共通感覚論

問一 c

「無為」とは「何もせず、人の手を用いないこと」です。

「徒食」とは「働くこともせず、無駄に日を送ること」です。

「無為徒食」は、それをあわせた四字熟語なので、「何もしないで、ただ無駄に毎日を過ごすこと」「意味もなく時間を費やすこと」を意味することになります。

例文として最もふさわしいのは〈c〉ですね。

「何もしない」という意味では〈a〉も近いのですが、「土日だけ無為徒食」というのは、「日を送る」という意味が含まれていないので、〈c〉のほうがいいですね。

問二 a

〈b〉の「生活の場=日常」も、正解候補として迷う選択肢ですが、〈a〉の「意味の場=文化」のほうが「よりよい選択肢」です。

人間関係、社会関係の網のなかで、同じことだが、(  2  )のなかで、生きているからであろう。私たちの一人一人、ただ個人として在るのではないばかりか、単に集団の一員として在るのでもなくて、そのような意味をもった関係のなかにある、とこそいわなければならない。

ここでは、「意味をもった関係のなかにある」と述べられています。その点で、〈選択肢a〉の「意味の場」は、本文で述べていることと一致します。

さらに、「ただ個人として在るのではない」「単に集団の一員として在るのでもなくて」と述べられていますね。

ということは、「集団として、そこにいる人々との関係をとおして生きている」ということになります。

〈選択肢a〉の「文化」は、まさに「複数の人間が関係することで成立する営み」のことですから、正解はこの〈選択肢a〉ということになります。

「文化」とは、「カルチャー」という英語の語源が「カルティベイト(耕す)」であったことから推察されるように、「農地を耕す人間」がいれば必ず発生するものです。

さて、「耕す」とはそこに一定期間以上「定住」することを意味しますが、その場合、人間が一人きりでいることはまず考えられません。「定住」するからには、「家族」なり「村」なり、何らかの集団的なコミュニティーが存在する可能性がきわめて高いのです。

たった一人で周辺に誰もいない環境を考えてみるとよいですね。その人物がその土地に一人で「定住」しようとする可能性はほぼないでしょう。

したがって、「カルティベイト」という言葉は、基本的に「集団」を前提とした営為だと言えます。そのことから、「文化」とは、「人間が集団で暮らすにあたって発生する生活様式や作法」ということができるます。

そのため、「文化」は、人間が複数で暮らせば必ず生成されるものであり、その水準に高低はなく、優劣もない。「文化」というのは、異文化間で勝った負けたと競うものではないのです。とにかく、人が集団で暮らせば、必ず文化が生まれるのです。文化がない社会などはありません。

不正解の選択肢

「人間関係」「社会関係の網の目」「個人として在るのではない」「単に集団の一員として在るのでもない」「意味をもった関係」という説明から考えると、〈選択肢b〉の「生活・日常」は、○とは言えません。

たとえば、「生活・日常」は、「人間関係」「社会関係」がなくても成り立ちます。

「感性」「芸術」は、この段落での話題に無関係です。

「規則」「常識」は、この段落での話題に無関係です。

◆  ◆  ◆

ただし、この設問は、課題文を最後まで読んでおくと、ここまで長く考えなくても正解に近づくことができます。

〈⑨段落〉の〈傍線部8〉を見てみましょう。

その共通性と安定性は、概して一つの文化一つの社会のうちのものである。

ここでは文脈上、「文化」「社会」を「同義的」に扱っていますね。

また、最後の〈⑩段落〉の冒頭の一文を読んでみましょう。

常識とは、私たちの間の共通の日常経験の上に立った知であるとともに、一定の社会文化という共通の意味場のなかでの、わかりきったもの、自明になったものを含んだ知である。

ここでも「社会」「文化」は〈似た者同士〉として扱われています。

ということは「問二」において、〈社会関係〉という語に対して、「同じことだが」という相同のラベルでつながっている空欄(2)には、〈文化〉という語句が入るのが適切です。

問三 b

私たちの一人一人は、ただ個人として在るのでないばかりか、単に集団の一員として在るのでもなくて、そのような意味をもった関係のなかにある、とこそ言わなければならない。だからこそ、自分では社会や政治にまったく関心をもたなくとも、私たちはそれらと無関係でいることはありえないことにもなるのである。むろんそれは、物理的、自然的な関係ではなくて、意味的、価値的な関係である。そうした関係のなかでは、すべての態度、なにもしないことでさえ、いわば一つの行為になり、なんらかの意味を帯びてくる。

傍線部中の「それら」は「社会や政治」を指していますね。

さて、問題は「理由は何か」と聞いているので、傍線部を含む一文の最初にある「だからこそ」には最大の注目をします。その直前の情報は、答案に必須になるはずです。

ここに「そのような意味をもった関係」とありますが、その指示語は「問二」であつかった内容を指しています。

人間関係や社会関係の網の中での意味をもった関係ですね。

また、傍線部の直後には、

むろんそれは、物理的、自然的な関係ではなくて、意味的価値的な関係である。

とあり、さらに、

そうした関係のなかでは、すべての態度、なにもしないことでさえ、いわば一つの行為になり、なんらかの意味を帯びてくる。

と述べられていますので、ざっくりまとめれば、次のような答案になります。

〈記述想定答案〉
人は生きている以上、なんらかの人間関係、社会関係に巻き込まれており、すべての態度に意味が発生するため、社会や政治に対しても、意味的、価値的な表現をしていることになるから。

最も近い選択肢は〈b〉ですね。これが正解です。

不正解の判断基準

「創造行為が還元される社会」「創造行為を統御しようとする政治」という説明が本文中に存在しません。
(「社会」や「政治」の性質にまでは言及されていません)

また、「向き合う」が、筆者の主張とミスマッチです。「向き合う」と言ってしまうと、「直面、正対」していることになってしまいますが、筆者の言いたいことは「向き合わなくても、無関係ではいられない」ということです。「そっぽを向いていても、なんらかの関係性が生じてしまう」ということなのですね。「向き合う」というと、積極的に社会や政治と対面しているニュアンスになってしまうので、筆者の主張とは食い違います。

「意味ということにこだわらざるをえない」が〈話題なし〉です。こだわらなくても意味は発生してしまうので、〈主張に矛盾〉しているともいえます。

また、「社会や政治の意味を常に考えている」が〈主張に矛盾〉で×です。筆者の言いたいことは、考えていなくても、勝手に「関係の網の目」に放り込まれてしまうということです。

「社会や政治に関わろうとする」が〈主張に矛盾〉で×です。「積極的に関わろう」としてしまっては、筆者の言いたいこととズレてしまいます。

問四 b

〈a〉と〈b〉で迷うと思いますが、正解は〈b〉です。

傍線部を含む一文には、

そうした関係のなかでは

という限定がありました。

つまり、「私たちが生きている環境という、意味的、価値的な関係のなかでは、なにもしないことでさえ、なんらかの意味を帯びてくる」ということなのですね。

「過疎化の進んだ小さい村では」がミスマッチです。

「過疎化の進んだ小さい村」は、村人が少ないわけですから、本文で言うところの「人間関係、社会関係の網」は、あまり多くないことになります。そのぶん、少数の村人において緊密な関係が築かれることはあるでしょうけれども、「網」という比喩が該当するような複雑雑多な関係とは言い難いことになります。

もちろん、そのような関係性であっても、「なにもしなくてもなんらかの意味を帯びてくる」ということは必然なのですが、筆者の言いたいことを補足するうえで、わざわざ人の少ない地域を用いて例証するのは妥当ではありません。

この問題は、「合っているか合っていないか」ということだけではなく、「筆者の主張を支える論拠として、最も適切な例証を探せ」という問題なのだと考えられるといいですね。

いわば、「もしこれが小論文ならば、次の〈a~d〉のうち、どの例示を使用すれば、得点が最も高いか?」ということを問うているのです。

〈選択肢a〉と同様に、筆者の主張を支える論拠を示そうとして、わざわざ人の少ない会社の例を挙げるのは適切ではありません。

「野次る」というのは、積極的、意図的な「行為」ですから、「何もしない」と矛盾してしまいます。

問五 d 

「適切ではない」ものを選ぶ設問であることに注意!

本文と照合しましょう。

そのことをきわめて鋭く捉え、表しているのは、現代芸術である。たとえば或る画家は、白い便器になにも加工せずにそのまま「泉」と名づけて、展覧会に出品しようとした(マルセル・デュシャン)。また或る作曲家は、ピアニストに対して演奏会場のステージのピアノの前におもむろに腰を掛けるなり四分三十三秒間なにもしないままでいるように指示し、その間きこえてくる自然音に聴衆の耳を傾けさせて、それを「四分三十三秒」と名づけた(ジョン・ケージ)。
一風変わったこの二つの例が現代芸術にとって画期的な〈作品〉であるとされるのも、そこにあるのが単なる奇抜な思いつきではなくて、それをこえたものだからであろう。展覧会場や演奏会場という特定の意味場そのものを生かして、つくることや表現することのなんたるかを、根本から問いなおしたものだからであろう。

〈選択肢〉
 a 日常生活のなかに存在するものにも芸術性があることを見出したから。
 b 手を加えないことも芸術になるということを指し示したから。
 c 一般には芸術とは思われないものが、芸術として提示されているから。
 d 想像もつかなかった発想の新奇さに芸術を求めているから。×

傍線のある一文を全て見ていくと、「この」「そこ」「それ」という指示語や、対比関係を表す「ではなく」があります。

「この」「そこ」は、マルセル・デュシャンとジョン・ケージの例を指しているので、二つの例にあるのは、「奇抜な思いつき」ではなく・・・・て「奇抜な思いつき」をこえた・・・ものだということになります。

「ではなく」で否定されている「奇抜な思いつき」のほうを使用してしまっているのが〈d〉の選択肢なので、不適切なものは〈d〉になります。

ちなみに、マルセル・デュシャンは、この便器を展覧会会場においておいたのですね。

清掃員が「粗大ゴミじゃん」と勘違いして、いっかいゴミ置き場にもっていってしまったそうです。

ジョン・ケージの「四分三十三秒」は、「第一楽章 TACET」「第二楽章 TACET」「第三楽章 TACET」と指示されています。

「TACET」というのは、「声や音を出さない」という意味のラテン語であり、演奏においては「音を出すな」という指示になります。

造形芸術は「人の手で加工するもの」という常識がありますし、音楽は「人が演奏する」という常識がありますが、そういった「当たり前のこと」に対して、「本当にそうですか?」という問題提起をしているといえますね。

問六 b

直前に着眼すると、「単なる奇抜な思いつきではなくて、それをこえた・・・もの」と述べられています。

しかし、これでは「思いつきにとどまらない、もっとすごいもの」と述べているにすぎなく、それがどのようなものなのかについてはスルーされています。

傍線部の「根本から問いなおしたもの」という表現も、「本質的な存在意義を問いなおした」ということはわかっても、「何をどのように問いなおした」のかは明示されていません。

そのため、このあたりでは「解答」を作ることができません。「解決しなければ先を読む」ということが鉄則なので、ここでも先を読みましょう。

すると、

このように私たち人間にとって、なにかをつくり出したり表現したりすることは、なんら特別のことではない。それは、生きるということとほとんど同義語でさえある。

というように、これまでの論旨がコンパクトにまとめられています。ここが根拠になります。つまり、デュシャンやケージの試みは、

つくり出すこと、表現することは、特別なことではない。生きていればそれだけで、何かをつくり出し、表現している。

ということを、言わんとしているのです。

デュシャンとケージの「本心」はわかりませんけれども、筆者は、デュシャンとケージの試みを以上のように解釈しています。

したがって、次のような答案が成立します。

〈記述想定答案〉
つくり出すこと、表現することは特別なことではなく、作品としてかたちに現れなくても、結果的に何かをつくり、表現してしまっていることになるのではないか、という問いなおし。

最も近いのは〈b〉であり、これが正解です。

〈a〉〈c〉〈d〉はすべて、次段落の「このように」以下の論点にまったくふれていないので、すべて〈核心不在〉という観点で×にできます。

不正解の判断基準

「才能のある芸術家」が、〈話題なし〉です。

「展覧会場や演奏会場といった特定の意味をもつ場所にしか成立しない行為であろうか」が、本文の文脈に整合しません。

もしも、デュシャンやケージが「場所」を問題にしたかったのであれば、「展覧会場」ではなく「道端」に作品を展示すべきでしたし、「演奏会場」ではなく「駅前」で演奏会を催すべきした。

デュシャンの「泉」は展覧会場に展示されたのですし、ケージの「四分三十三秒」は演奏会場で発表されたのですから、「場所」について問題意識をもったわけではないことがわかります。

「伝統的な技法」が〈話題なし〉で×です。

問七 A 2・4 / B 3 (1はどちらにも該当しない) 

〈選択肢1〉を、「どちらにも該当しないもの」として扱うのが、難しいところです。

〈選択肢1〉の「一般的な感覚、印象」という表現は、「日常経験」と意味的に近いので、どちらかというと、〈B 常識〉のほうに当てはまるのではないか、と考えてしまいそうになるからです。

しかし、本文をよく見ると、こう述べられています。

日常経験の上に立つ知が〈常識〉として固定的に捉えられたからであろう。
私たち一人一人の間では日常経験は一般に共通性と安定性をもったものしてあるが、そのような共通性と安定性の上に立った知としての常識である。

「一般的な感覚、印象」は、人間一人一人の「経験」に属するものであって、知としての〈常識〉は、そういった個人個人の「経験」の上に立つものなのです。このことは、多くの人の経験の集積として抽象化された知である、といってもよいでしょう。

したがって、〈常識〉は、「感覚、印象」そのものではなく、そういった個人個人の日常経験を、一段階上に抽象化し、知として扱ったものなのです。「常識」は、人々にそのように受けとめられているものであると、筆者は述べています。

「いや、やはり、常識は、一般的な感覚、印象と結びついているのではないか? 上に立つということは、くっついているということではないか?」という意見も出てくるでしょう。

では、対比されている「知識・理論・技法」は、「一般的な感覚、印象」とは無縁なのでしょうか?

と考えてみましょう。

「知識・理論・技法」も、「一般的な感覚、印象」と「無縁」ではありません。〈⑧段落〉には、

厳密にいえば、およそ私たち一人一人の日常経験とまったく切りはなされた、それ自身としてすぐれた知識や理論や技法などというものは、どこにも存在しない。

と述べられています。つまり、「日常経験」と「常識」が「つながりがある!」というのであれば・・・・・・・同じように・・・・・、「知識や理論や技法」も、「日常経験」と無縁ではないのです。

筆者は、

「常識」も「知識・理論・技法」も「日常生活」と「無縁」ではない。しかし、日常生活と切り離された「別個の、独立したもの」と考えられてしまっていますよね。

と述べていることになります。

設問は、「立ち入った知識・理論・技法」と「常識」について、「それぞれの・・・・・特徴」を聞いているのですから、「どちらにも・・・・・当てはまるもの」であっても、逆に「どちらにも・・・・・当てはまらないもの」であっても、正解にすることはできません。

〈選択肢1〉は、「本当」は、「常識」とも、「知識・理論・技法」とも「結びつくもの」です。しかし、「私たち」は、それぞれ「別個の、独立したもの」と考えてしまっています。

つまり、「どちらからも区別されているものであり、しかし、本当はどちらとも無縁ではないものである」ということになります。

したがって、〈選択肢1〉は、〈常識〉と〈知識・理論・技法〉のどちらかに偏るものではないといえます。

問八 d

「日常経験のなかで何気なしに自分が感じ、知覚し、思ったことと結びつくことなしには、生かされることができない」

「その結びつきを欠くときには現実と十分に嚙み合わず、宙に浮いてしまうことになる」

「私たちにとって内面化されず、私たち自身のものにならない」

といった論点(情報)と照らし合わせると、〈選択肢d〉が最もよいことになります。

〈a〉「真理」、〈b〉「論理的思考」、〈c〉「高度な知識」は、どれも直前の話題と無関係です。

問九 a  

「文化」という言葉に対し、「高い生活水準」と換言することはできません。

「文化」は、「生活水準が低い」ところにも必ず存在するものです。

問十 a  

「自明」の解決が解答の中心的論点になります。直前の内容を見ると、

常識とは、~わかりきったもの自明になったものを含んだ知である

とあるので、

① 自明 ≒ わかりきったもの

という同義関係が成り立ちます。

しかし、直後に

ところが、このわかりきったもの、自明になったものは、そのなんたるかが、なかなか気づきにくい

と書いてあります。ということは、

② 自明であるものは、その「本質」については「気づきにくい」

という関係が成り立ちます。

文脈から外れないように読解すると、次のようにまとめられます。

①常識は「わかりきったもの」である。

②しかし、「わかりきっている」と皆が考えているため、かえって注目されない。そのため、その常識がなぜ存在するのか、何の意味があるのか、なぜそういう形式なのかということについて、私たちは気づきにくい。

と言えます。

たとえば、

・なぜ玄関で靴を脱ぐのか?
・なぜ「おはよう」と挨拶するのか?
・どうして「おはよう」という表現になったのか?

というようなことについて、私たちは一般的に深く考えないでしょう。

デュシャンとケージの企ては、「常識」が私たちの間に共有されているからこそ、「えっ?」と私たちを立ちどまらせる効力を持っています。

その企てにおいては、「常識が共有されている」という前提が必要なのです。

デュシャンもケージも、「芸術は人が手を加えるもの」と一般人が信じていることを前提にしています。

それと同時に、デュシャンとケージの作品は、一般人が〈常識〉を無批判に信じていることに対し、「ほら、信じているでしょ」と明るみに出しただけではなく、その常識を議論の対象に表面化させ、「本当にその常識でいいのですか?」と問うているものなのです。

不正解の選択肢

「基盤を支えているのはわかりきった事実」が〈話題なし〉です。

「ごく単純な感覚・印象」が〈話題なし〉です。

「当然至極な原理」が〈話題なし〉です。

問十一 b

〈選択肢b〉は、因果関係の捏造です。

〈人間関係の網から逃れることができない〉 から 〈生きることに意味が発生する〉

という因果関係は本文に存在しません。

また、「表現することは生きると同義」という話題は存在しましたが、「生きることの意味」というほどの壮大なテーマは、本文では語られていません。〈因果のミス〉であるとともに、〈話題のミス〉であるとも言えます。

〈②段落〉の内容に一致しています。

〈選択肢c〉は少し迷いますが、本文80行目にこう書いてあります。

このわかりきったもの、自明になったものは、そのなんたるかが、なかなか気づきにくい。常識のもつ曖昧さ、わかりにくさもそこにある。

〈選択肢c〉には、「常識には合理的でないものも数多く含まれている」と書いてあります。

「合理」というのは、「論理的である・筋道がはっきりしている・むだがなく能率的である」ことなどを意味します。つまり、「合理」というのは、筋道が立っていて、論理的なことなのですから、「明確で、わかりやすく、むだがない」ものであるはずです。

ところが本文では、常識は「曖昧」で「わかりにくい」と説明されています。ということは、「常識は合理的ではない」と解釈することが可能になります。

実際に、私たちの日常経験にともなう常識を考えてみましょう。

・贈り物を渡すとき「つまらないものですが」と言う。
・初詣には、脱着にものすごい時間のかかる着物を着る。
・「言わぬが花」という言葉がよいとされ、相手に察してもらうのを待つ。
・12月29日まで会っていて、どうせ1月4日くらいにまた会う相手に、わざわざ年賀状を出す。
・好物のみを食べるのではなく、すべてのお皿を順番に少しずつ食べることが作法とされる。

適当にいくつか挙げてみましたが、どうでしょうか?

合理的な観点で言えば、面倒でむだだと思えるようなことが、思いつくだけでたくさんあるのではないでしょうか。

つまり、〈常識〉というのは、「面倒だし、無駄だなあ」と思うようなことも多いのです。

 そのことはまさに、〈選択肢c〉に一致します。したがって、〈c〉は本文に一致しています。

〈⑦段落〉の内容に一致しています。

以上です!!