読解とは何か

適度なイメージスキル/スルースキル

唐突だが、「わかる」とは、どういうことだろうか。

問いが抽象的すぎるが、学問における「わかる」の出発点とは、難しいことを難しいままに理解するのではなく、自分がすでにわかっていることに持ち込んで理解することである。それを広い意味で「アナロジー」という。(「アナロジー」という言葉には、込み入った意味があるが、ここではひとまず「似た話に置き換える」という意味として使用している。)

説明が苦手、という人は少なくない。うまくいかないのは、実は説明する当人がよく分かっていないから、だったりする。それに対して「頭がいい人」の多くは、「難しいこと」を「やさしいこと」へと変換して理解している。だからこそ、説明も分かりやすい。この「脳内ちゃっかり変換」をするにはアナロジー(たとえ)が欠かせない。

梅津信幸『伝わる! 説明術』

現代文では、表現が曖昧で、意味が不明瞭な文章をたくさん読んでいかなければならない。その時にその文章を、難しいままに理解しようとしてもほとんどはうまくいかない。読者(すなわち君たち)の「腑に落ちる」ためには、「ああ、あれと似た話か!」という理解の仕方をしていく必要があるのである。

みなさんの身近にも、野山で遊んでばっかりいる人なのに、漫画ばっかり読んでいる人なのに、映画ばっかり見ている人なのに、なぜか現代文だけはできる、という人がいるだろう。もしかすると君自身が、ある程度あてはまる人かもしれない。その理屈は、ある観点では当然なのである。

経験が豊富な人間は、自分の身体で見聞きした「映像記憶」を豊富に持っている。また、漫画や映画などを媒体とした間接経験でも、一種の映像記憶として機能するであろう。直接経験にしろ、間接経験にしろ、豊富な「ビジョン」を持っている人間ほど、アナロジーは早いのである。難解な文章も、「ああ、あの話か!」と、すでに持っている「ビジョン」に結びつけてしまえばいいからだ。ただし、好き勝手に妄想を拡大していくのではなく、書いてあることをイメージしていくのである。

以上のことから、「わかる」読み方とは、ひとまず次のようなものであると言える。

① 自分の経験上の「ビジョン」に結び付けて読めること
② 映画や漫画などで得た「ビジョン」に結び付けて読めること

もちろん、①②の境界は曖昧なので、読書がスムーズな人間は、①②の違いを特に意識せずに、両方の「ビジョン化」を華麗に切り替えながら読み進めていっているのである。また、自身の保有している「記憶」を「そのまま」思い出すというのでもなく、さながら、自分が映画監督となって、新しい映画を「今ここで」作成していくかのように読んでいくのである。

このような「映画読み」がしやすいのは、「小説」であり、次に「随想」であり、最もしにくいのが「評論」である。しかし、「評論」においても、筆者は、「わかってほしい」と思ってそれを書いている。そのため筆者は、読者が映像として理解できるように書こうとしている。基本的にはそれが「具体例」である。筆者は、

今、私は難しいことを述べましたけれど、たとえばみなさん、あれを知っていますよね。あれと同じ話をしているんですよ。

と、読者に自分のこととして読んでもらうために、言い換えれば「ビジョン化」してもらうために、「具体例」を出すのである。

したがって、具体例があるなら、そこを読み飛ばすなどという愚行に及ばず、チャンスと思って映像化していく態度がほしい。また、具体例がないのであっても、「たとえば……たとえば……」と、自分で例を考えながら読んでいけると、読解が深まるのである。

ただし、制限時間の少ない入試において、一文一文に対して精緻に解釈しようとしていくと、到底時間が足りない。したがって、方針としては、「ひとつの段落に対して、ひとつのビジョンを持つように努める」という態度が望ましい。映画だとすれば、「一段落一場面」という感覚だ。

また、文章が難解で、ビジョンを持つことが難しい段落に対しては、「いつまでもその段落に執着せずに先に進む」という態度が望ましい。先を読むことで、遡って前の段落がわかるということは、決して珍しいことではないからだ。

さて、そのような読みでは「深読み」や「誤読」になってしまうのではないか? という反論がくるかもしれない。しかし、「深読み」や「誤読」が一切ない読解など存在しない。ある程度の深読みは必要悪と割り切って読めばいいのである。そこで重要になるのは、「絶対こうだ!」と思うのではなく、「深読みしている可能性がある」と念頭に置きつつ読み進めていくことである。可謬性を意識しつつ読んでいくのだ。

まとめると、文章の読解には、大雑把に分けて、次の3つの階層がある。

① 何を言っているのかまったくわからない
      ↓
② わかったつもり
      ↓
③ 本当にわかった

②はしばしば否定されるが、②は①よりはマシである。この意識が重要である。

「イメージすらわかない」よりも、「多少誤ったイメージを持つ」ほうがマシなのである。深読みや誤読を恐れずに、積極的に解釈しにいく一方で、この解釈は「わかったつもり」かもしれないと思っておけばいいだけのことである。

それは何で何で何か(何≒何≒何)

文章で述べられていることを、「自身に引き寄せてイメージすること」あるいは「自分で例を考えながら読めること」が重要と話してきたが、こういった類推は、文章と読者の間でのみ起こることではなく、文章の内部そのもので起きている。筆者は、〈主張A〉に対して、例示を挙げたり、比喩で喩えたり、様々なアナロジーを示していくことで、主張を読者の「腑に落とそう」とする。

そのため、本文の中で、例示や比喩が多用されているのであれば、読者はそれをイメージしようと努めれば、読解を果たしやすくなる。一方、例示や比喩がほとんどないのであれば、読者自身が何らかのイメージを作り出し、具体的に想起する必要が生じてくる。そのように考えよう。

したがって、本文中に例示や比喩がある場合には、その例示や比喩は、何らかの主張を、読者に切実に訴えかけるために補充されたものであると考えるべきである。つまり、例示や比喩があるということは、「その表現を出してまで言いたいこと」が文章のどこかに書いてあるのである。

主張(論) ≒ 比喩  (同義表現として読む)
主張(論) ≒ 例示  (同義表現として読む)

それが何では「ない」か

「わかる」とは「分ける」ことであるとも言われる。たとえば、「ティラノサウルスは肉食恐竜であるが、トリケラトプスは植物食恐竜である」と説明すれば、二者が対比されていることにより、「ティラノサウルス」への理解も、トリケラトプスへの理解も、同時に深まっているといえる。これは記憶の観点でもそうである。「月曜日は燃えるゴミの日で、火曜日はカンとビンの日だ」と対比的に意識することは、どちらかの知識しかないよりも記憶に定着しやすい。

いや、「理解」や「記憶」のもっと前の段階で、我々は、それを分けるからこそ、それをそれとして認識し、意識し、考察の対象とすることができるのである。たとえば日本では虹は「七色」である。ところが世界的には「三色から五色」程度として見る文化が多い。沖縄でもかつては「二色」だったという。つまり、最初から7つの色が「真実として存在している」わけではなく、7つと思って見るから7つに見えるのである。そうであるから逆に、3つと思って見れば3つに見えるだろう。もちろんこのことは、世界の中で、日本の考察力が細かくて優れている、というわけではない。虹を二色で見るアフリカの部族が、花の種類については日本の何倍もの細かさで意識しているといった事例は、枚挙にいとまがない。興味や関心の及ぶジャンルが違うだけなのである。

話を戻そう。以上のように、考察のスタートは「区別」なのである。そして入試現代文とは、大学に入学するにあたり、学問の入口となるような文章が出題されるのであるから、「ある研究領域の考察の開始」にあたるような文章が頻出する。入試問題が、学問の入口ともいえる「新書」から出題されることが多いのも、偶然ではないのだ。

したがって、入試現代文では、次のような「区別」や「対比」が、当たり前のように文章中に表れる。

 A は x ではなく y である。
 x であると考えられている。しかし、実は y である。
 x と考えるよりも、 y と考えるべきであろう。
 A は a であるが、一方、B は b である。

さて、ここからが重要である。対比には、大きく見て、次の2種類のものがある。

① 一般論をくつがえす。

そもそも「主張」とは筆者独自の見解なのであるから、一般的に「そうだ」と思われていることとは区別されるものである(ことが多い)。そのため、「一般的にはこうだと思われているが、私はこう考える」というように、「前置き」として一般論をおくことで、自説とのコントラストが浮き彫りになり、伝わりやすくなる効果がある。こうしておくことで、「あなたの言っていることは一般論のこれでしょ?」と曲解されることも防ぐことができる。

② 考察の対象(主題)が2つある。

先ほどの「ティラノサウルスは肉食恐竜であるが、トリケラトプスは植物食恐竜である」というような文の場合、「ティラノサウルス」と「トリケラトプス」は、ともに同等の価値を持つ主題である。両者を区別して語ることで、それぞれの説明が同時に深まる。

なお、「主題」という語は、主に文章全体に一つ存在するものとして扱われるが、メッセージの最小単位としての「一文」においても存在するものである。文章全体のテーマを「主題」と呼ぶ場合、「一文」や「一段落」の主題を「小主題」と呼ぶこともある。「主題」とは「考察の対象」のことであり、噛み砕いて言えば「何の話か?」ということである。一文における主題は主語が担う。上述の例でいえば、「ティラノサウルス」も「トリケラトプス」も、文において同等の価値を持つ「主語」であり、それゆえその文の「主題」である。

やや構造が複雑な文章になってくると、

Aはaだが、Bはbである。さらにCはcである。
ここでは、AとCは、~という点で区別されるべきものである。
しかし、AとCは、ともにBと対立するという点で、共通している。

といったように、考察の対象を3つ出してきて、「三項対比」をしてくる文章も多くなってく る。実際にセンター試験は、この「三項対比」の文章構造になる年が多い。この場合、文章序盤では「A」と「C」の「違い」が語られていたのに、文章中盤に「B」が登場することによって、そこからはむしろ「A」と「C」の「共通点」が語られていく、という場合も多い。

本番では……

さて、本番では、後に示すような〈要点構文〉をおさえていく姿勢が重要ではあるが、あまりにも機械的に〈要点構文〉だけ追いかけていく姿勢で読むと、「そこが重要」ということはわかるものの、そこが何を言っているのかわからない、という本末転倒な事態に陥ることが多くなる。なぜそうなってしまうのか? ――それは、形式的・表層的な記号発見に意識が集中してしまうあまり、むしろ文章そのものの「解釈」に集中が向かなくなるからであり、また、「要点構文」ばかりを重視し、「要点構文」以外の箇所を軽視するあまり、形式的には重要とされていなかった箇所に存在した論点を見逃してしまうからである。そのため、些末なテクニックに踊らされず、文章を積極的に解釈していきながら一生懸命普通に読んだほうが、理解が深まることすらある。

以上のことから、重要なのは、まずは誤読を恐れず自力で解釈しようとする姿勢そのものである。そのうえで、余裕があれば「要点構文」にチェックを入れていく読解が、本来行うべき「方法」である。「錬の国語研究会」の山本ヒサオ先生は「本文を読みながら線を引くのではなく、設問を読み、解く時にこそ線を引け!」と述べている(『入試国語力をつける奇跡のメソッド』)。

まずは「解釈」することに最大限の注意を払い、設問を解く際に、必要となる論点を取捨選択するためにチェックをしていくということである。たしかにこれは、一定の方法論として理に適っている。また、次のような意見もある。

問題文にやたら線を引っ張る生徒がときどきいる。概して、彼らの国語の成績は良くない。また、国語のできる生徒が、急に成績が下がったといって相談にくるが、問題用紙が線だらけ――こんな経験は、一度や二度ではない。(中略)生徒が引いた線は、読後に重要だと判断して引かれたものではなく、読む行為と同時に引かれている。その結果、本来は文章理解に向けられるべき集中力が、線を引く作業によって低下するのだろう。線を引く作業は、重要か否かの判断ができなければ行えないはずだ。しかし、子供は線を引けば読解が深まると信じて、当てずっぽうの箇所に線を引いていく。

田代敬貴『国語の「神技」』

「線が多すぎる生徒は読解できていない」というのは、まったくその通りのことである。あまりにも線を引きすぎてしまい、集中力が作業そのものに偏ってしまうのは、避けなければならないことだと考えたい。