平家物語

みんなご存じ『平家物語』についての論評です。

問一

空欄ア 3

【空欄ア】を考えましょう。

西行は、
義仲の過去の一切を、自己の現在の心情のなかに内面化してしまっている。(a)
         ↑
     これにたいして
         ↓
物語の作者は、
義仲の過去を、時間的な経過と展開のなかで叙述しなければ、
「怒り」一つを理解できない性質の人間

物語作者は
このような外的なものに媒介され、客観化されなければ、
「怒り」をとらえることができない。(b)

【 ア 】それ は 西行の精神、歌の精神とは異質 (c)
     (b)     (a)

(a)と(b)の文は、対立しています。それらの流れを受け止めるかたちで、(c)の文が存在しています。(c)の文は、「(b)は(a)とは異質である(対立している)」というふうに、これまでの文脈構造を端的にまとめているわけですから、

つまり/したがって/要するに/すなわち/このように

などの、「換言系」または「まとめ系」の語が入るはずです。

選択肢の中では〈3〉「したがって」がいいですね。

〈3〉が正解です。

少し脱線して、内容に踏み込んで補足しておきましょう。

空欄【 ア 】の前後で述べられている内容を、現代にあてはめて考えてみます。

たとえば「尾崎豊」を論じようとするときに、西行・定家などは、尾崎の「15の夜」の歌詞をしみじみとながめて、「落書きの教科書と外ばかり見てる俺」と歌っている尾崎の心情は、どのようなものなのだろうか? という具合に、尾崎の経歴や詳細な過去などを考慮に入れずに、人間そのものに内面から迫っていくやり方をとります。
(a)

一方、物語作者は、尾崎が「田柄小学校」に入学して、「東練馬中学校」に入学して、「青山学院高等部」に入学して、夜の校舎窓ガラス壊してまわって、自主退学して、というような「時間的系譜」や「属性」などから、「尾崎豊」という人間像にせまっていくようなやり方なのです。(b)

(a)のようなやり方は、「外側の情報」をできるだけ見ないという点で、「内的」なものです。また、対象とのそのような接し方は、「ここで尾崎が思っていたことはこういうことだろうか? 俺はこういうことだと思う」というような「鑑賞者の解釈」を必要とするので、客観的なデータによって外側から人間像に迫っていくよりも、主観的・恣意的なものになりがちです。

対して(b)のようなやり方は、尾崎という人間にまとわりついている「外側の情報」を切り捨てず、「一人の人間」としてよりも、「社会の中でどういう立場にあったのか」ということに着眼するので、「外的」なものを重視していると言えます。また、「尾崎」を「他者」とみなして距離を置き、「自分とは違うもの」として見ていくという点で、「客観的」だと言えます。

空欄イ 1

では、空欄【 イ 】を考えましょう。

西行が鎌倉殿源頼朝の権威を無視したように、
彼(藤原定家)においては
「旭将軍」義仲は、「木曾と申す武者」あるいは「木曾人」というところでとらえられる。
    ↓
物語作者も根本においては、同じであるし、そうでなければならないだろう。(x)
(物語作者も、根本的には、西行や定家と同じように、権威や肩書といった外的な物の「内側」にある「人間」を見なければならない、ということ。)

【 イ 】

物語作者は、西行(和歌作者)には不要な虚飾ともみえたであろう
「旭将軍」的なもの(外的なもの)を通して、
「外皮」との関連の中ではじめて、
義仲の人間像をとらえるのである。(y)

(x)では、物語作者も根本では、義仲の「人間」という内側に迫らなければならない(そのこと自体は西行・定家と同じ)、と述べています。

ところが(y)では、「その迫りかた・・・・が違う」ということが述べられている。「西行・定家が、外側のものをできるだけ無視したことに対して、物語作者は、外側のものを通して人間像に迫っている」という文脈なのである。

そうすると、(x)と(y)の関係は、異なることを述べていることになりますので、「しかし・だが・ところが」などの逆接の接続詞が入ることになります。

選択肢の中では〈1〉「しかし」がいいですね。

〈1〉が正解です。

問二 1・7

「物語作者」と「西行・定家」が区別されている話題は、「物語」「歴史」という〈外的なもの〉を、「物語作者」は切り捨てず「西行・定家」は切り捨てた、ということです。

「旭将軍」という名は、義仲にまつわる歴史や物語が込められているものであり、西行がその名で呼ばなかった・・・・ということは、義仲にまつわる歴史や物語をいったん切り捨てることを意味します。

【空欄ア】の直後には、

西行にしても平家物語の作者にしても、義仲の物語やその死について見、あるいは聞いていることはほぼ同じであったろうし、そこからうける物語的な感動や興味もそれほどちがわなかったにちがいない。

と述べられていますが、その後には、

しかし歌はそのような物語的なもの、歴史的なものを一旦断ち切って、自己の心情の現在に集中するところに成立する。

と述べられています。

ここで「断ち切って」の対象としてきっぱりと明示されているものは、「物語的なもの、歴史的なもの」です。

このことから、西行(≒歌)が断ち切ったのは、「外的なもの」すなわち「物語」「歴史」になります。

したがって、正解は〈1・7〉です。

問三 5 

典型的な「どういうことか」という設問ではないことに注意しましょう。

「ここで筆者が述べたいことは何か」という問題です。ということは、傍線部の表現から読み取れる〈真意〉のほうを読まなければなりません。

傍線部の前には、「無常思想はこの時代の平凡な思想」と説明されています。それを受けて、「無常観や運命観が平家物語の生命・財産であるならば・・・・・、平家物語のような作品がなぜ平家物語一つしか出なかったのだろうか」と、疑問文として表現されています。

表現上疑問文であるのに、「述べたいことは何か」と聞いているということは、これは「反語」だということになります。

「反語」とは、形式上疑問の表現をとり、その表現とは逆の主張真意となるレトリックです。

「あんた勉強しなくていいの?」であれば「(いや、いいわけがない)勉強しろ」という〈主張〉が含意されているのであり、「俺たち、甲子園を目指しているのにこんな練習量でいいのか?」であれば、「(いや、いいわけがない)もっと練習しよう」という〈主張〉が含意されているのです。

したがって、【反語】は、表現の裏の意味を主張として取ればいいので、この傍線部は、次のように読解できます。

無常思想が平凡な思想であった時代に、平家物語のような作品が平家物語一つしか出ていないということは、無常観や運命観は、平家物語の生命・財産ではないのである。

なお、〈傍線部A〉の直後に、この主張そのものが明示されています。

このことを考えると、平家の作者はその思想や世界観以外のところで、ある特定の傾向、能力をもった人間にちがいないことがわかる。

つまり、筆者が〈傍線部A〉の反語表現で述べたいことを、コンパクトに考えれば、

平家物語の生命・財産は、無常観や運命観ではない・・・・! もっと他にある・・・・

ということになります。

〈記述想定答案〉
無常観や運命観は、当時の常識的価値観であったため、平家物語の非凡性・特異性は、それ以外の点に見出すべきであるということ。

最も近い選択肢は〈5〉です。

正解は〈5〉になります。

不正解の判断材料

「これをテーマにした作品がほとんど現れなかった」が〈本文と矛盾〉で×です。

本文には、「この時代に書かれたものを見ると、いたるところに末代・末世・末法という言葉が出てくる」と述べられています。

本文終盤の例を見ると、『方丈記』も無常観をテーマにした作品であることがわかります。

「無常観や運命観をテーマとする作品は平家物語以外に作られなかった」が、〈本文と矛盾〉で×です。

〈1〉と同じ理由ですね。

「その特質は対句を重ねた文章の美しさに認めるべきである」が、誤読です。「対句を重ねた名文」は、平家物語の冒頭文についてのみ言及されていることであり、平家物語全体に一貫した特徴ではありません。

なにより「対句を重ねた名文」は、文脈上「たしかに名文ではあろうが」と、〈譲歩〉の中身に利用されているに過ぎず、〈主張〉とは言えません。

筆者は、「平家物語の本質は、無常思想以外のところにあるのではないか」と、この段落で問題提起をしているのであり、その「無常思想以外のところとは一体何なのか?」ということについては、次の段落から考察されていきます。

論の構成上、「問題提起」である〈傍線部A〉のに「結論」が書かれているはずはありません。「対句を重ねた文章の美しさ」の話題は、〈傍線部A〉よりも前にあるので、これを〈傍線部A〉における「述べたいこと」と判断することはできません。

「無常観・運命観を作品のテーマに据えた唯一の作品」が、〈1〉〈2〉と同じ理由で×です。

問四 2

傍線部そのものは意味がわかりにくいのですが、このようなときは〈対比〉がヒントになることが多いです。

〈傍線部B〉の直後に、「西行」対比される・・・・・「物語作者」の説明が続きますね。

これにたいして・・・・物語の作者は、義仲の過去を、~一つの時間的な経過と展開のなかで叙述しなければ、義仲の「怒り」一つを理解できない。

物語作者はこのような外的なものに媒介され、客観化されなければ、義仲の「怒り」というものをとらえることができないのである。

ここから対比的に考えると、

西行は、義仲の過去を時間的な経過と展開のなかで叙述しなくても・・・・・、義仲の「怒り」が理解できる。

外的な媒介によって客観化されなくても・・・・・・、義仲の「怒り」をとらえることができる。

と読解することができます。

イメージ的にいうと、「物語作者」は「年表的な理解」をするのです。

【出来事→出来事→出来事】時系列で並べていって、「ああ、この出来事の後にこの出来事がくるのはたしかに怒るだろうな」と、あくまで「義仲」を自分とは別の存在として対象化・・・し、研究するかのような視点です。

しかし、「西行」はそうではないのです。

義仲を〈外化〉〈客観化〉〈対象化〉するようなとらえ方とはになるということは、

義仲を〈自分とは別のもの〉として区別することをしない

ということですから、コンパクトに言えば、

もう、俺、いっそ義仲! 義仲そのもの、マジ義仲

ということに近い状態なのですね。

〈記述想定答案(長め)〉
西行は、時間的な経過や展開を媒介として客観的に義仲を理解するではなく・・・・、義仲の生涯を自身の主観に取り込み、義仲の意識と同調しようとしているということ。

〈記述想定答案(短め)〉
西行は、義仲の人生を対象化するではなく・・・・、義仲の生涯を主観的に意識し、自我を重ねているということ。

選択肢の検討にあたっては、

① 正解は、〈外〉〈客観〉〈対象〉といった表現を否定する・・・・構文がつくられているだろう。
② 正解は、〈内〉〈主観〉〈恣意〉といった反意語・・・によって説明されているだろう。

①か②のような答案の方向性が考えられます。

その観点で選択肢を見ると、〈2〉の説明が近いですね。

他の選択肢に決定的な×がつくので、〈2〉が正解です。

不正解の判断材料

「客観化」が〈逆〉で×です。〈対比項〉である「物語作者」のほうに当てはまる語句です。

「過去や背景を捨象する」は、本文に整合していますが、「内面化」の説明としては、〈2〉に比べて踏み込みが浅い選択肢です。つまり、相対的に劣る・・・・・・選択肢です。

また、「出来事の本質を見抜くため」が〈話題なし〉で×です。

「すべて忘却し」が〈言い過ぎ〉で×です。「無視」することと「すっかり忘れてしまうこと」は意味が違います。

「物語的な感動」が〈逆〉で×です。〈対比項〉である「物語作者」のほうに当てはまる語句です。

問五 1

〈傍線部C〉の直前にも、直後にも、接続詞・副詞・指示語といった〈論理のラベル〉がないことに着眼しましょう。

文と文のつながりにおいて、接続詞・副詞・指示語といったラベルが存在しない場合、「2つめの文」は、「1つめの文」に対する「後置説明(言い換え)」または「後置説明(理由)」になるんだったね。

直前には「物語精神を一切捨てている」とあり、直後には「西行が鎌倉殿源頼朝の権威を無視したように」とあります。

つまり、「旭将軍義仲」を、「木曾と申す武者」「木曾人」とだけ言い切っていることは、西行の「物語的なものを無視する」という意識が、具体的に表出している〈呼び方〉なのです。そのように筆者は考えたため、「興味あること」と述べているわけです。

「木曾」って呼び方はただの名前だから、「旭」とか「将軍」っていう「肩書き」を取り外してるっていうことであって、それは物語を捨ててるってことだな!

〈記述想定答案(長め)〉
西行が義仲に対し、権威を帯びた「旭将軍」という呼び名を用いず、ただ単に「木曾」と呼ぶことには、歴史的・物語的背景を退けたいという意識が表象されているから。

〈記述想定答案(短め)〉
西行が義仲を単なる名で呼ぶことには、歴史的・物語的背景を無視しようとする意識が表象されているから。

最も近い選択肢は〈1〉ですね。

「義仲の人生や栄光」という表現は、「歴史」「物語」と同系統の語句であると判断できます。

記述であれば、素直に「歴史や物語」と書いたほうがよいのですが、それでは本文とあまりに対応しすぎていて簡単になってしまうので、このくらいの言い換えをして易化を避けるのですね。選択肢問題ならではの言い換えです。

〈1〉が正解です。

不正解の判断材料

〈2〉〈3〉〈4〉〈5〉には、「物語精神をすてている」ということに準じた説明がないので、この時点ですべて問いに答えていない。したがって、本番では次の問いに進んでいいのであるが、ここでは念のため、細かい不正解の根拠も確認しよう。

「怒りをあざ笑うかのような言い方だから → 興味あることに思う」という因果関係は本文に存在しません。〈因果の捏造〉で×です。

そもそも「怒りをあざ笑う」という表現は比喩的で、説明とは言えないので△です。

「葛藤と事件を際立たせる」が〈逆〉で×でし。

「葛藤と事件」は、文脈上「物語」のほうに区分されるものであり、「木曾人」という単純な呼び方は、むしろ「葛藤と事件」を無視するための呼び方なのです。

「物語精神に通じる」が〈逆〉で×です。

「事態を追究する」という表現が、一見すると意味不明ですが、あえて解釈すれば、「義仲にまつわる事実を学問的に研究する」という意味になるでしょう。「追究」という熟語は「学問を深く研究する」ことです。

さて、「木曾人」という呼び方は、義仲の客観的な事実をできるだけ見ないようにするための呼び方なのですから、「事態を追究」と述べてしまうと、本文と反対のことを言ってしまっていることになります。したがって、〈逆〉で×です。

問六 5

傍線部の問題ではなく、〈本文の内容に合っているものを選べ〉という正誤判定の色が強い問題です。

ここでは、「筆者の鴨長明についての評価」が問われています。

「評価」とは、「物事・性質・能力などの良し悪しや 美醜などを調べて価値を定めること」です。

つまり、筆者が鴨長明に対して、「良いと思っているのか/悪いと思っているのか」「能力が高いと思っているのか/低いと思っているのか」といった〈見定めた価値〉に言及する必要があります。

しかし、筆者が鴨長明に対して総合的に〈良い/悪い〉と述べている箇所はないので、「この部分は良かったけどこの部分はイマイチだった」というような、「分析」に近い「評価」だと考えればよかろう。その意味で、筆者が鴨長明(方丈記)の性質をどのように捉えていたか、という観点で解答を示せればよい。

コンパクトに書けば、次のようになります。

〈記述想定答案〉
鴨長明は、自己反省的・内面的・道徳的な書き手であって、物語精神には欠けていたという評価。

ただし、「物語精神」という表現が比喩的でわかりにくいので、そこをもっと具体的に考える必要があります。

「物語精神」に関しては、〈対比項〉である「物語作者」のほうの説明において述べられているので、対比を意識して読解しましょう。

方丈記の作者の特徴は、たえず自己反省的であり、内面的であり、道徳的である
    ↑
   ところが
    ↓
平家の作者は、たえず無常や生の空しさを説き、悲哀の感情を歌い上げていながら、
  方丈記とは反対に、
  彼の眼はたえず外へ外へと向かっているのである
    一口にいえば
      彼は人間が面白くてたまらない性質
      彼は現世の人間が汚濁と醜悪にみちていれば、なおさらそれを面白いと思う人間
      面白い人間と事件と話に目を向ける人間(自分の内面だけに目を向けない人間)

この対比の情報から、「物語精神」とは、「自己の外側に目を向け、人間・事件・話を客観的に眺め、面白いと思う精神」などとまとめることができます。

〈記述想定答案(長め)〉
鴨長明はたえず自己反省的・内面的・道徳的であり、客観的な人間や事件や話を面白いと思えた 物語作者に比して、物語を書く能力には欠けていたという評価。

〈記述想定答案(短め)〉
鴨長明は自己反省的・内面的・道徳的であり、客観的出来事の面白さには関心を持たず、物語を書く能力が欠けていたという評価。

最も近い選択肢は〈5〉です。

正解は〈5〉です。

不正解の判断材料

「平家物語の作者が必ずしも重視しなかった無常観」が、〈主張と矛盾〉で×です。「たえず無常や生の空しさを説き」とあることからも、無常観自体を軽視していたわけではありません。

本文で述べられていることは、無常観をテーマとしつつも、〈人間の内面とは逆の世界〉すなわち「面白い人間と事件と話」といった〈客観的な事実の世界〉に関心が向いていた、という主旨です。

「抑制」が〈主張と矛盾〉で×です。

本文の最後には、「鴨長明には物語精神が欠けていた」と書かれています。

「抑制」は、「存在しているものがそれ以上肥大化しないように抑える」ことなのですから、「欠けていた」とは意味が異なります。「抑制」と言ってしまうと、「鴨長明にはそもそも物語精神があって、わざとそれを抑えつけていた」という意味になってしまいます。

また、「自己の内面を追究することに成功」とありますが、成功したかどうかは本文では述べられていませんので、〈話題なし〉で×です。

「汚濁を見事に浮き彫り」が、〈話題なし〉で×です。〈組み合わせのミス〉であるともいえます。

「汚濁」という表現は、むしろ「物語作者」が「汚濁をも面白いと思う」という説明のほうに出てきます。その観点で、〈対比項〉の説明で使用されている語句をそのまま転用してしまっている誤答です。

このように、文章構成が〈対比〉で進むとき、反対側の説明を混入してしまう選択肢は、典型的な誤答です。

もちろん、「〈反対側の説明〉ではない・・・・」というように、否定して使用していれば問題ありません。

「そのテーマ化に失敗」が〈言い過ぎ〉で×です。

鴨長明は、客観的な面白さをテーマとしていないだけであり、自己反省的・内面的・道徳的な方向性にテーマを置いて『方丈記』を書いています。つまり、『平家物語』とはテーマの方向性が異なるだけなのです。それゆえ「テーマ化に失敗・・」とはいえません。

問七

「平家物語の他の側面、あるいはその本質」というのは、まさに、最終段落における『方丈記』との対比において説明されています。

平家物語も方丈記も、〈無常観〉についての作品であることには変わりがありません。しかし、異なる点があるのです。そのことこそが、ここで問われている「他の側面」なのです。

さて、それはなんでしょうか?

・・・物語精神だ!!

まさにそうですね!

その際に、「外」あるいは「客観」といったキーワードはぜひ使用したいところです。

文章全体に一貫して述べられているのは、「物語作者」が「外」を非常に重視した、ということです。客観的な事実そのものを重視したのです。

「重視」というよりは、最終段落で述べられているように、「物語作者」は〈客観的な事実〉を面白がった・・・・・のですね。

最終段落では「面白くてたまらない」「面白い」「面白い」と、3度も「面白い」が繰り返されています。

「物語作者」が「面白い」と感じた〈物語〉は、より具体的に説明すれば、

人間の種々層が豊富に展開されたことはないこの内乱期(の物語)

面白い人間と事件と話が毎日のように見たり聞いたりできたこの時代(の物語)

ということになります。

「外」「客観」などのキーワードも織り込みつつ圧縮すれば、

人間の種々層が豊富に展開する客観的な物語

面白い人間と事件と話の外形的な物語

などと説明できます。

本文全体が、〈内面・主観〉〈外皮・客観〉という対比で語られていく構成を考慮すると、「物語作者」が重視したのは「内面・主観ではない・・・・ということにも言及できると、説明の深みが増します。

〈推奨答案1〉
自己の内面よりも、人間の種々層が豊富に展開する客観的な物語に面白さを感じる精神。40

〈推奨答案2〉
内面的心情を主題化せず、面白い人間・事件・話の外形的な物語に興味が向かう精神。39

ざっくり言いますと、平家物語の作者は「悲しい」「さびしい」「嬉しい」「楽しい」などといった心情的話題に興味がないのです。

登場人物の心情であっても、自分の心情であっても、そんなことはどうでもいいのです。そんなことに目を向けている余裕がないほど、豊富な人間たちによる物語がめまぐるしく展開していくのがこの動乱期の出来事なのですね。

――その事実そのものから、目が離せないではないぞ! 切なく思ったり、悲しく思ったりする暇がないほど、事実そのものが面白いぞ! ――

そのような感覚を「物語作者」は持ち合わせていたのですね。

なるほどたしかに、『平家物語』は「無常」と言っておきながら、その「無常」をいっそ楽しんでいるかのように、人間同士の物語がテンポよく展開します。

滅亡や死の話題であってすら、軽くいなしてしまうように、壮大なストーリーが軽やかすぎるほどに進行します。

それこそが『平家物語』の魅力であると、たしかに考えてもよいでしょう。

問八

(a)盛者必衰

(b)錯覚

(c)系譜

(d)遭遇

(e)媒介

以上です!