抗争する人間

今村仁司先生の「抗争する人間」についての補足説明です!

①ありえないことであるが、仮に人間が全く一人で存在するなら、定義によって社会はないのだから暴力もない。単独者ではなく、人間が社会的存在であるからこそ、つまり、簡単に言えば複数の他人といっしょに生活するから、暴力がある。暴力とは、何よりもまず他人への暴力であるし、それ以外はない。

筆者は「他人への暴力」だけを「暴力」とみなしているんだね。

「自分への暴力」っていうのもあるように思うけど、ひとまず批判しないで筆者の言いたいことを確認するぞ。

いい態度ですね!

筆者の述べることに対して、「違うんじゃないかな」って思うこともよくありますけど、いったんは「筆者が言いたいこと」を確認しましょう。

特に筆者が「ワード」をどのように「定義」しているかは重要です。

「〇〇とは◆◆」という構文があったら、重要視しておきましょう。

たしかに「自分・・への暴力」というものもあるように思いますけど、読者としての私たちの意見はひとまず脇において、筆者は「暴力は他人がいるから発生する」と述べていることに集中しましょう。

②なぜ人間は、他人といっしょにいると、あるいは他人に対面すると、暴力的になるのであろうか。人々は、他人に対面するとき、自分が他人よりも価値評価の面で上位にある、優越していると、欲望したり期待したりする。自分の優位性を自分で確信するだけでなく他人からも自分の価値(自己尊厳)を確認してもらう、あるいは同じことだが他人に強制的に確認させようとする。人間は自分の内面で自分は何者かであると確信することでは満足しない。人間は自分のこの確信を他人によって確証してもらいたい、自分の価値を是認してもらいたいと欲望し、その欲望を満足するまでは、他人に対して自分の優越価値を突きつけ続ける。人間の社会性は、他人から自分の存在評価を獲得するという行為にある。他人からの是認の欲望は激烈であり、それがよくも悪くも人間社会の原動力になっている。

ああ~。

これ、いわゆる「マウントを取る」ってやつだよね。

人は確かに、「自分のほうがすごいんだぜ」っていう優位性を示したがるよね。

で、「人よりすごいと思われたいからがんばる」っていう人も多いから、たしかに「社会の原動力」になっているといえるね。

これ、面白いのは、たとえば「イチロー」とか「大谷翔平」とかまでいくと、「俺野球うまいんだぜ」って言わないことですよね。

かりに言ったとしても、「うん、まあ、知ってますけど・・・」となります。

実際にすごくて、周囲から「すごい」って思われている人は、いちいち自分で言う必要がないんですよ。

③別のかたちで言えば、欲望とその満足の動きが重要である。自分の内面だけで「自分は偉いのだ。」と感じるだけでは、人間は決して満足しない。満足は自分の確信だけでは得られない。したがって他人の介在、他人が「そうだ、おまえは偉い。」と言ってくれないと、人間は満足しない

ああ~。

だから、「イチロー」や「大谷翔平」は、まわりが「すごい」って言ってくれているから、「承認」については十分に獲得していると言えるね。

そうですよね。

逆に、自分で自分のことを「俺スゲー」って言っている人って、たいていたいしたことないんですよ。

周りが十分にほめてくれていれば、自分で言う必要はないですからね。

だから、自分自身のことをやたらにほめる人って、「ああ、誰からも言ってもらえなくてこうなっちゃったのかな」って思われちゃいますよね。

④満足は決して孤独な個人の行為ではなく、初めから複数の他人との関係であり、社会的事実である。欲望は、他人に向かって他人による評価を欲望することであり、満足もまた、他人からの確認に依存するのだから、同じく社会的である。人間は誰であれ、自分はだめだとは決して思っていないが、その主観的確信客観的にしたいと激しく期待している。この自己確信を客観化すること、共同主観的にすることは、具体的にはどう表現されるかと言えば、公然と、誰にも分かるように、言葉と身振りをもって、他人が自分を価値的に是認してくれるように他人に圧力をかけて、力ずくでもその評価を獲得するというかたちをとって現れる。

これは筆者の意見に対して、「そうかなあ・・・?」って思うんだ。

「自分はだめだ」って思っている人、けっこういると思うよ。

そうやって、筆者の意見に「そうかなあ・・・?」って思いながら読むことって、けっこう大事なんですよ。

でもその気持ちをいったん(   )に入れて、「自分の気持ち」と「筆者の言いたいこと」を区別することが大切ですね。

まあ、たしかに、多くの場合、「マウンティング」っていうのは、「お前が思っているよりも俺はすごいんだぞ!」って伝えるための行為だよね。

自分で自分を評価すること(自己尊敬)が出発点であるが、更に進んで他人からこの自己評価を承認してもらう、あるいは無理にでも承認させること、この評価の二重性こそが、人間を社会関係の中に引きずり込む。他者を我のほうから引き込むのである。人間は事実においては常に既に社会の中に生きているのであるが、個人の側からその欲望と満足の動きを描くなら、自己確信から他者による承認へと動くのである。それが欲望と満足の関係なのである。

自分に対して、「俺は100スゲエ」って思う場合、他人からも「100スゲエ」って思ってもらいたいってことだよね。

そうですね。

まあ、たしかに、「俺は45スゲエという自覚があるけど、他人からは100スゲエと思われたい」っていう人はそんなにいない気がしますね。

どちらかというと、「100スゲエ」と自分で思っているのに、世間から「32」くらいのひょうかに思われているような状況で、不満ってたまりますよね。

⑥人間が「世間(社会)の中で生きる」という事態において、つまり、社会的経験において、最も原初的な精神の体制は、この二重の確認(自己によるのと他人によるのとの二重性)である。重要なこと、肝心なことは、満足するという事態である。その満足は、肉体の欲望の満足とは本質的に異なる。

たしかに、こういうのは「肉体の欲望の満足」ではなくて、「精神の欲望の満足」だよね。

「温泉入ってポカポカで気持ちがいい」とかとは別の満足ですよね。

⑦肉体の欲望の満足は、空腹を満たすと終息するように、欠如の充塡である。空白がなくなれば欲望の動きはその限りで停止する。しかし社会的欲望は、欠如を知らない。肉体の満足があっても、社会的欲望は満足しない。物質的に満足していても、人間は「もっと多く」を欲望する。社会的欲望は、自分の外部にある他人の精神的行為を、つまりは我を評価してくれる他人の精神を欲望するのであるから、他人の精神が我のほうに方向を向け直すまでは欲望の満足はありえない。他の人間の存在は、こうして、我の存在、または人格の精神的満足にとって不可欠の条件になる。

ああ~。

たしかに「肉体の満足」って、「これ以上はいらない」っていう「限界」があるよね。

「お腹すいた」という「欠如」に対しては、「おにぎり4つ」くらいを食べれば終了するから、逆に「おにぎり19個」とか無理に食べたら、かえって「不具合」が生じてしまう。

でも、「承認欲求」なんかは、「100人」にほめられることと「1000人」にほめられることだったら、明らかに後者のほうが「すごい」感じになる。そういう意味では、「精神の満足」は「これが埋まるとちょうどいい。これ以上はかえって迷惑」という「穴(欠如)」がない感じなんだね。

そうですね。

先ほど「イチロー」や「大谷翔平」の例がありましたけど、彼らくらい「誰からもほめられる」ような存在になると、「もっともっとほめられたい」というモチベショーンにはならないでしょうね。ただ、「イチロー」や「大谷翔平」といった「特別な例外」はいったん除外しまして、「普通の人たち」の話に戻りましょう。

「普通の人たち」は、やはり「相手よりも優位であることを認めさせたい」という欲望がはたらきますから、「マウント合戦」のような構図になりやすいですね。

⑧ここから、人間の間に、競り合い、更には闘争が生まれる。なぜなら、他人による評価は自動的には生じないからである。互いに他人を自分よりも劣った者と感じる傾向がある限り、複数の人間の間には競争と闘争が生まれるほかはないからである。

ヤンキー同士の「おめえ、なに見てんだコラ」「そっちこそ、なに見てんだオラ」って言い合うようなのも、「俺のほうが強いんだぞ」っていう「威嚇合戦」だよね。

まさにそうですね。

⑨当事者たちは、相手以上の者になろうとする、つまり、相手以上の価値があると見せかける努力をするだろう。自分の価値を額面よりも高く相手に見せかける努力は、普通は物を媒介にして行われる。例えば、地位を表示する物体を獲得することで、自分の社会的地位を観念的に上昇させようとする。これは消費社会の人間の行動の中に、比較的無邪気なかたちで見られる。これが集団の間の現象として出現すると、集団の価値評価競争は、ナショナリズムなどの形式で暴力的形態をとるようになる。戦争は種々の原因から生まれるが、その中でも主要な要因は、集団的存在の優越意識を他の集団から獲得する精神的動機にある。いずれにしても、結局のところ、他者に優越しようとする欲望は、観念の中での優越意識であり、それは見せかけの意識であり、つまりは虚栄心である。

「国」対「国」で「優位性」を保とうとするのも、「虚栄心」からきていると筆者は述べています。

それが露骨になるとデマやヘイトにつながっていくんだろうね。

社会の中で生きるとは、パスカルが鋭く指摘したように、他人の視線の中で生きること、虚栄心を持って生きることである。

筆者は、「社会の中で生きる」=「他人の視線の中で生きる」=「虚栄心を持って生きる」とつなげていますね。

⑪上位にある人間に向かっては、上位からの承認を得たいと努力し、承認が得られると、今度はそれまで手本であり上位にあった相手よりも優越したいと欲望し、彼に打ち勝つように行為をする。

最初は「師匠」にほめられることがうれしかったのに、次第にその「師匠」よりも「上」に行きたくなって、「師匠」に戦いを挑んだり、「師匠」を馬鹿にし始めたりっていう構図は、ドラマなんかでもよく出てくるね。

⑫同等者に向かっては、同じ存在、等質的な存在であるだけに、差異が全くないがゆえに、それだけいっそう激しく、相手に打ち勝ち、相手をおとしめようと努力する。

最も苛烈に争いが起きやすいのはやはり「同じくらいの間柄」でしょうね。

ヤンキー同士なんかは、「こいつと同じランクに思われたくない」っていう意識がはたらくので、「世間からみて同じようにランク付けされている関係」が一番燃えますよね。周囲から見て「同等」とみなされやすい相手にこそ、「対抗心」って芽生えてしまうんですよ。

⑬下位の者に向かっては、相手を劣った者と見なし、相手から高い評価を期待し、ときには無理にでも強制して承認させる。 

よくドラマなんかで、感じの悪い上司が、「俺を誰だと思ってるんだ!」とか、「誰に向かって口ごたえするんだ!」といった暴言を部下にはきすてるシーンがあるよね。「俺を偉い人として扱え」っていう強制だよね。

⑭こうして、虚栄心は、上下左右の方向で、絶えず他人の視線を気にして、他人に向かって自分の価値を承認するように要求し続ける。これは単なる内面の遊戯ではなく当事者にとっては真剣な生存のための努力である。特に人間は、自分以下にいると勝手に決めつける人間の存在を要求する。虚栄心の動きが暴力になる、つまり、単に心理的な暴力だけでなく物質的、物理的暴力として出現するときが最も危険である。その瞬間は、無理にでも社会的に格下げされた人間を作りだすときである。

「上下左右」というのは、ここまで述べてきた「上位にある人間」「下位の者」「同等者」を指していますね。

昔はよく先生が生徒をひっぱたいていたけど、あのように「物質的、物理的暴力」というのは、「最も明示的な上下関係のあかし」だよね。

AさんはBさんを殴れる。しかし、BさんはAさんを殴れない。

という構図であるとき、最も「A>B」という「序列関係」が明示されているといえる。

⑮虚栄の欲望は犠牲者を創造する。仮に万人が同等である場合があるとしても、その場合には社会は無理にでも下方に劣ったと見なされる集団、犠牲になる集団を生産する。人類のこれまでの歴史に照らして見るとき、人間の社会は常に犠牲者を生産してきた。その理由の最も重要な原因の一つが、他人からの承認を獲得しようとする虚栄の欲望である。排除と差別は、犠牲者の生産のメカニズムから生まれる。経済や政治の要因だけで尽きない理由がそこにある。

アリス・ミラーに『魂の殺人』という本によれば、こういう「マウンティング」をする人は、決まって「かつて自分がされたことがある人」だといいます。

「他を犠牲にする」という手段で虚栄心を満たそうとする者は、かつて「犠牲になった者」だというのです。

そういう「負の連鎖」を断ち切るために、必要なことはなんなのでしょうか。

⑯虚栄心は人間の精神の働きである。経済的不平等を改革するだけでは、また、政治的不平等を改善するだけでは、人間の内なる暴力は解消しない。そこに倫理の課題が立てられる。

⑰倫理は人間の精神に関わるのであって、物質的な制度改革では処理のしようのない課題に取り組む。確かに、差別や排除に関わる種々の問題を制度的に克服することは、常に差し迫った課題であり、政治的改革と法律を手段とする人間の同等性を確立する努力は最も重要な仕事であろう。しかし政治的実践や立法的手段では尽きない問題が常に残る。なぜなら、暴力とそれが産出する社会的問題は、決して物理的暴力とその諸結果に尽きるものではなくむしろ暴力現象は本質的に精神的現象であるからである。

これは本当にそうですね。。

むしろ、⑫段落にあったように、「同等にみえる間柄」こそ、「精神的に優位に立とうとする」感情が芽生えやすいものです。

たとえば、「同じ給料をもらっている同じ位階の貴族」が「2人」いるとした場合、「経済的」にも「政治的」にも「平等」になっています。でも、その「2人」のあいだでこそ、「争い」は起こりやすいともいえますね。

ああ~。

「システム」が「平等」であっても、「虚栄心」は人間の精神の問題であるから、なくならないんだね。

つまり、「暴力をはたらきたくなる精神」は「根本的・本質的に人間に備わっている」ということですね。

⑱精神には精神が向かい合うのでなくてはならない。暴力を生みだす精神に対抗して、暴力を抑制する精神の行動が決定的に重要である。暴力に対面し、暴力を抑える精神の営みをここでは倫理とよびたい。

「もともと持っているその悪い心」を、「抑えつけるための心」が「倫理」であると筆者は言っています。

⑲社会的人間は、日常的にはたいていは、そして原理的に見ても、他人に対面するとき、他人に優越し、他人をおとしめようとする激烈な欲望を持ち、競争と闘争の循環に巻き込まれていく。もし虚栄心、または他人による承認への欲望が、社会の中で生きる人間の基本的構造であるなら、そのとき倫理は、この精神の構造の中にくさびを入れる以外のことはできない。他人から自己尊厳の承認を要求するのが虚栄心の本質であるとすれば、自己尊厳のくなき追求、あるいは社会的欲望の拘束なき拡大の過程を切断するほかはない。他者を犠牲者にする欲望をかきたてる原因が、自己尊厳の肥大化にあるとすれば、普通は肯定的に受け止められている「自己尊厳」、または自己尊敬を、一度根源から疑ってみる必要がある。恐らくは、近代において極端なまでに肯定され称賛されてきた主体性の概念をひそかに支える自己尊敬、自己尊厳が、他者を犠牲者として生産する最大の原因でありうる。

そのまま放っておくと「自己尊厳が満足することなく追い求められてしまう」「社会的欲望が拘束されずにどんどん拡大していってしまう」のが、人間の本質なんですね。

そこに「くさびをいれる」「切断する」はたらきをするのが「倫理」であると筆者は述べているのですね。

ん・・・、これって「性悪説」じゃないのかな!

そういうことですね!

人間の本性は、「承認されたい存在」であり、その「承認されたい自我」は、ついつい「暴力的行為」に及んでしまう。ということは、「人間はほうっておけば悪」ということになります。

その「悪い心」と向き合って、「抑制」する努力を筆者は「倫理」と呼んでいるのですね。

自我としての欲望、あるいは欲望としての自我可能な限りゼロ化していく(ゼロに還元する)努力は、倫理的努力とよばれるにふさわしい。他人を排除したり、他人を敵として排撃する通常の社会的行動を反転させないでは、あるいは、それを抑制したり抑え込むのでなければ、他人を客として迎え入れるホスピタリティはとうてい実現しないであろう。「我」が可能な限りゼロに近づくとき、その「我」は、いわば非我または他人を包む「容器」になりうる見込みがある。他人の悲惨に対して、応答するという意味での責任をとるためには、自分の欲望(身体の欲望ではなくて、対他人関係の欲望、他人の欲望の対象、または目的になりたいという欲望)の本質に対して真正面から向き合い、その自分の欲望の本性を認識し、その自覚を通してその欲望を可能な限りで極小にすることを要求するだろう。その意味で、倫理的態度とは、何よりもまず社会的存在としての自我が抱える欲望との批判的対決であり、対他欲望を消し去るための闘いである。

少し脱線するのですが、「自分は誘惑に強い」と思わないほうが、誘惑を断ち切ることができるのだそうです。

たとえば、「ゲーム機」がとなりにあっても、「強い意志の力でゲームをしない! 俺は意志が強いんだ!」と、思っても、結局はゲームをしてしまう人間が多いのです。

逆に「自分は誘惑に弱い人間だ」ということを「自覚」して、ゲームを押し入れにしまってしまうとか、セカンドストリートに売っぱらってしまうなどの「対策」を立てたほうが、「誘惑に負けない」という結果を得ます。

何が言いたいかというと、「自分には虚栄心なんかない!」と思うのではなくて、「自分には虚栄心がある。だからこそ対策をしよう」というように、「性悪」であることを認めて、それに向き合って対策を立てたほうが、「暴力的行動に出てしまう」可能性は減るのではないでしょうか。

㉑社会の中で生きる限り、人は虚栄心その他の対他欲望を持たざるをえない。人間とは欲望自体である。だから社会の中で他人といっしょに生きる以上は、欲望を消し去ることは不可能であるかにみえる。しかしあえてその不可能なことに挑戦することの中に倫理的努力があるだろう。倫理的態度は、日常生活の規範遵守し、現実を肯定する日常的なモラルではない。それは自己への挑戦であり、欲望的存在である自己の在り方を変容させて、現にある他者との関係とは異なるかたちの、対他関係を探求することである。

たしかにそう見えますね。

「人はそもそも暴力的である」「人よりも優位でいないと気が済まない」という「悪としての本質」を認めたうえで、そういう「悪い心」が行動に反映されるのを抑制しようとする態度を「倫理的態度」と言っているのですね。