第①段落のおさらい

「差別の話」の第②③段落の補足です。
先に①段落のおさらいをしておきましょう。
そこでは、
近代的な方は、自律的な個人を前提にしている。
と述べられていました。
「自律的な個人」というのは、「自分で行動を決めて、自分をコントロールする人」ということです。
近代の法では、「自分で行動を決められる人の意図的な行為」を前提として、罪に対する罰が決められます。逆を言うと、ある悪事をしても「意図的」でなければ罪が軽くなります。
その点で、「同じ結果」を引き起こしたとしても、それが「意図的」であったかどうかが「責任」の大きさに影響します。
たとえば、ある暴力で人が亡くなっても、それが「意図的」であれば「殺人」であり、それが「意図的でない」となれば「過失致死」ということになります。
第2段落
しかし、差別問題においてこのような行為者(の意図)を考慮した「責任」観をとることはできない。たとえば、差別語の概説書には次のように書かれている。

ここでは、重要な表現を導くディスコース・マーカー(論理の流れを示す目印)が3つ存在します。
(1)逆接の接続詞「しかし」の後ろは要点
(2)要約系の指示語「このような」の後ろはキーフレーズ
(3)具体例の前後は要点(「たとえば ~ 。」の前後は要点)
したがって、
「差別問題において行為者の意図を考慮した『責任』観をとることはできない」
という論点は、重要度が高いことになります。

〈第①段落〉では、
「日本の法制度では、罪をおかした人にどのくらいの『責任』があるかを考えて、それに応じて『刑罰』の度合いが決まる」
というような話だったよね。
ということは、「しかし」以降は、
「差別の問題については『行為者が意図していたか/していなかったか』は『責任の大きさ』に影響しない」
と言っていることになるね。

そういうことになりますね。
具体的にどんなことを述べているのか、「たとえば」の中身を見ていきましょう。
具体例(引用)の内容(差別後の概説書の内容)
差別語・不快語をめぐる問題のなかで、ほとんどの場合、筆者・話者は「差別するつもりはなかった」「ついうっかり筆(口)が滑ってしまった」と言い訳し、悪意がなかったことを強調します。

たしかに、世の中の「差別した人」の言い訳を見てみると、「差別する意図はなかった」という場合が多いですね。

ああ~。
セクハラするおじさんとかは、「かわいがっただけ」とか「からかっただけ」とか言うよね。
そこには、問題が二つあります。

評論の内容をまとめるときに、「二つある」と述べている場合、その片方だけに言及することはNGです。
必ず「二つとも」拾うようにしましょう。
一つは、筆者・話者の主観的意図が問題にされているのではなく、発した言葉や表現が、いまの時代に、わたしたちの社会で、客観的にはどういう文脈として受けとられるかが問われるということです。

きっぱり「主観的意図が問題にされているわけではない」と述べられています。
普通の刑法については、「意図していたかどうか」は大きな問題になりますが、「差別」の問題にかんしては、「意図」は重要視されないのです。
「発した言葉や表現」が、「客観的」に「差別的であったかどうか」が問われるのです。
つまり、「差別する意図」がなくても、「その表現は差別だ!」と一般社会がみなせば、「差別」に該当するとうことですね。
「差別してやろう」と悪意をもって差別発言をする人は、ヘイトスピーチ(差別的憎悪扇動)をまき散らしているごく一部のレイシスト(人種差別主義者)を除けば、そんなに多くいません。

「ヘイトスピーチ」をまき散らす「レイシスト」は、たしかに意図的に「差別」をしています。
しかし、そういう人でなく、一般的な人からでも、「差別発言」というのは頻繁に出てきます。
たとえば、「女のくせに」とか「男らしくない」といった表現は、私たちの日常の生活にけっこう出てきますが、「女」「男」という「属性」に当てはめてその人を評価するのは、現在の社会では差別的な表現とみなされやすいです。

マンガなんか読んでると、「女・子供はすっこんでろ!」とか平気で言ってるよね。

完全な差別発言ですね。
「女・子供」を排除すると「成人男性」しか残らないことになります。「成人男性」にとっては、そこに利権などの「うまみ」があるんですよ。「差別」をすることによって、おいしい話を「成人男性」という集団で独占する構造になっています。日本社会はこの構造が根強いですね。
つまり、筆者・話者の主観的意図とは関係なく、その表現内容において、差別性があると認められれば、21世紀の社会では人権侵害と指摘されるようになったわけです。

「差別する意図」が「あったか/なかったか」ではなく、いまの一般社会で、みんなが「それって差別だよ」みなせば、「差別(人権侵害)」になるのです。それが21世紀の社会なのです。
二つめは、関係性が問われる問題だということです。差別語・不快語をめぐっては、その言葉を使用する人、向けられる人、受け止める人、使われる場所と状況によって、その意味あいがちがってきます。

親友や兄弟姉妹に「バカだな~」と言われるのと、「初対面の人」や「職場の上司」に「おまえバカじゃないの?」と言われるのは、「傷つき度合い」が異なりますよね。
そういう意味で、同じ表現であっても、「発言者」「受信者」「立場」「状況」などによって、それが「差別」なのかどうか判断が分かれることになります。

ああ~。
友達に「もう、バカ」って言われるのと、職場の嫌いな上司に「は? おまえバカ?」って言われるのとでは、「ムカつく度合い」がぜんぜん違うよね。
「似たような発言」であっても、そういった「関係性」によって、「発信者の意図」も「受信者の捉え方」もだいぶ変わってくるよね。

さきほどの「女・子供はすっこんでろ」っていう発言も、「政治家が内閣に女性や若手を入れない場面」で発せられるとしてら「ひどい発言」ですよね。
しかし、何かの戦の場面で、屈強なおじさんが、かよわい女性や子供を巻き込まないために発せられるとしたら、むしろ「かっこいい発言」とみなされるかもしれません。
第3段落
重要なのは、ヘイトスピーチを例外として多くの差別発言が明確な「意図」をともなったものではない、ということだ。差別は自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまっていることであり、「普通」「あたりまえ」としていたことなのである。

この〈第③段落〉は、「引用」の直後にありますよね。
「引用」は「具体例」と同じ扱いなので、その「前後」には重要文があります。
実際、この〈第③段落〉には、「重要なのは」という表現があります。わざわざ「重要」と示しているので、重要な箇所になります。
さらに、「~ということだ」「~のである」という「統括型」の文末になっています。
ポイント
次のような文末になっている文は、「統括型」の文であり、他の文に比べて重要度が高い。
~のだ
~のである
~のではないか
~ということだ
~ということである
*多くの場合、すでに前の部分で語られた内容を「説明的にまとめている文」になっている。
(必ずそうなっているわけではない)

さて、〈②段落〉の冒頭の部分をもう一度見てみましょう。
しかし、差別問題においてこのような行為者(の意図)を考慮した「責任」観をとることはできない。たとえば、差別語の概説書には次のように書かれている。

「差別問題においてこのような行為者(の意図)を考慮した「責任」観をとることはできない。」という「主張」の直後に、いきなり「たとえば、~」という「例示」がありますね。
「論理」には、通常の場合「主張/理由(説明)/例示(具体化)」という「三項関係」があります。みなさんが小論文などで書く場合には、「「主張→理由(説明)→例示(具体化)」の順序で書くことが基本ですが、入試で出会う評論文などでは、この順序になっているとは限りません。
しかし、「理由(説明)」の部分が存在しない説明文というものはありません。設問として問われる以上、必ずどこかには書かれているはずです。
こういう場合、いったん「例示」を( )に入れてみて、その前後の文脈をつなぐと、論理が流れているケースが多いので、ここでもそう考えてみましょう。
②しかし、差別問題においてこのような行為者(の意図)を考慮した「責任」観をとることはできない。(たとえば、~)
↓ ↓ ↓
③重要なのは、ヘイトスピーチを例外として多くの差別発言が明確な「意図」をともなったものではない、ということだ。差別は自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまっていることであり、「普通」「あたりまえ」としていたことなのである。

構造としては、〈②段落〉の冒頭の「主張」に対して、〈③段落〉が「理由(説明)」の役割を果たしていることになります。
補足問題 第2段落の「引用」部分(差別語の概説書)を150字以内で要約せよ。

引用の内部が3つの形式段落になっているので、それぞれ縮めてみて、最後に統合しましょう。
①差別語・不快語をめぐる問題のなかで、ほとんどの場合、筆者・話者は「差別するつもりはなかった」「ついうっかり筆(口)が滑ってしまった」と言い訳し、悪意がなかったことを強調します。
(a)差別語・不快語の問題では多くの場合、筆者・話者は悪意がなかったことを強調する。

「 」の中身は具体例なので省きます。
②そこには、問題が二つあります。一つは、筆者・話者の主観的意図が問題にされているのではなく、発した言葉や表現が、いまの時代に、わたしたちの社会で、客観的にはどういう文脈として受けとられるかが問われるということです。「差別してやろう」と悪意をもって差別発言をする人は、ヘイトスピーチ(差別的憎悪扇動)をまき散らしているごく一部のレイシスト(人種差別主義者)を除けば、そんなに多くいません。つまり、筆者・話者の主観的意図とは関係なく、その表現内容において、差別性があると認められれば、21世紀の社会では人権侵害と指摘されるようになったわけです。
(b)そこには問題が二つある。一つめは、現在の社会では、発した言葉や表現が客観的にどういう文脈で受けとられるかが問われることだ。

「悪意を持ってレイトスピーチをするレイシスト以外には、悪意をもって差別発言をする人は多くない」
という部分は、筆者の主張(悪意のない発言でも差別になる)とは別のことを語っており、「そういう人たちは例外的存在だ」という位置づけになっています。そのため筆者の主張に入れるほどの重要度がないので、要約からはカットします。
③二つめは、関係性が問われる問題だということです。差別語・不快語をめぐっては、その言葉を使用する人、向けられる人、受け止める人、使われる場所と状況によって、その意味あいがちがってきます。
(c)二つめは、人間関係、場所、状況によって、言葉の意味が違ってくるということだ。

「言葉を使用する人、向けられる人、受け止める人、という部分は、意味内容としては要約に入れたいのですが、長いので「人間関係」くらいに圧縮してしまう必要があります。
こういうときにやってはいけないのが、
「言葉を使用する人や向けられる人が~」などと書いてしまい、「受け止める人」を抜かしてしまうことです。
記述問題や要約問題で、「列挙的な表現」を答案に出す必要がある場合、「3つ」あれば「3つとも」書くべきですし、「4つ」あれば「4つとも」書くべきです。しかし、実際には「列挙的表現」をすべて書き抜くと字数が足りなくなるので、「一気にまとめる表現を編み出す」という手法が必要になります。ここでは「人間関係」がそれにあたります。
たとえば、「短距離走、マラソン、棒高跳び」などと書いてあるものを、答案において「短距離走やマラソンは~」と書くことはNGです。「棒高跳び」が抜けているからです。
その場合はすべて書ききるか、「陸上競技」などと一言でまとめる表現を編み出すか、どちらかにしなければなりません。なお、難関大の入試では「一言でまとめる表現を編み出す」能力が問われやすいです。

「列挙的表現」は、「構成要素を落とさず書く」か、「一言でまとめる」ということなんだね。

そうです!
さて、(a)(b)(c)を統合して要約文をつくると、次のようになります。
要約文
差別語・不快語の問題では多くの場合、筆者・話者は悪意がなかったことを強調するが、そこには問題が二つある。一つめは、現在の社会では、発した言葉や表現が客観的にどういう文脈で受けとられるかが問われることであり、二つめは、人間関係、場所、状況によって、言葉の意味が違ってくるということだ。