(A)
(イ)白亜
(ロ)文言
(ハ)清浄
(ニ)隔絶
(B)
(a)しゅんこう
(b)じゅうたん
(c)ごうがん
(C)
グレアム・グリーンの『情事の終り』では、人妻サラが恋人の命の甦りを祈って、もう二度と彼と逢わないことを条件に神と取引する。祈りというものは自分から出ていくものであるが、ご利益のように自分へと【 A 】はしない。サラのように、罰としてかえってくることはあっても、それは、自己が自己をのりこえていく運動であるだろう。

選択肢の意味は次のとおりです。
1 応報 善悪の行いに応じて受ける吉凶・禍福の報い。果報。
2 還元 物事をもとの形・性質・状態などに戻すこと。もとの在り処に戻すこと。
3 循環 ひとめぐりして、もとへ戻ることを繰り返すこと。
4 投影 ある物の存在や影響が、他の物の上に現れ出ること。
5 反射 媒質中を進む光・音などの波動が、媒質の境界面に当たって向きを変え、もとの媒質に戻って進むこと。
直前から見ると、
祈りというものは、自分から出ていくものであるが、ご利益のように自分へと【 A 】はしない。
という文脈です。
逆接の接続助詞「が」で反転することを考えると、後半の文脈は、「ご利益のようにもどってくることはない」というような意味内容になると考えられます。

シンプルに「戻ってくる」という意味をもつ語としては、〈2〉の「還元」がいいですね。〈2〉が正解です。
不正解の選択肢
1
「応報」は、細かく見れば、「ご利益のように応報」という「語と語との対応関係」が成り立ちません。
「応報」とは、「自分の何らかの行い」に対して、結果的にそれに見合った「報い」がもたらされるということです。「小さな善行」には「小さな幸運」がもたらされるのであり、「大きな罪」には「大きな罰」がもたらされるのです。

さて、本文の「ご利益」とはどういうものでしょうか。
ここで「ご利益」と述べられていることは、私たちの日常会話で頻出する「ご利益」のことです。たとえば、神社でお賽銭をだして祈ったら幸せがおとずれるとか、そういう「いいことがある」という「ご利益」ですね。
人々は、「このお地蔵さんの頭をなでるとご利益があるらしいよ」とか、「このお守り持ってるとご利益あるよ」などと会話します。

さて、お守りを持っているくらいで、「いいこと」があるというのは、果たして「応報」と呼べるものでしょうか。
いえ、それは「応報」と呼べるものではありません。
私たちが普段「ご利益」と言っている現象は、私たち自身の「労」に対して「等価的に」もたらされるものではありません。
一方、「応報」というのは、「いいことをすればしたぶんだけいいことがある」「悪いことをしたらしたぶんだけ悪いことがある」というような意味合いですので、「ご利益のように自分へと応報」という表現は辻褄が合わないことになります。
3
「循環」は、「繰り返す」という意味が余計です。
4
「投影」は、「もどってくる・帰ってくる」という意味になりません。
5
「反射」は、鏡のような、何らかの「モノ」によってはねかえることを意味しますが、空欄【 】の前後で「はねかえす物体」については何も語られていません。したがって×です。
(D)

傍線部「空間の力」の直前に、要約系の指示語である「こうした」がありますので、前の部分を広くまとめることが必要です。
高い天井を仰ぐと、アラビア文字と文様が細密に描かれた丸天井があった。高い天井というものは、ひとを妙に宗教的な気分に誘うものだ。見ていると、心が天にぐいっと釣り上げられ、身体のほうがからっぽになってしまう。自分の外側に広がっている空間がそのまま内側に反転し、どこまでも広がっていくように感じられる。宗教を実践する場所というものには、日常生活の悩みや雑事の類をいったんくだいて小さく拡散してしまうような、こうした空間の力が必要なのだろうか。
この「前の部分」を広くまとめている選択肢が正解候補です。
選択肢検討
1
「瞬時に」が〈言い過ぎ〉で×です。
また、「自己をのりこえさせる」が〈話題なし〉で×です。「自己をのりこえる」という話題は後半で出てきますが、「こうした」が指している内容ではありません。
2
「願うばかりの者を、はじき返す」が〈話題なし〉で×です。
3
「モスクの内部に引き込む」が〈事実と矛盾〉で×です。

筆者はすでにモスクの内部にいて、高い天井を見上げながらこのような感覚を抱いています。
もしも〈3〉が正解になるのであれば、「玄関」や「門」の力でなければならないでしょう。
4
〈本文〉「心が天にぐいっと釣り上げられ」 ⇒ 〈選択肢〉「心を飛翔」
〈本文〉「身体のほうがからっぽになってしまう」 ⇒ 〈選択肢〉「からになった身体」
〈本文〉「自分の外側に広がっている空間がそのまま内側に反転し、どこまでも広がっていくように感じられる」 ⇒ 〈選択肢〉「内部から押し広げる」

以上のように、傍線部の前を広くまとめていると言えます。これが正解です。
5
「拡散させた後に凝縮」が〈話題なし〉で×です。「凝縮」とは述べていません。
(E)

筆者にとっての「祈り」をまとめる問題です。
まずは、傍線部(2)の含まれる文で、「願い」とは違うと述べられていることから、「現世的な願いではない」とか、「自己本位な願いではない」ということに言及できるとよいでしょう。
ただし「願い」の性質についての説明は、「問われていることそのもの」ではないので、字数を圧迫しないように注意しましょう。
そもそも「対比内容」は、採点基準に含まれていない可能性すらあるので、「願い」のほうを説明するための作業に、「字数」を多めに割かないほうが賢明です。
〈ポイント〉
対比内容を入れる場合には、字数を少なめにする。
どれくらいそこにいたのだろう。一人、ひざを折り曲げて正座しながら、私はその祈りの広場でぼんやりしていた。
祈りという言葉を聞いても、祈るべき「もの」や「こと」が私にはなかった。現世的な願いならいくつもあるような気がしたが、「祈り」と「願い」は違うだろう。私はきゅうに、自分自身が自分のことばかりあれこれと願うばかりで、かつて祈ったためしのない傲岸な人間であるような気がしてくるのであった。
グレアム・グリーンの『情事の終り』では、人妻サラが恋人の命の甦りを祈って、もう二度と彼と逢わないことを条件に、神と取引する。祈りというものは自分から出ていくものであるが、ご利益のように自分へと還元はしない。サラのように、罰となってかえってくることはあっても、それは自己が自己をのりこえていく運動であるだろう。
ひとは、おそらく、いろいろな方法で、祈るという作業をしているのではないか。料理を作ったり、花に水をやったり、子供やどうぶつを育てたりすることで。そしてそのときの私には、何もせず、何も産み出さず、働かず、ただ在るという、それだけの状態でいることが、私の祈り方であるような気がしたのである。
水の上に浮かんだ落ち葉のように、ただ、この世に無力に浮かぶという存在の在り方。それは私に、自分がかつては羊水に浮かぶ「胎児」であったことを思い出させた。
私はひどく疲れていた。
あのとき、階段のうえのほうから、来い、と手招きしてくれた、浅黒い肌の男。彼はいったい何者であったのだろう。ふらふらと迷い込んだモスク。ぱっくりと東京にあけられた不思議な空間は、それ自体がこの世に無力に浮かんだ空気袋のようである。
「祈りというものは」という「定義文」があり、直後の文で「それは自己が自己をのりこえていく運動」と説明されています。「それ」は「祈り」を指している指示語だと考えられます。
次の段落には、「ひとはいろいろな方法で祈るという作業をしている」というように、少し具体的な話があります。いろいろな「祈り方」が紹介されていますが、「筆者」にとっては「何もしないこと」が「祈る」ということであったのですね。

設問は、
筆者は「祈り」をどのようにとらえているか。
というものです。
「祈りとはどういうものか」ではなく、「筆者は祈りをどのようにとらえているか」という「問い方」をしている点に注意しましょう。
本文には、「私の祈り方」について説明されていますので、そこが答案の「核心」になると考えましょう。
何もせず、何も産み出さず、働かず、ただ在るという、それだけの状態でいることが、私の祈り方

先ほどの、「自己が自己をのりこえていく運動」という説明と組み合わせて、〈答案の下書き〉をつくりましょう。
〈答案の下書き〉
現世的な願いとは異なり、何もせず、何も産み出さず、働かず、ただ在るという、それだけの状態でいることで、自己が自己をのりこえていく運動。
青字部分は冗漫な表現なので、あっさりコンパクトにしてしまいましょう。
これは次の段落に「この世に無力に浮かぶ」という表現でまとめられていますので、そちらを使用するほうが字数を詰めることができますね。
〈答案の下書き〉
現世的な願いとは異なり、無力なまま存在することで、自己が自己をのりこえていく運動。

これで6割くらいの点数が入りますね。
ただ、「最後のつめ」が甘いので、そのへんを解決しましょう。
「無力」という さて、しかし、「無力なまま、ただ存在することで、自己が自己をのりこえていく」といわれても、いまひとつピンときません。「飛躍」があって、どうして乗り越えられるのかがわからないのですね。
「自分」が「無力」でいると、どうして「自己をのりこえていく」ことになるのでしょうか。
〈大原則〉
よい記述答案とは、課題文を読んでいない第三者に、イメージをうながすものである。
「抽象的すぎて絵にすることができない答案」は、よい答案とはいえない。「その答案」を読むことで、「たとえばこんな感じ」というイラストにできるような答案が「望ましい答案」である。
*ただし、「具体例」まで取り込むわけではない。
ここでは、
無力なままでいる ⇒ 自己をのりこえる
〈x〉 〈y〉
という論理の、〈x〉から〈y〉の間に「わけのわからなさ」があります。いわば「論理の飛躍」があります。
どうして、「何もしないで無力に浮かんでいるような存在の仕方」が、「自己をのりこえる」ことにつながるのでしょうか。

最大のヒントは、すでに解いた〈設問(D)〉です。
いったん、設問(D)で問われていたことに戻ってみましょう。
そこでは、
見ていると、心が天にぐいっと釣り上げられ、身体のほうがからっぽになってしまう。自分の外側に広がっている空間がそのまま内側に反転し、どこまでも広がっていくように感じられる。宗教を実践する場所というものには、日常生活の悩みや雑事の類をいったんくだいて小さく拡散してしまうような、こうした空間の力が必要なのだろうか。
と述べられており、筆者は、この空間を「その祈りの広場」と称し、そこから「祈り」の考察が深められていきます。ここが根拠になります。
「自分をからっぽにする」ことによって、「外部世界」との隔たりが希薄化し、外部世界と自己が、「融合」「浸透」するように感じられるのです。

自己をからっぽにするからこそ、外の世界が入ってくるんだね!
そう考えれば、「だからこそ、祈りは、自己をのりこえていく運動なのである」と言えます。自己を解き放ち、外部世界にアクセスすることで、いわば「自己の再編集」をするのです。
以上により、次のような答案が成立します。
〈推奨答案〉
現世的な願いとは異なり、無力なまま存在することで、外部世界に浸透し、自己が自己をのりこえていく運動。
〈配点表〉10点
現世的な願いとは違う/自己本位の願いとは異なる 3点
無力なままでいる(同趣旨なら加点) 3点
外部世界(空間)に浸透する/融解する/融合する 2点
自己が自己をのりこえていく運動 2点
おまけ(1)

設問を解くための作業としては反則技なのですが、この「日々のなかの聖性」が収められている『黒雲の下で卵をあたためる』という随想集を見てみましょう。この入試問題の課題文は、「図書」という雑誌から採用されていると思われるのですが、この文章は、単行本になる際に、下記のような加筆修正が施されています。
グレアム・グリーンの『情事の終り』では、人妻サラが恋人の命の甦りを祈って、もう二度と彼と逢わないことを条件に神と取引する。祈りというものは自分から出ていくものであるが、ご利益のように自分へと還元はしない。むしろサラ自身が求めたように、懲罰や自己犠牲と引きかえに為される。祈りは自己が自己をのりこえていく運動である。
私が明治神宮で、神妙な顔をして、「他には何も、のぞみませんので、もう少し先まで詩を書かせてください」などと願うのは、たいへんしみったれた感じがして、だから、わたしは、ここでは何も願わず、祈らず――というよりも、祈り方を知らず――ただ、からっぽになってそこにいることにしたのだった。
ひとは、おそらく、いろいろな方法で、祈るという作業をしているのではないか。料理を作ったり、花に水をやったり、子供やどうぶつを育てたりすることで。そしてそのときの私には、何もせず、何も産み出さず、働かず、ただ在るという、それだけの状態でいることが、私の祈り方であるような気がしたのである。
加筆修正されている部分では、「祈りは自己が自己をのりこえていく運動である」ときっぱり定義されていますし、「ただ、からっぽになってそこにいる」と述べられています。

「からっぽになれる場所」っていいね!
おまけ(2)
設問には直接関係しませんが、この「外部(世界)」と「内部(自己)」の構造は、そのまま「東京」と「モスク」の構造と類型的に喩えられています。

〈⑳段落〉では、こう述べられています。
あのとき、階段のうえのほうから、来い、と手招きしてくれた、浅黒い肌の男。彼はいったい何者であったのだろう。ふらふらと迷い込んだモスク。ぱっくりと東京にあけられた不思議な空間は、それ自体がこの世に無力に浮かんだ空気袋のようである。
遡って、〈⑦段落〉では、こう述べられています。
不思議なことに、現代日本の風景のなかに、イスラムのモスクが、静かに溶け込んでいた。
つまり、「モスク(内部)」は、無力に浮かび、そうであることによって「外部(日本・東京)」と浸透しているのです。

これは見事に、「筆者」と「モスク」の関係と、マトリョーシカのような入れ子構造になっています。恐るべき文章構成力です。
そして、最終的に、これらすべての比喩を総括する存在は「赤ん坊」です。
その日、私が一人で座っていると、しばらくしてから、赤ん坊を連れた母親がやってきた。よくふとった赤ん坊は絨毯のうえに無力な置物のようにごろりと寝かせられた。高い天井を好奇心いっぱいに満ちた目で静かに眺めている。母親のほうは目をつぶり、疲れのせいか、自分のなかへと重く沈んでいる。
やがて赤ん坊が、次第にあんあんと、なにごとかをしゃべりだした。おそらく五ヵ月か六ヵ月くらいだろう。何かをさかんに言いたいのであるらしい。その声が高い天井に響いてこだまする。意味として固まり始める前の、泡状のことばが空間を浮遊する。まるでこの場所で、いま、自分の声を、初めて発見したとでもいうような、それは懐かしい、原初のよろこびに満ちた声であった。
「赤ん坊」は、「無力な置物のような」存在ですが、それゆえに、凝り固まった「自己」をまだ持っていません。ある意味では、徹底的に外部世界と融和している存在です。
赤ん坊の発した「声」は、たしかに赤ん坊の身体から出たものですが、赤ん坊自体が、外部世界を経由するかたちで声を「発見」している(ようです)。つまり、「赤ん坊」は、ここで、「天井の高い祈りの部屋」という外部空間からやってきた「自分の声」を聴くことで、それまでの自分を少し変質させているのです。それはたとえば、どんぐりから若葉が発芽するような、静かではありつつも感動的な変化だといえます。
筆者はそれを「懐かしい」と感じています。それもそうでしょう。それは筆者自身が体感してきた経験であるはずだからです。もちろん、自身の赤ん坊の記憶を再現的にイメージできる人はそうはいません。しかし、赤ん坊という時期を経験しなかった人はいません。必ずその時期はあったのです。
以上のように、赤ん坊は、外部世界に開かれ、絶えず自身を変質させ続けている存在としての象徴だといえます。

以上のことは、最後の設問である(F)の〈選択肢ホ〉を考察する際に重要になるので、頭に入れておいてください。
(F)

本文と照応していきましょう。
イ
合致しています。 ⇒ 1
ロ
「偶像もない寺院」は、むしろ筆者に「ここにいてよいのだ」という感覚をもたらしたのですから、「ものたりなさ」は矛盾します。 ⇒ 2
ハ
この建物(東京ジャーミイだと思われる)に入るのが初めてであることは明確にわかりますが、筆者が「イスラムの寺院」に足を踏み入れたことが初めてなのかどうかはわかりません。
また、「初めてだから疲労を覚えた」という因果関係も明示されていません。
また、「ひどく疲れていた」という表現はありますが、それが「肉体」の披露なのか、「精神」の披露なのかは特定できません。したがって、「肉体」と限定することはできません。
以上の理由により、本文と合致しません。 ⇒ 2
ニ
「周囲の景観とは異質のたたずまい」がおかしいです。本文では、「現代日本の風景のなかに~静かに溶け込んでいた」とあります。したがって、本文と合致しません。 ⇒ 2
ホ
合致しています。 ⇒ 1
「原初のよろこびの声」は、もともとは「赤ん坊」から発せられているのですが、「天井に響いてこだまする」「泡状のことばが空間を浮遊する」とあり、「赤ん坊」は、「その声」を「初めて発見した」かのように描写されています。
ということは、これが「原っぱ」だったら、「よろこびの声」にはならないわけですね。あくまでも「空間に響いてこだま」するからこそ、「赤ん坊(そして筆者)」にとっては「よろこびの声」として享受されるのです。
そう考えると、〈選択肢ホ〉の「聖なる空間からわきおこる」という表現は、「正しい」と読解するほうが筆者の考えに沿います。



以上です!