのが、筆者の言いたいことなのです。したがって、「何を買ったのかわからない」という傍線部の主張と逆行しています。
選択肢ウ
◆「手袋の価値」が小さいとは言っていませんので「根拠なし」で×です。
◆〈選択肢ア・イ〉と同様に、「何を買ったのかわからない」という、傍線部内の重要な論点に言及していませんので、「問いに答えていない」という観点でも×です。
選択肢エ 正解
◆「具体的な結果」というのは、「手袋を買った」という物理的なモノの入手を指していると考えられます。その「具体的な結果」でもっては「表せない」と述べているので、この選択肢が最も近いです。
問5
傍線部に「この」という指示語がありますので、指示語を解決する典型的な問題です。
「この」が何を指すのかを正確につかんでおきましょう。
「買う」とは物を入手する手段である。このテーゼを私は正しいと信じて永年生きてきた。自分で満足できる物が手に入れば買い物は成功だと信じてきた。買い物という消費行動のこの観念からすれば、買い物をするという時間は無意味である。目的と結果の間に挟まる「(b)なくもがな」の中間過程にすぎない。そこでは消費行動は、目的と手段を分かつことができる文化に属している。これを技術の文化と言ってもいいが、本当はこうである。「目的と手段を分かつことのできる文化」の最も代表的な事例が技術文化なのである。そこでは「同一目的を達成する手段を最小限にせよ」という命法によって効率性が定義される。
手袋を買いにローマへ行くのは、(ウ)この意味での消費行動ではない。それは、目的と手段を分けることのできない文化に属する行為なのである。ローマで手袋を買うことは、手袋を入手する手段であることは確かであり、しかも最も良い手袋を入手する方法であることもまた確かである。ここまでは技術型文化における価値である。しかし、その入手の手段が同時に充足であり、かけがえのない時間経験であり、思い出となるという価値は、「目的と手段を分かつことのできない文化」に属している。それは儀式というものが属する文化と同じである。
ここでは、〈技術の文化〉と〈儀式の文化〉が対比されています。キーワードで分けていくと、次のように区別できます。
〈技術の文化〉
◆目的と手段を分かつことができる文化
◆手段の時間は無意味
◆同一目的を達成する手段を最小限にせよ
◆効率性
〈儀式の文化〉
◆目的と手段を分かつことのできない文化
◆入手の手段が同時に
・充足
・かけがえのない時間経験
・思い出

傍線部の「この意味での消費行動」というのは、直前で述べられている「技術の文化」のほうを指しています。
この対比関係を軸に、選択肢を見比べましょう。
選択肢検討
選択肢ア
「目的と手段が一体化」が×です。これは「儀式」の側の特徴です。
選択肢イ 正解
「物を入手する手段として買い物をする」というのは「技術の文化」の側の特徴です。
選択肢ウ
「入手の手段が充足になる」が×です。これは「儀式」の側の特徴です。
選択肢エ
「思い出や満足まで買う」が×です。これは「儀式」の側の特徴です。
問6
〈問5〉と同様に、「技術の文化」⇔「儀式の文化」の対比関係で考えましょう。
儀式に【 A 】性はない。なぜ儀式で同じことを反復するのか、【 A 】という概念で考えれば「ムダ」の一語につきるし、儀式そのものが「ムダ」なのである。儀式が何のためにあるかという問いを出してみる。「何のため」というカテゴリーそのものが技術型文化によって定義されるのであれば、「儀式は無意味だ」という答えがはね返ってくる。その答えが間違っているのではない。「何のため」というカテゴリーが、技術型しかないと即断したときに間違いが発生するのである。
「儀式に【 A 】性はない」ということは、【 A 】には「儀式」と逆になるワードを当てはめればよいので、選択肢としては「エ」の「効率」が最もよいことになります。

正解は〈選択肢エ〉の「効率」です。
問7
理由を問う「なぜか」の問題ですので、「前提」をしっかりつかまえにいきましょう。
儀式は何のためにという問いに儀式型文化の枠で答えを出せばどうなるか。答えは一つではないだろう。いま「思い出のためだ」という答えを考えてみよう。「この帯締めは○○デパートで買った」という思い出の価値はどこにあるか。(エ)技術型文化の価値では、どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったかという消費行動は価値づけられない。結婚式、葬式、地鎮祭、成人式などなどは、みな思い出のためにあるのだと言っていいだろう。思い出に価値があるからカメラという商品に対する消費行動が成り立つのであり、カメラを買う人はすべて写真家となって、将来作品を売るためだなどとは絶対に言えない。

本文では、「儀式型文化」と「技術型文化」が対比されています。
「儀式型文化」では、「思い出」に価値があることになります。「思い出に価値がある」という前提があるからこそ、「集合写真」とか「卒業アルバム」とかが商品として成り立つのですね。
その一方、「技術型文化」では、「思い出」に価値があるとはみなされません。同じ商品であれば、「できるだけ安く」「できるだけ早く」手に入ったほうがいいと考えるのが、「技術型文化」の考え方なのです。たとえば「交通機関の進歩」は「技術型文化」の成果ですが、その考え方では、「各駅停車の電車に乗って、途中下車して写真を撮る」といった行為はムダなのです。最短で目的地に着くほうがいいのです。だからこそ、交通機関はあれだけ「速く」なっていったのです。
「消費行動」で考えてみてもそうですね。たとえば「パピコがほしい」と考えたときに、「技術型文化」の考え方であれば、「安く、早く」手に入ればそれでいいのですから、「どこで買うか」「だれから買うか」ということで迷ったりするのはとても無駄な行動です。一番近いコンビニで買えばいいだけのことです。
以上のことから(以上の対比関係から)、
「技術型文化の価値では、どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったかという消費行動は価値づけられない」のはなぜか?
と問われた場合の「解答」としては、
思い出を価値とみなさない「技術型文化」の価値では、商品は無駄なく手に入ればそれが最もよいので、どこで、いつ、誰と、どんな店員から買うかということはどうでもいいことであるから。
といったものになります。
そもそも、「なぜか」でも「どういうことか」でも、「主題(主語)」を取り違えないことが最重要です。まずは「そもそも何の話なのか」を常に意識しましょう。
選択肢は、すべて、「どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったかという消費行動は、~」という始まり方をしています。
しかし、傍線部では、その前に、「技術型文化の価値では、」と書かれています。

どうして、選択肢にするときに、この「技術型文化の価値では、」という主題を外したのでしょうか。
それは、ないほうが難しくなるからです。逆を言えば、あると簡単になってしまうからです。
このように、問題を難しくするために、本来は書かれているべき主題を隠すことがあるのです。したがって、どの設問においても、「主題を適切に補うと、正解に近づきやすくなる」と考えましょう。常に主題(主語)を考えるくせが大切です。
技術型文化の価値では、
どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったかという消費行動は
↓
【 】から、
↓
価値づけられない。
この論理図の【 】に入る情報を考えるのですが、「技術型文化の価値」が主題なのですから、【 】には、技術型文化からみた価値観が入るはずです。
選択肢検討
選択肢ア 正解
「目的達成のための手段」「最小限にするのが望ましい」という論点は、「どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったか」ということを「技術型文化」からみた価値観です。
また、「最小限にするのが望ましい → から → 価値づけられない」という論理の流れは自然です。
選択肢イ
「どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったか」ということを「貴重な時間体験」とみなすのは、「儀式型文化」からみた価値観です。
また、「貴重だから→価値がない」というつながり方は論理的な整合性がおかしいので、×です。

いわゆる「混乱系(組み合わせやつながりのミス)」の不正解です。
選択肢ウ
「どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったか」ということを、「無駄だとは言えない」とするのは、「儀式型文化」からみた価値観です。
また、「充足であり、無駄ではないから→価値がない」というつながり方は論理的な整合性がおかしいので、×です。

これも、「混乱系(組み合わせやつながりのミス)」の不正解ですね。
選択肢エ
「どこで、いつ、誰と、どんな店員から買ったか」を「思い出に関わる」と考えるのは、「儀式型文化」のほうからみた価値観です。
問8
「実存」という語句の意味をおさえておきましょう。
事物(主に人間)の実際の存在を思想の中心におく哲学的立場を「実存主義」という。
「実存」というのは、「実際にこの世に現れている唯一の個体」のことをいう。

たとえば、「花の美しさ」について、「花はピンクがいいよね」などとあれこれ会話するのは、「抽象的」「概念的」なことであり、それは「実存的ではない話」です。
一方で、実際の花を指差し、「これは美しい花だ」「そうだね」と述べた場合、それは「実存的な会話」です。
難しい語なのですが、「実」「存」という漢字の意味内容から、「実際に存在していること」という類推ができるとよいです。
手袋を買いにローマへ行くのは、「あの老人」との出会いを求めるからである。この出会いはいわゆる「実存的な出会い」ではない。
という部分は、
ローマで求める出会いは、「かつて手袋を買った老人そのものとの出会い」ではない。
と読解できます。
しかし、これだけでは何を言っているのか全然わからないので、後ろを丁寧に読んでいくことになります。
A 。しかし、B。
A ではなく B 。
という逆接・対比の構文の後に、Bを補足説明するものとして、
C のだ。
C のである。
C のではないか。
つまり C 。
すなわち C 。
といった構文があるとき、「C」は非常に重要である。

本文には、まさにこの構文があります。
「まさにあの老人」との出会いを求めるのではなくて、「あのような老人」を求めている。すなわち、手袋を選ぶという一つのことに、己の人生の年輪のすべてをささげたかけがえのない経験への敬意と、そのような年輪だけが与えることのできる奥行きのある充足を求めて手袋を買いにローマへ行く。
すこしかみ砕いて説明すると、筆者は、次のような経験を娘と妻にしてほしいと思っていることになります。
「かつて手袋を買った老人そのもの」と再会し、「お久しぶり!」などと言うのではなく、
(1)自分の仕事に人生のほとんどの時間をささげてきた人間に接し、そのかけがえのない経験に敬意を持つこと。
そして、
(2)そのような「時間の積み重ね(年輪)」だけが与えられる奥行きのある充足を得ること。

たとえば、みなさんが旅行先でお土産を買うことを想像してみるとよいでしょう。
有田焼の茶碗を買うとします。
そこで百年くらい店番をしてきたと思われるような(一瞬置物かと思うような)おばあちゃんから、「ありがとう」と言われながら買い物をすることと、
帽子を逆にかぶってラップを口ずさみながら店番をしているような大学生アルバイトから「あざす」などと言われながら買い物をするのとでは、
仮に同じものを同じ値段で買ったとしても、「いい買い物をしたな」と思う気持ちに差がつくのではないでしょうか。

ペラペラしたうさんくさい人から買うよりも、そこにずっといたようなおばあさんから買うほうが、「焼き物の茶碗」は「いい品物」に見えると思います。

商品が板チョコとかだったらそうでもないかもしれないけど、たしかに「お土産にする焼き物の茶碗」だったら、歴史を感じさせる人から買いたいよな。
筆者が述べているのはそういうことです。
(1)その仕事に人生の大部分をささげてきたような、その「かけがえのない経験」に敬意を持つ
(2)そのような経験を持つものだけが与えることのできる「奥行きのある充足感」を得る
娘と妻に、この(1)(2)を果たしてほしいからこそ、筆者は、娘と妻に対して、「手袋を買いにローマに行きなさいよ」と勧めているのです。

ここでいう、「実存的な出会いではない」ということは、要するに、「かつて出会ったあの老人そのものに会いに行くわけではない」と言っていることになります。
そういう「実際の存在」に会わせたいわけではなく、「その仕事に長い時間を費やしたであろう人物」に会いに行き、その人から「長い時間をかけなければ成立しないであろう品物」を買うことによって、充足感を得てほしい、と筆者は考えているのです。

以上のことから、正解を「書く」のであれば、次のような答案が成り立ちます。
記述想定答案
手袋を買いにローマへ行くのは、かつて買い物をした老人そのものと再会するためではなく、ある人間が、ある仕事に人生の大部分をささげてきたかけがえのない経験に敬意を持ち、そのような時間の積み重ねだけが与えられる奥行きのある充足感を得るためであるということ。
では、選択肢を見比べましょう。
選択肢検討
選択肢ア
◆「手袋を買うのが目的」が×です。「手袋自体」ではなく、その買い物をとおしての敬意と充足を求めているのです。
選択肢イ
◆「あの老人に会うのが目的」が×です。主張と矛盾します。
選択肢ウ
◆「かつて出会った老人に会い」が×です。主張と矛盾します。
選択肢エ 正解
◆正解です。

理想的な正解でもありませんが、他が「もっと×」なので、「エ」が正解になります。
「選択肢問題」は、「正解」にあんまり期待しすぎないことも大切です。
「正解」がとってもよくて、とってもすばらしいということは、実際にはあまりないです。
「ダメな選択肢」を落としていって、結果的に残った「×にまではしきれない選択肢」が正解になる、という考え方が重要です。
問9
「豊かさ」という表現が本文中に存在しないので、本文全体をとおしての主旨から判断していきましょう。
ポイントは、本文最終文の
人間を超えたかと思わせる年輪だけが他人に与えることができる充足感がある。
という箇所です。
「年輪」という比喩は、「時間の積み重ね」ということを述べているわけです。また、ここでの「充足感」という語句が、「豊かさ」と同系統の語句であると判断できるので、書くのであれば、次のような答案が成立します。
記述想定答案
ある人間が、ある仕事に向き合い続けた末の時間の蓄積だけが、人に与えられる充足感があり、それが豊かさの出発点である。
さて、この〈記述想定答案〉から鑑みると、「時間の長さ」という論点に言及している選択肢を正解にしたいものです。
すると、〈選択肢イ〉の「効率性」に注目することができます。
「効率性に還元」というのは、「無駄を省いて時間を短縮していくこと」ですから、「効率性に還元できない」というのは、「時間を短くすることができない」という意味で解釈することができます。
そのことから、〈選択肢イ〉は正解候補になります。
ただし、
〈選択肢ア〉〈選択肢ウ〉〈選択肢エ〉は、どれも筆者が〈儀式の文化〉の側で述べていることであるため、内容的にきっぱり×とは言えません。
〈選択肢ア〉〈選択肢ウ〉〈選択肢エ〉の選択肢に×をつける理由を細かく考えてみましょう。
選択肢ア
目的と手段を分かつことのできる文化の枠の「外」に豊かさがある
という説明は、場所の区別としては間違っていないのですが、「外にある」というだけでは、結局はどこに「豊かさ」があるのか説明していません。そのため、「豊かさそのものの性質」については語ることができていません。
たとえばこれが、
目的と手段が同時に充足をもたらす文化の「内」に「豊かさ」がある
という表現であれば、かなり〇に近い選択肢でした。
選択肢ウ
一つのことに人生をささげた経験への敬意があってこそ、「豊かさ」がわかる
という説明は、内容的に、「儀式の文化」の側に位置する情報です。また、「一つのことに人生をささげた」という表現で、「時間の蓄積(年輪)」について言及しているといえるので、〇にしたくなる選択肢です。
しかし、本文に、
敬意があるからこそ「豊かさ」がわかる
という因果関係がきっぱり書かれているわけではありません。「敬意がなければ豊かさはわからない」と述べられているわけではないのです。
したがって、〈そのつながりはない(因果関係の捏造)〉と考えて、〈選択肢イ〉よりは劣る、と判断します。
選択肢エ
満足や充実を与えてくれる人との出会いを経験してこそ、「豊かさ」がわかる
という説明は、内容的には、「儀式の文化」の側に位置する情報ではありますが、「ウ」と同様に、
人との出会いを経験してこそ「豊かさ」がわかる
という因果関係がきっぱり書かれているわけではありません。「出会いがなければ豊かさはわからない」と述べられているわけではないのです。
したがって、〈そのつながりはない(因果関係の捏造)〉と考えて、「選択肢イ」よりは劣る、と判断します。

〈問9〉は、「豊かさ」という表現が本文中に存在しないことから、いろいろな解釈が成り立ってしまう問題であったといえます。
そもそも、正解とみなされる「イ」も、「とてもよい」とまでは言えない選択肢なので、「決定的な×」を落としていき、結果的に残った「イ」を正解とみなすという「消去法」を用いなければ正解が出しにくい問題でした。
選択肢問題の「正解」は、あくまでも「他の選択肢との優劣」において決定されます。