都市の憂鬱

問1

(ア)根幹  ①関 ②幹 ③肝 ④勧 ⑤管

(イ)購入  ①綱紀 ②巧拙 ③紅葉 ④購読 ⑤海溝

(ウ)堕   ①惰眠 ②無駄 ③蛇行 ④堕落 ⑤妥結

(エ)倒錯  ①交錯 ②画策 ③添削 ④索引 ⑤圧搾

(オ)依然  ①威力 ②安易 ③維持 ④依拠 ⑤経緯

問2 正解は④

傍線部を含む一文がそもそも段落の最終文であり、しかも、「つまり」があります。「つまり」は「統括」ための接続詞であるので、正解の〈核心〉は、高確率で〈同段落内〉に書かれているはずです。

念のため後ろを見ると、「だが」という逆接の接続詞があることからも、後ろに正解の〈核心〉がある可能性はまずありません。

さて、傍線部は、

(パヴェーゼは)
〈論点a〉保存という作業の基本を
〈論点b〉忠実に守っている

という構造になっています。

記述であれば、主語である「パヴェーゼは」は、入れておくのが基本です。

ただし、選択肢であれば、主語が「パヴェーゼは」であることは文脈上自明ですから、カットされている可能性もあります。

いずれにせよ、答案の〈核心〉項目としては、

(a)「保存という作業の基本」とはどういうことなのか
(b)「忠実に守っている」とはどういうことなのか

この2ポイントをそれぞれ解決すればよいことになりますね。

まず、〈②段落〉の〈2行目〉には、

保存するということは、その保存したものを将来いつか取り出してくるのを前提としているはずだからである。

という文があります。

ここでは、「ということは」という表現が使用されていることに注目しましょう。これは、「とは」と同義の言葉であって、いわゆる「定義」の文になります。

傍線部内にあるワードが、近くで「定義」されていたら、答案を構成する重要要素になるはずです。

ここでは、

保存とは「いつか使うための作業」である。

と定義していることになります。

次に、「もっとも~。しかし~。」という譲歩構文になっていることも見逃さないようにしましょう。

ここではいったん譲歩したものをひっくり返すかたちで大切なことを述べています。まとめておくと、傍線部直前の文脈構造は、以下のようになります。

(定義)保存とは、保存したものをいつか使うための作業だ。

(譲歩)もっともわれわれは保存したことそのものを忘れてしまったりもする。

(譲歩からの反転)しかし、パヴェーゼは決して保存したことを忘れなかった。
             ジャムをなめるような具合に自分の日記を読みかえした。
             そのうえ新たな味付けまでした。(≒日記に記述を追加した)

ジャムをなめるような具合に…?

日記を……ベロベロと?

日記をペロリペロリとなめて、「ぐへへ、甘くて美味い」とほほ笑む、などという行為を本当にするわけではないので、ここには「比喩」がほどこされています。

ここでの「ジャムをなめる」とは、「保存したものを取り出す行為ということですね。具体的には「日記を読みかえす」ことです。

◆「しかし」の後ろである。
◆「つまり」の前である。
◆ 比喩をほどこしてまで「述べたい」箇所である。

というように、単独でみても「重要論点」として扱うべき構造が重複しているので、「日記を読みかえす」という表現は、ぜひとも答案にほしいポイントです。

同様に、「味付け」という論点も、できれば解答にほしいところです。〈③段落〉の内容から拾えば、「味付け」とは、「日記に記述を追加する」ことです。

以上のことから、大雑把に記述答案を作ると、以下のようになります。

〈記述想定答案〉
「保存」とは、保存したものをいつか使うための作業であるが、パヴェーゼはその基本に沿い、つけた日記を定期的に読みかえし、記述を追加したということ。

最も近いのは〈選択肢④〉です。〈選択肢④〉は、記述解答としても高得点を取れる「理想的な答案」です。

不正解の判断基準

「現状をそのまま残す」「現在を忠実に将来に伝えよう」が〈主張と矛盾〉しています。

本文の「いつか取り出す」「新たな味つけ」に矛盾しています。

「密閉性の高さ」「純粋に密封」という表現が、本文における「いつか取り出す」「新たな味つけ」に矛盾しています。

不正解と判断する根拠が、〈選択肢①〉とほとんど同じですね。

最も重要なポイントとみなしたはずの「日記を読みかえす」という論点への言及がありません。〈核心不在〉と考えられます。

また、「人工的に手を加える」ことは、常識的に考えると、たしかに「保存」のためには必要な作業に思えますが、この〈選択肢③〉においては、

「日記の記述を追加する」 ≒ 「保存に必要な加工」 ✕

としてしまっています。これは本文と矛盾していることになります。

本文では、

(a)「保存」とは「いつか取り出すための作業」である
(b)パヴェーゼはそれをやった(日記を読み返した)
(c)そのうえ・・・・新たな味つけまでした(追記をした)

と書かれています。

つまり〈選択肢③〉には、「日記の記述の追加」が保存の必要条件のように書かれているのですが、追加は必要条件ではないので、×だといえます。

「財産」がここでの話題ではないので、〈主題不一致〉で×です。いわば「問いに答えていない」ということです。

「いまその話してない」ってやつですね。

「自己増殖」という話題は傍線部直後の「だが」の後で出てきます。そこからは、「ジャムと日記の保存は違う」という話題に発展するのですが、〈問2〉の時点では、ジャムにも日記にもあてはまる保存のありかたを答えなければなりません。

問3 正解は②

設問に条件がありますので、しっかり確認しましょう。

通常通りの「どういうことか」ではなく、「何について」「どのような原理」が「作動しているのか」と問われています。

つまり、「論点」が限定的に指定されています。

「どういうことか」の応用型ではあるものの、「主題(何について)」を絞ることと、「原理」の意味内容を明確に特定することを「中心的論点」として考えていきます。

傍線部内に指示語があるので、指示語の指す内容が〈解答の核心〉に強く関与してくるはずです。そのうえで注目したいのは「も」です。

見落としがちですが、「も」という助詞が重要になる問題は多いのです。

「も」は並列です。「(君が行くなら)僕も行く」「(あの子が食べているアイスを)私も食べたい」というように、二つ以上のものを同等に位置づけるはたらきがある助詞ですね。

では、ここでは「何」と「何」を「同じ原理」と位置づけているのでしょうか。

直前には

収集がただの趣味以上のものとして広く行われるようになるのも、ブルジョワ社会においてのこと~

とあるので、片方は「収集」だとわかります。

「ブルジョワ」は、注釈を見てみると、「近代ヨーロッパの有産者」とあります。ということは、「ブルジョワ」は、直前にある「近代ヨーロッパ」と〈類義〉の関係にあると読解できますので、ここの文脈は次のようなものとして整理できます。

日記に綴るということは(定義文!)
自己を一種の財と見なして蓄積することであり
〈a〉一方で資本主義
〈b〉他方で個人主義 という
という・・・近代ヨーロッパの根幹をなすとも言うべき考え方によって現実となった。

収集がただの趣味以上のものとして広まるのも
ブルジョワ社会(=近代ヨーロッパ)においてのことであって
ここで同じ原理が作動している。

「収集」と比較されている対象は「日記」です。

ということは、「同じ原理」とは何かというと、

資本主義 & 個人主義

という「考え方」によって導かれた、「自己を一種の財と見なして蓄積する」という行動パターンを意味しています。

少し寄り道して、話の中身を見てみましょう。

「資本主義」というのは、ざっくり言えば、「価値が貨幣換算される考え方」なのですね。

「これはお金に換えればいくらになるか」という考え方を、ほぼすべてのものに当てはめていく世界が、資本主義の世界だといえます。そしてそれは、「自分の行動の記録」すら、貨幣価値に変わる世界なのです。

たとえば、現在、書店に行けば、『東大生の勉強法』とか、『弁護士が教える集中の方法』とか、いわゆる「勉強本」が、数えきれないほど並んでいますね。これは、社会的な「成功者」が、自分の経験を貨幣に換えているわけです。つまり「自己の記録」を売っているのです。

さらに言えば、これらの本は、「みんな知っていること」や、「今までの常識」などを語っても、誰も買ってくれません。「ユニーク」でなければならないのです。ここでは、「他人と違う」ことが「価値」になるのですね。この「人とは違う」というところに価値を置くのが「個人主義」のひとつの側面だといえます。

ああ~。

「収集」にもそういう事情があてはまると言っているのだな。

「収集」が流行するのにもそういう特徴があります!

「切手コレクター」が、「切手」を集めるのは、一般的にはそれに「価値」があるからですよね。実際には売らないとしても、「これ、市場に出せば5万円になるぜ」というものを持っていることに価値を見出すのです。

中には、「風邪薬の空き箱」など、どう考えても市場価格が付かないようなものを集めることに至上の喜びを見出してしまう「そっちの世界のホンモノの人」もいらっしゃいまが、一般的な「収集の流行」は、「売ろうと思えば売れる」モノを集めることが重要なのですね。

そして、それが「市場価値」になるためには、「他人はあまり持っていないこと」が必要になります。「自分だけが持っている」ことが価値なのです。

ああ~。

レアものってことだな。

そうですね。

以上のような経緯で、「資本主義」と「個人主義」があるからこそ、「日記をつける」とか、「モノを集める」といったことが流行するのだといえます。


本文に戻りましょう。

「原理」という表現がどこを指しているのか判断しづらいのですが、根幹・・をなすとも言うべき考え方」という箇所に着眼すれば、「資本主義と個人主義」という「思想」自体が、「原理」というものの意味内容だと考えられます。

以上のことから、大雑把な記述答案として、次のようなものが考えられます。

〈記述想定答案〉
ブルジョワ社会で、収集活動が趣味以上のものとして広まる背景には、近代ヨーロッパにおいて、資本主義と個人主義の思想が前提となり、自己財の蓄積として日記が綴られたことと同様のはたらきが認められるということ。

最も近い選択肢は〈選択肢②〉で、これが正解です!

不正解の判断基準

「収集」という「主題」が書かれていないので、設問における「何について」に言及していないことになります。そのため〈核心不在〉で×です。

通常の「どういうことか」であれば、これだけで×とまではいえませんが、この設問は「何について」という主題特定を条件にしていますので、「収集」というワードは必須です。

また、「資本主義」にしか言及していない点も△です。「資本主義」と「個人主義」は、ここでは明らかに「同価値の並列関係」なのですから、どちらかについて触れるのであれば、両方セットにしておかなければなりません。

「同価値の並列関係」というのは、たとえて言えば「ジャイアンとスネ夫の関係」です。以下のケースを想像してみましょう。

(ケースA)のび太「僕の友達はドラえもん!」
(ケースB)のび太「僕の友達はドラえもんとしずかちゃんと出木杉とスネ夫!」
(ケースC)のび太「僕の友達はドラえもんとしずかちゃんと出木杉とジャイアン!」

(ケースA)は、納得しやすいでしょう。けれども、(ケースB)と(ケースC)はどうでしょう。

(ケースB)は、ジャイアンが「そりゃないぜ、のび太!」と怒るでしょうし、(ケースC)は、スネ夫が「ママに言いつけてやる!」と泣くでしょう。

つまり「同価値の並列」というのは、「その片方を出すならば」「もう片方を言い落としてはいけない」関係ということになります。(ケースA)はどちらも出てきていないので、ジャイアンもスネ夫も、「ドラえもんには負けるよな」と納得することができるでしょう。

この「ジャイアンとスネ夫」の関係のように、本文で「明示的な並列関係」であったものが、選択肢で片方だけになっているようなものは、疑いをもつようにしましょう。

ただし、「明示的な並列」と「言い直し」は違うので注意しておきましょう。

たとえばこの課題文の「資本主義と個人主義」は、「性質の異なる二者」を挙げていて、しかも、「どちらが大事?」といわれても、「こっち!」と断定することができません。このようなものは「同価値の並列」です。

しかしたとえば、次のような例文はどうでしょうか。

とまどい 傷つき 誰にも打ち明けずに悩んでいた それももうやめよう
ありのままの姿みせるのよ ありのままの自分になるの

 細かく見れば、

a.とまどい
b.傷つき
c.誰にも打ち明けずに悩んでいた
d.それももうやめよう
e.ありのままの姿見せるのよ
f.ありのままの自分になるの

ということになるが、たとえば、「e」と「f」に関しては、「並列」というよりも「繰り返し」と言ったほうが適切なくらい、意味内容がかぶっています。このような場合は、「e」か「f」か、どちらかに言及できれば、説明は事足ります。したがって、「40字以内で説明せよ」などと、短い字数で設問化されていれば、

とまどい、傷つき、誰にも打ち明けずに悩むのをやめ、ありのままの自分になること。

といったコンパクトな解答でも、十分説明として成立していることになります。

以上のことから、次のように公式化しておきましょう。

解答に必要と判断される論点が「複数項の並列」であり、かつそれらの性質が異なる場合、両方とも書くか、一気にまとめられる表現に置換する。

ただし、本文中で、「A」を「A´」と言い直しているようなケースで、「A」と「A´」の両方を書く必要はない

なお、性質の異なる列挙表現のすべての言及することを「完全枚挙」といいます。

この場合、可能なのであれば、「それらすべてを一気にまとめた一般表現」に言い直すのもOKです。「一般化」といいます。制限字数が短い記述問題では、その技術を求めてくる場合もありますし、選択肢問題では、この「一般化」がよくおこなわれます。

今回のような「資本主義」と「個人主義」は、ひとことでまとめることが不可能ですので、両方の意味内容にふれておくほうがいいですね。

「収集」と「趣味」を比較してしまっているので、比較対象のエラーです。

また、「何について」の〈核心〉は、「収集活動の流行」なのですが、それが「日記の成立」と同類であると述べられているのですから、「日記の話」の論点は、必須とは言えないまでも答案に入っていたほうがよいです。

「近代ヨーロッパ」と「ブルジョワ社会」が比較されてしまっているので、比較対象のエラーです。

また、〈選択肢①〉と同様に、「収集」という表現が存在しない時点で、「何について」という「主題」に言及されていませんので、〈核心不在〉で×と考えてもよいでしょう。

「日記」と「収集」が比較されているので、文脈的にはOKです。

この選択肢で注目したいのは「商業活動」というワードです。この「商業活動」は「資本主義」の言い換えとして読むことができます。ところが「個人主義」を言い換えたものが選択肢に見当たりません。つまり、セットにしておかなければならない「資本主義と個人主義」の片方を言い落としていることになるのです。

また、「商業活動」という表現そのものに関しても、「資本主義」を「商業活動」に言い換える必要はどこにもなく、かえって本文から遠ざかってしまっています。

本文の中で「資本主義とは商業活動~」といったように定義されていることもなく、そもそも「資本主義」に踏み込んだ説明自体がないので、この言い換えは説明としては「余計なこと(かえってマイナス)になります。

選択肢問題はこういう「本文にない表現を用いた言い換え」をしてくることも多いのですが、そのような「言い換え」は、原則的に、

A.辞書ベースで噛み砕いたもの
B.本文の文脈を解釈的にまとめたもの

のどちらかしか認められません。

たとえば「不安」を「心細い」と書き換えることはOKです。あるいは、「いつでもどこでも誰であってもあてはまるのである」といった本文の表現を、「普遍」とか「一般」といった熟語にすることはOKです。

しかし、「資本主義」という広範な概念に対し、本文で踏み込んで話題にすらされていないのにもかかわらず、「商業活動」という限定的な概念に矮小化してしまうことは、説明として未熟です(話題そのものがすり替わってしまっています)。

たとえるならば、本文で「学級の活動」と書かれているところを、選択肢で「授業」と述べているようなものです。

もちろん「授業」は「学級の活動」の大部分をなしますが、「学級の活動」には、「ホームルーム」や「休み時間」や「体育祭の準備」なども含まれるため、「授業」のみに限定できるものではありません。

本文で、「学級の活動とは、授業なのである」などと書かれているのであればよいのですが、そうでなければ、「余計な言い換え(かえってマイナスになる言い換え)」をする必要はありません。

問4 正解は①

「こうした」という指示語は、前の部分を広く受けて、文脈が発展していく目印です。

ということは、「こうした」の直後にくるワードは、そのワードを中心的な話題とした文脈が、その前でも後ろでも述べられることになります。

~    は ~

〈要約系指示語〉
こうした・そうした・こういう・そういう   
こういった・そういった・こんな・そんな  
このような・そのような            は~

この場合の  は、その周辺部における「キーワード」になる可能性が高いのです。

本文では、「こうした逸脱」とあるので、「逸脱」をキーワードとして認識しましょう。

「逸脱」というワードは直前の一文にそのまま出ていて、次のような関係になっている。

自己目的化・自己疎外 ≒ 逸脱・倒錯・病

ところで、この「自己目的化」という言葉は、必ずおさえておきたい現代文重要語で、「本来の目的を見失って、その一歩手前のものが目的化してしまう状況」を意味します。たとえば、以下のようなケースです。

よしお 「どうだ、俺のシューズコレクション、50足はあるぜ」
しぶしげ「おお、すげー」
よしお 「この20足は、プレミア物だから、履いたこともないぜ」
しぶしげ「履かないの?」
よしお 「履くわけねーだろ! プレミアだぜ!」

靴は本来、履かれるために作られるのですが、よしおは、もったいなくて履くことができません。

「履く」という最終目的を見失い、収集することですでに目的を達成しているような感覚に陥っている点で、よしおのシューズコレクションは自己目的化しています。

違うケースも見てみましょう。

よしお 「この信号、長いな」
しぶしげ「ああ、えー! ちょっと、あの車、歩道にいる俺たちの方に突っ込んでくるぞ!」
よしお 「本当だ! このままじゃぶつかる!」
しぶしげ「車道のほうを他の車がぜんぜん走ってないから、車道に逃げよう!」
よしお 「だめだ、信号が赤だ」

道路交通法に基づく信号は、本来は接触事故を防ぐために、言い換えれば、歩行者や車両の安全を守るために設置されています。

したがって、今にもひかれそうな状態で、「赤だから」という理由で身動きができなくなるのは、「安全」という本来の目的を見失っている状態に陥っています。

「信号」というルールが、「それ自体を守るもの」として自己目的化しているのです。

本文では、いくつかのケースを自己目的化の例として挙げているので、確認しましょう。

(例1)お金を使って何かをしようと思っていた資本家が、お金をためること自体を目的とした守銭奴になる。

(例2)博物学的興味から収集をはじめた収集家が、集めることそれ自体に情熱を傾けるようになってしまう。

(例3)向上のための自己の記録が、自己というものに執着し、沈潜する日記に転じてしまう。

「こうした逸脱」という言葉が受けているのは、本来の目的を見失ってしまい、「目的達成のため手段」がいつのまにか「最終目的」にすりかわってしまっていることを意味しています。

お金は、何かを買うための「手段」であって、「お金そのもの」は「単なる金属と紙切れ」だよね。

さらに、傍線部後半を見ると、「近代社会に内在する性格の縮図」と述べられています。

「縮図」とは「ミニチュア」のことです。たとえば、「学校は社会の縮図」などと言うことがあります。この場合、「社会」における「仕事」や「人間関係」といったものの「ミニチュア版」が、「学校に存在している」という意味で用いられています。

本文においては、今まで述べてきたような「収集や日記」における「自己目的化・自己疎外(逸脱・倒錯・病)」が、「近代」という社会の性格を手短にわかりやすくあらわしている、ということになります。それらの文脈をすべて受けて、段落の最後の文にはこうまとめられています。

自己の記録に拘泥こうでい(こだわること)する日記の向こう側に透けて見えてくるのは、近代社会に生きるわれわれに宿命的なフェティシズムにほかならない。

この文は、よく見ると、傍線部の反復文になっていますね。

次のような関係になります。

【こうした逸脱】 ⇒ 【自己の記録に拘泥する日記】
【近代社会】   ⇒ 【近代以降の社会】
【内在する性格】 ⇒ 【フェティシズム】
【縮図】     ⇒ 【透けて見えてくる】

「近代社会に内在する性格」というのは、「われわれに宿命的なフェティシズム」のことなのですね。

幸いにも「フェティシズム」に(注)がついているので、見てみると、「特定の事物を極端に愛する性向」とあります。つまり「部分的な偏愛」のことです。

【フェティシズム/物神崇拝・呪物崇拝】
①特定のものへの過度な愛着
②人間がつくり出したものに人間が支配されること

もともとは、未開社会で「モノ」を神聖視して崇拝することを指しました。

マルクスはこれを、経済活動において「モノ」にばかり目が行き、人間が疎外されてしまうという意味で使用しました。そのため「人間疎外」と訳されることもあります。

さて、そうすると、「フェティシズム」という言葉は、「自己目的化」という意味と、似通った現象を意味する場合があることになります。

たとえば次のようなケースです。

よしお「よしこ、俺のこと、好きか?」
よしこ「好きじゃないわ。でも、よしおのもみあげは好きよ」
よしお「そんな部分的なところじゃなくて、全体を好きになってくれ」
よしこ「それは無理よ。でも、もみあげは好きよ」
よしお「ちくしょー」

この場合の、よしこからよしおへの愛情は、全体ではなく、部分的なものにとどまっていますね。

よしこは、もみあげに偏愛的な関心を持っているのです。これは「自己目的化」と言ってもいい状態ですね。

つまり、本来何かを好きになるということは、その全体を対象とすべきであるのに、きわめて部分的なものに、好意が向いているのです。

「全体を好きになる」という本来の目的を見失い、「部分」というものに好意の対象がすりかわっているということなのです。

本文にあてはめてみれば、「逸脱」を、「フェティシズム」と言い換えていることになりますね。

本来であれば、何らかの目的があってはじめて収集活動が、いつのまにか「集めることそのもの」が目的になってしまっているのです。

あるいは、本来であれば、自己の向上のための日記が、いつのまにか「自己を記録することそのもの」にとらわれてしまっているのです。

これらのことは、近代社会における病のようなもので、部分的な偏愛傾向、いわゆるフェティシズムである、ということになりますね。

 以上のことをふまえ、大雑把な記述解答を作ってみましょう。

〈記述想定答案〉
向上のための自己の記録が、自己に拘泥する日記に転じる自己目的化(自己疎外)の現象の背景には、それと似たようなものとして、近代社会全体で、知識や財を記録・保存すること自体に多大な労力が投じられている偏愛的な現象が存在しているということ。

さて、〈選択肢①〉は、「収集」の話題こそ出していませんが、より重要性の高い「日記」を主題としながら、そこにふみこみ、「逸脱≒自己目的化」を説明しています。また、「同じ精神にもとづいている」という表現で、「縮図」の意味するところにも言及しています。

「逸脱」にも「縮図」にも正しく言及している選択肢は〈選択肢①〉のみです。

不正解の判断根拠

部分的な×はつけづらい選択肢ですが、〈選択肢②〉は「こうした逸脱」をまったく説明していません。

「近代社会において日記が普及した」「収集されたものが公開されるようになった」という事実が書かれているだけであり、問いに答えていることにはなりません。

つまり、〈中心的論点〉であるはずの「逸脱」を無視してしまっているため、〈核心不在〉で×だと考えます。

〈選択肢②〉とは逆に、「近代社会全体」のほうの話題に言及されていません。〈核心不在〉で×です。

また、「自己の向上それ自体に深くこだわる」が〈逆〉です。「向上」はむしろ、見失われてしまった本来の目的です。

「逸脱」の説明がないので、〈選択肢①〉と同様、〈核心不在〉で×です。

また、「影響から生じた」がおかしいです。美術館などの影響で知識や財を保存するようになったのではなく、逆に、知識や財を保存するようなフェティシズムを人々が持ち始めたから、美術館などが成立していったと読むほうが適当です。つまりこの選択肢は、前半と後半の因果関係が逆なのです。

本文では「A→B」となっていた因果関係が、「B→A」とすりかえられてしまっているので、〈因果関係不成立〉で×になります。

選択肢前半の「再生を目的とする」、後半の「更新を目指している」が、本文と矛盾します。「記録」「保存」することのみにこだわってしまうことを「逸脱・倒錯・病」と呼んでいるのですから、「再生」「更新」は〈逆〉の内容になります。

「再生」や「更新」という言葉は、むしろ、本文では「見失われた本来の目的」であった「向上」のほうに近いニュアンスだと言えるでしょう。

また、「病」という表現も、比喩的なので、説明として△です。

ここで気を付けたいことは、「解答に比喩を使用してはいけないということではない」ということです。

重要なルールは、「説明とは、傍線部よりも、事態をクリアにすることである」ということなのです。

そのため、仮に選択肢に比喩が用いられていても、それによって、傍線部よりも「事態がクリア」になっていれば、それを×にすることはできません。

傍線部よりも事態がクリアになるという目的さえ達成されていれば、解答に比喩が混在することはありえます。

問5 正解は①

構文に注意すると解きやすくなる問題です。

一見したところ苦渋にみちてはいるが、それでも他の何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。

という文は、アンビヴァレンス(あるいはアンチノミー)の関係になっています。

アンビヴァレンス(両面価値)
ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すこと

アンチノミー(二律背反)
互いに対立し矛盾する二つの命題が、同等の権利をもって主張されること

「苦渋」と「楽しみ」は、「一見相反するものが同時に存在している関係」なので、選択肢も、「一見相反するものが同時に存在している関係」になっていないといけません。

傍線部の3つ前の文には、「牢獄であるとともに想像力がはばたきはじめる場所」とあります。

さらにその一つ前の文には、「出口のない迷路のような日記は、しかし、逆にある種の自由ないし解放を作者にもたらしもする」とあります。

この関係を理解するのは難しいのですが、次のようなケースを考えてみましょう。

よしお 「俺、明日誕生日なんだ」
しぶしげ「おー、じゃあ何かプレゼントするよ。何がいい?」
よしお 「なんでもいい」
しぶしげ「なんでもいいが一番困るんだよ」
よしお 「でもなんでもいい」
しぶしげ「せめてジャンルをしぼってくれ」
よしお 「じゃあ、こないだシャーペンが壊れちゃったから、シャーペンがいいかな」
しぶしげ「オッケー」

このケースが言わんとしていることは、「自由すぎる状態は逆に不自由になりうる」ということです。

よしぞうは、「なんでもいい」と言われたときには、選択の幅が広すぎて、逆に何を選んでいいかわからなくなっています。

ミヒャエル・エンデに『自由の牢獄』という短編があります。

それは、いくつも扉がある部屋に閉じ込められた男が、どこから出て行っていいにもかかわらず、部屋から出て行くことができなくなる話です。

選択の幅が広すぎて、何を選ぶのが自分にとって正解なのかわからなくなり、逆に何もできなくなってしまうのです。

このように、自由すぎる状態は、逆に一種の束縛状態になりえます。

「自由」と「不自由」という一見相反するものが同時に存在するので、アンビヴァレンスアンチノミーの関係と言えるでしょう。

さて、本文に戻りましょう。

ただひたすら「自己」について記述していく、というパヴェーゼの行為は、ある意味で非常に「閉じられたもの」です。

「自分はこう思う」「自分はこう考える」ということを書き続けていくということは、「自分」という判断基準しか持たない「世間からは閉じた場所」にいます。

その意味でパヴェーゼの日記のつけ方は「出口のない迷路」であり「牢獄」なのです。

しかし、それは逆に、「世間」からは自由であることを意味するとも言えます。

たとえば、世間の偏見や先入観にはとらわれない「自由な発想」を生み出す可能性もあるのです。

「自分」の檻から一歩もでないことにより、あらゆる現実のしがらみからは自由になるチャンスを得る可能性もできるといえます。

私たちは、ふだん「世間」に開かれていますね。

人の意見や発想を聞くことは、自分の可能性を広げるには正しいことです。

ところが、だからこそ、「世間」にすでに埋没している「常識」などからは自由になることができません。

たとえばデパートのトイレで、「男子トイレがピンク」「女子トイレが水色」というような色分けをされていたら、私たちはどうしても違和感を持ってしまいます。

これは「男子は水色」「女子はピンク」という、現実的な世界に束縛されているからです。

たとえば、メジャーリーガーであったイチロー選手の打ち方は、多くの指導者に「その打ち方をやめろ」と言われ続けてきたものでした。

けれども、イチロー選手は自分のスイングを守り続けました。

そしてその中で見つけだしたバットスイングを用いて、何度もメジャーの首位打者になっています。

その意味でイチローは「自分」という閉じた場所、つまり「出口のない迷路」「牢獄」の中にいましたが、逆に「今までの野球の常識」という束縛からは自由であったといえます。

そのように考えると、「自分」という檻に閉じこもることは、一見、出口のない迷路であり、牢獄のようではありますが、現実的な世間には束縛されていないという点で、自由であり、ある意味では、何事にも束縛されない想像力がはばたく場所でもあるのだと言うこともできます。

話が長くなりましたが、「迷路でありながら自由・解放」「牢獄でありながら想像力がはばたく」という、本文にあるアンビヴァレンス・アンチノミーの関係を明示するかたちで、大雑把な記述答案を考察しておきましょう。

〈記述想定答案〉
日記は、自己への沈潜・耽溺に終始するという点で、不幸といえるほど自己閉塞的なものであるが、一方で、いかなる現実の目的にも拘束されないという点で、自由な想像力を喚起させ、存在の感覚を確認させてくれる契機にもなりうるものである。

「青字部分」が「苦渋」の説明であり、「赤字部分」が「楽しみ」の説明になります。

こういった、「プラスとマイナスの共存関係」に正しく言及している選択肢は〈選択肢①〉のみであり、それが正解です。

〈選択肢①〉の、「出口のない迷路」という表現は、「完全な比喩」であるので、本来であれば説明に使用するのはあまりよくないのですが、「出口のない迷路」を「解決」している説明表現が本文中に存在しないため、やむなくそのまま出した語句であると考えられます。

言い換え表現としては「牢獄」という語がありますが、これもまた「完全な比喩」であるので、やはり説明としては使用しづらいワードです。しかし、「出口のない迷路」や「牢獄」は、比喩であるとはいえ、傍線部内の語である「苦渋」よりは、少なからず事態がクリアになっていますね。

もしも、これが記述問題であれば、「比喩はできるだけ説明表現に直す」という原則にのっとり、「出口のない迷路」や「牢獄」はそのまま使用せず、「閉塞感をもたらすもの」くらいにはしておきたいのですが、選択肢問題の原則は、あくまでも「他の選択肢と比べたうえで最もよいもの」なので、他が「もっと×」なら十分正解になります。

〈ポイント〉

「比喩」や「例示」は答案に残さないことが基本だが、「それがあるから減点」というわけではない。

その部分が「答案に必要な構成要素」になっている場合、「比喩」は「実態のほうを書く」「例示」は「抽象化して書く」といった手法が大切だが、選択肢問題の場合、そのまま答案に存在していることもありうる。したがって、「比喩」や「例示」が答案内にある場合、表現がやや未熟という観点で「△」くらいはつけられるが、「×」と判断することはできない。

このへんは、他の選択肢とのかねあいもあります。

すべての選択肢に「比喩的表現」が入っていれば、すべての選択肢が「やや説明未熟」になるので、そこに優劣はありません。

しかし、5つある選択肢のうち1つにだけ比喩表現が入っているような場合、それだけ「説明表現が劣っている」ことになりますので、それが正解になる可能性は低いです。

さて、比喩の話はいったん措きまして、ひとまず「構文」に着目して選択肢を眺めてみると、〈選択肢②③④⑤〉は、どれも選択肢の前半と後半が、「一見相反するが両立しうる」関係になっていません。

つまり、「アンビヴァレンス・アンチノミー」の関係を構築できていませんので、〈選択肢②③④⑤〉は〈選択肢①〉に比べるとすべて劣っていることになります。

念のため、細かい観点でも〈選択肢②③④⑤〉を落としておきましょう。

不正解の判断基準

② 

「逆に記憶を希薄にするという作用を持つ」が、〈本文と矛盾〉します。

最終段落に「備忘録や反省の記録」にあっては「記憶は姿を消してしまう」とありますが、「反省の記録」と本文中の「日記」は別のものです。

「完全に保存」が〈主張と矛盾〉です。

傍線部直前には「新たな記述を追加するさいの」とあります。「完全に保存」というのは、「完成形としてパッケージする」ような言葉の使い方ですね。しかし「記述を追加」するということは、どんどん新しく書き加えていくことですから、いつまでたっても「完全な完成形」というものはないことになります。

「不変のものとして保存」が〈主張と矛盾〉です。

〈選択肢③〉と同じことですが、「不変のもの」であるならば、「記述を追加」してしまうのはおかしいことになります。

⑤ 

「永遠化する楽しみ」が、ここでの話題とズレています。「永遠化」というのは、前段落で収集癖と日記を同じレベルで見たときの話題にありました。しかし傍線部の二文前には、「自己目的化ということでは共通している蓄財や収集癖も、日記の純粋さには及ばない」とあります。つまり「蓄財・収集癖」と「日記」を区別して語っているのです。

「永遠化」という言葉は、収集癖と日記を同じ水準で語っていたときに出てきた表現であり、傍線部のある段落は、収集癖と日記を区別して語っているですから、ここでの説明に使用するには不適な語句だと言えます。

問6 正解は③・⑥

全体に関わる正誤問題なので、消去法で落としていきましょう。

「消費されることが最初から期待されていない」という話題は存在しません。

「本文に記述がない」という落とし方は、できるだけしたくないのですが、「話題そのものが存在しない」ものはさすがに×です。

どうして「本文に記述がない」という落とし方はできるだけしたくないの?

「ワードの言い換え」を見逃している危険があるからです。

たとえば、本文で「一般的ではない」と述べられていたものを、選択肢で「特殊である」などと説明するケースはよくあるのですが、このとき「【特殊】というワードが本文にないから×」と考えてはいけません。

あくまでも「話題そのものが存在しない」という場合に限って×にしていきましょう。

「日記を書く」ことの「本質的な部分にあるのは孤独であるため、 自己を増殖させたいという願望が生まれる」という因果関係は存在しません。

また日記を書くことが近代の人間の「孤独をいやし」という話題は存在しません。

本文で述べられていることに一致しています。正解です。

「克己心・向上心が記され」が逆です。

〈問4〉で詳しく述べたことですが、向上のはずの日記が、自己目的化した日記に転じてしまうのです。

この選択肢は、主語と述語だけを拾ってみると、「反省の記録としての日記は~自己目的化した日記へと転じる」となりますが、最終段落では「反省の記録」にあっては、「記憶」は「姿を消してしまう」、「これにたいして・・・・・・・」「パヴェーゼの日記(自己目的化した日記)」は「たえず自己にまつわる記憶を喚起」するとあり、文脈的に区別されています。

つまり「反省の記録」が「自己目的化した日記」に転じるという文脈は、本文では区別されているものを同一化してしまっている点で、おかしな因果関係になります。

内容的にもふみこんでおきましょう。〈選択肢⑤〉は、〈⑤段落〉あたりの話題から選択肢がつくられていますが、「世俗的な向上を目指す」という話題は本文に存在しません。たしかに、〈⑤段落〉には、「よりよい自己の実現、向上」「克己、向上」などの語句が出てくるが、それはすなわち、「自分自身の人間性を向上させること」という文脈で使用されています。ところが、選択肢では「世俗的な」という余計な言葉がついてしまっています。「世俗的」というのは、「世間・一般・俗世間」などの意味なので、「世俗的な向上」と言ってしまうと、「世間一般の評価を上げる」という文意になってしまいます。

〈選択肢⑤〉には「世俗的な向上を目指す自己中心的な功利性ゆえに ・・・⇒ 社会的、道徳的に外部への道が閉ざされる」という因果関係が書かれていますが、先に見てきたように、「世俗的な向上」というのは「世間一般の評価を上げること」という意味になりますので、「外部への道が閉ざされる」という結論につながっていきません。

「功利」という言葉は、「利益を第一優先とする考え方」のことです。

つなげて考えると、〈選択肢⑤〉は、「世間一般の評価を上げること」を目指す自己中心的な「利益を第一優先とする考え方」のために、「外部への道が閉ざされる」……というつながりになりますが、これは常識的に考えておかしな文脈であると言えます。

なぜなら、「世間の評価を上げよう」「利益を第一優先としよう」と考えるならば、むしろ、外部への道が「開かれる」べきだと考えるほうが普通だからです。

本文で述べられていることに一致しています。正解です。

以上です!