ドーナツのような輪も、人がやっと歩けるだけの幅に狭まってしまった

「どういうことか」の問題です。

自然と労働

今回は、傍線部内の比喩表現に対応する説明表現が課題文中に存在しない問題を扱います。

このケースは選択肢問題でも相当難しいものになります。かつてセンター試験の評論で小林秀雄の文章が出題されたときは、2問くらいがこのタイプであり、正答率が過去最低水準になりました。(まったくの余談ですが、さらに次の年のセンター試験では国語の満点が存在しませんでした。20万人程度受けているのに、200点をとった受験生がいなかったのです。)

本題に戻って、課題文を読みます。

 迎え入れてくれる海を目ざして走っていく、それは僕たちがすでに失ってしまった逞しさであるように思えた。僕たちはいつごろから、生きようとする衝動をこれほどまでに失ってしまったのであろうか。まるで生きることが憧れではなくなってしまったようだ。
 現代の僕たちには、生きるという問題が、精神のなかでブラックボックスのように、あるいは空白の円のように広がっているような気がする。ドーナツの輪の上を回るように生活をしているうちに、しだいに真ん中の空白は大きくなってきて、今ではドーナツのような輪も、人がやっと歩けるだけの幅に狭まってしまったような気がする。
 海に向かってアスファルトの道を歩いていったヤドカリの姿を、僕は時々思い出す。彼は生きることへの憧れを、体いっぱいに表現していた。そんなありふれたことに、なぜ僕たちは感動しなければならないのだろうか。

内山節『自然と労働』

〈問〉傍線部「ドーナツのような輪も、人がやっと歩けるだけの幅に狭まってしまった」とあるが、どういうことか、説明せよ。

本文に解答根拠がきっぱりと書かれていない問題も、思うままに解釈して好きに書くのではなく、できるかぎり本文内から推論可能なレベルで書きます。このような問題の場合、「対比」が大きなヒントになることが多くなります。

〈作業1〉傍線部の分析

主語  ドーナツのような輪も
目的語 人がやっと歩けるだけの幅に

述語  狭まってしまった

〈作業2〉比喩の解読

①ドーナツのような輪

典型的なドーナツは、中心に「穴」があります。本文ではその「穴」を、「ブラックボックス」「空白の円」に喩えています。喩えられている対象は、「生きるという問題」です。つまり、ドーナツ穴の比喩は、「中心にあるべき生きるという問題」が、「わからないもの(ブラックボックス)」あるいは「ないもの(空白の円)」と化してしまっていることを示しています。

「ブラックボックス」や「空白の円」という比喩的な表現をそのまま解答に出すわけにはいかないので、「わからないもの」「ないもの」などとしておきましょう。難関大の選択肢問題なら、「把握しえない虚無」などのように、難しい語句を使用して選択肢にしてくるかもしれません。

いずれにせよ、「中心がわからない、中心がない人間の生活」などと表現できれば、「ドーナツのような輪」を、少なくとも傍線部よりは具体的に説明したことになります。

②人がやっと歩けるだけの幅に狭まってしまった

私たちは、日常生活で、ドーナツの輪の部分の上を歩いたりはしません。これは「足場」が狭くなってきたということの比喩です。具体的な説明は本文中にまったくないので、自力で解決するしかない部分になります。つまり、①よりも、「解釈」が強めになります。しかし、そのような場合でも、勝手な妄想を書き込んではなりません。「ドーナツの甘い部分が減ったということは、人生そんなに甘くないってことかな」などと自由に解釈することは、あってはならないことです。試験では、客観的な説得力があるかどうかがカギなので、必ず本文から根拠を拾うように努めましょう。現代文の試験で、本文中に根拠が存在しない、ということはありえません。極限まで薄い根拠かもしれませんが、存在自体はしているはずです。

最大のヒントは直前です。「ドーナツの上を回るように生活をしている」とは、どういう意味なのでしょうか。

その前の段落には、「生きようとする衝動」を「失ってしまった」と述べられていますので、そこと連結して読解すれば、「ドーナツの輪の上を回るように生活している」というのは、「生きようとする衝動に、関心を向けずに生活している」などと説明できます。「生きることへの憧れを失ったまま生活している」などと説明してもよいでしょう。字数が許せば、「生への衝動や憧れを失ってしまった」などと両方書き込むこともできます。

では、その「生きようとする衝動に無関心な生活空間」が、「やっと歩けるだけの幅」「狭まってしまった」というのは、どういう意味なのでしょうか。

本文中にきっぱりと書かれていないので、やはり自力で解決しなければなりません。「幅が狭く」「やっと歩ける」ということは、「立ち位置が不安定で、歩きづらい」と解釈できます。実際に歩いているわけではありませんから、「生きづらい」などとまとめられればよいでしょう。また、歩いていくスペースが狭く、縦横無尽なステップを踏むことはできないのですから、「不自由」と表現することもできます。

いずれにせよ、生の本義が見出されるべき「中心」が、〈よくわからないもの〉〈意味がないもの〉として大きくなり、そのぶん、人間の生活が〈不安定〉〈不自由〉になり、〈生きにくくなった〉という論点が書き込めればよいことになります。これらの説明は、語句としては本文中に存在しませんが、ヤドカリとの対比で考えていくと、解答化することができます。

解答例

現代では、生への衝動や憧れが見失われ、わからないもの、ないものとして扱われており、その中心をもたない人間の生活は、不自由で生きづらくなったということ。

採点基準

〈採点基準〉⑧点
現代では         (ないと減点)
生への衝動や憧れが見失われ   ②
わからないもの、        ①  「ブラックボックス」のままは加点なし
ないもの            ①  「空白の円」のままは加点なし
として扱われており
その中心を持たない人間の生活は ②  「ドーナツの輪」のままは加点なし
不自由で            ①  
生きづらくなった        ①  
ということ。  

補足

「何のために生きるのか」という〈中心的問題〉と、「どうやって生活するのか」という〈周縁的問題〉は、まさに円のように、「中心があるからこそ周縁が成り立つ」という関係にあります。たとえば、受験生が大学への進学を目指している場合、「医者になりたい」「弁護士になりたい」というような〈中心〉が確固として存在するからこそ、その周りに、「医学部へ行こう」「法学部へ行こう」という〈周縁〉が生成されることになります。そして、そうであるからこそ、「英語を勉強しよう」「数学を勉強しよう」という〈手段〉が生成されることになります。

ということは、この〈中心〉が存在しなければ、受験生の受験勉強はどうなるでしょうか? まず受験科目を設定できません。受験校の難易度もわかりません。どのような問題が出ているのがわかりませんから、対策も立てられません。結果、何をしていいかわからない索漠とした状態に置かれるはずです。まさに「不安定」な状態ではないでしょうか。

また、解釈的には「不自由」という表現に違和感が残るかもしれません。なぜなら、先ほどの例で言えば、「医者になる」という〈中心〉が決まったほうが、「すべきこと」が限定されていくので、かえって選択の幅は少なるのではないか、と考えるかもしれないからです。

つまり、「〈中心〉がしっかりと存在しているほうが、〈ドーナツの輪〉は、かえって狭くなるのではないか」「中心がないほうが自由なのではないか」という疑問がわくかもしれません。しかし、これは逆であるといえます。

迂回的になりますが、ミヒャエル・エンデの「自由の牢獄」という話を引きます。インシ・アッラーという男が、神を冒涜したために、「自由の牢獄」という部屋に閉じ込められる話です。正確に言えば、男は、閉じ込められているわけではありません。なぜなら、その部屋には何百もの出口があって、どこから出ていってもいいからです。しかし、インシ・アッラーは出ていくことができません。「ある出口を選べば、花畑かもしれない」「違う出口なら、ライオンがいるかもしれない」「最善の扉はどれかわからない」「逆に、最悪の扉も、どれかわからない」という状況ですから、考えるうちに、どこからも出られなくなってしまうのです。つまり、自由すぎるために、選択できない状態に陥るのです。

受験生の受験勉強に関しても同じです。「弁護士になる」といった、〈中心〉があるからこそ、Aをやろう、Bをやろう、Cをやろう、といった〈行動の幅〉が確保されることになります。反対に、「何になる!」という〈中心〉がまったくないのであれば、何ができるでしょうか? 何もできなくなってしまいます。つまり〈不自由〉です。言い換えれば、「何をすればいいかわからない」という意味で、ドーナツの輪の部分は極限まで狭くなってしまうのです。

この記事の引用文にはないのですが、課題文の別箇所で、筆者はヤドカリに対して「自由」という語句を使用しています。それとの対比で考えると、「不自由」という表現を用いる根拠がいっそう明確になります。