高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある。

〈問〉傍線部「高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある」とあるが、それはどういうことか。

(工場をアトリエやギャラリーに改装した空間の話題をうけて)
 このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされているからだ。「使用規則」をキャンセルされた物質の塊が別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのある更地であり、来るべき自由な行為のために整地されキューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。
 木造家屋を再利用したグループホームは、逆に空間の「使用規則」やそこでの「行動基準」がキャンセルされていない。その意味では「自由」は限定されているようにみえるが、そこで開始されようとしているのは別の「暮らし」である。からだと物や空間とのたがいに浸透しあう関係のなかで、別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている。その手がかりの充満する空間だ。青木はいう。「文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか」、と。そのかぎりで高齢者たちが住みつこうとしているこの空間には「文化」がある

鷲田清一「身ぶりの消失」 センター試験

この前の課題で扱った問題の延長線上に、本問があります。

404 NOT FOUND | 減点されない古文
文法に基づく逐語訳

「工場をアトリエやギャラリーに改装した空間」では、その空間や構造の本来の用途はキャンセルされています。しかし、「木造家屋」を再利用したグループホームでは、先に述べたような「目的のキャンセル」は行われていません。「玄関」は「玄関」として使うでしょうし、「台所」はやはり「台所」として使用するでしょう。わざわざ水道をひいて「物置」を「風呂」にしたり、わざわざ外側に階段を取り付けて、「2階のバルコニー」を「玄関」にしたりするような使い方は、いかにも不都合です。

その意味で、「工場をアトリエやギャラリーとして使う」というものとは異なり、「家屋」を「家屋」として使っている点では変わりがありません。そのため、「使用規則」も「行動基準」も、何ら変更されているわけではありません。しかし、そこでの「暮らし」は、別の「暮らし」へと再編成されていきます

たとえば、ある家族が、中古の家を購入したとします。中古ですから、その前は違う住人が住んでいました。「台所」は〈前の住人〉のときから「台所」でありましたし、「リビング」は「リビング」でありましたし、「屋根裏」は「屋根裏」でありました。〈前の住人〉も、二階でひなたぼっこをしたででしょう。庭の木陰で涼みをとったでしょう。台所で夕飯の洗い物を終えてから寝室に向かったことでしょう。玄関で「行ってきます」と言い、「行ってらっしゃい」と言ったでしょう。「ただいま」と「おかえり」を交換したでしょう。同じ家屋での暮らしの「型」は、ほとんど同じなのです。

しかし、夕飯のおかずの種類、水道の蛇口のひねり方、扇風機が首を振る角度、その他さまざまな微細な営為が変質していきます。その家屋との「関わり方」が編みなおされていくのです。

そのような状態を、鷲田は、青木のいう「文化」に関連させて考察しています。青木は次のように述べています。この表現は、「そのかぎりで」というラベルを伴い、傍線部と密接に関わっているので、最大の論点であるといえます。

文化というのは、すでにそこにあるモノと人の関係が、それをとりあえずは結びつけていた機能以上に成熟し、今度はその関係から新たな機能を探る段階のことではないか。

このことは、「子どもの遊び」を例にとってみるとわかりやすいでしょう。子どもの中には、「目的を持ったモノ」を目的どおりに使用することを好まない子がたくさんいます。そのような子にとっては、「いかにはみだすか」が重要なのです。その「はみだし方」にこそ、子どもの遊びの天才性があると言っても過言ではありません。お箸を太鼓のバチにする、机の下をぬいぐるみたちの家にする、ナベをかぶって取っ手をツノに見立て怪獣になる、といったことなどです。

筆者や青木氏にならえば、そういった「はみだし方」こそが、本当は「文化」なのです。文化というものは、「決まりきったモノ」を「決まりきったとおり」に使うような営為ではありません。麦わら帽子をさかさまにして、摘み取った花を入れるような「はみだし」こそが、文化なのです。麦わら帽子を、購入した直後に「花かご」にする少女はきっといません。帽子として十分に使用し、帽子としての営みが成熟したからこそ、「花かご」のほうにはみだせるのです。平たく言えば、「工夫」できるレベルに「なじんだ」ものが「文化」と言えるのですから、その「工夫」のほうにはみだす時こそ、その基盤としての「文化」が認められた瞬間であると言うことができます。

さて、そういった営為を「文化」とみなすのであれば、「木造家屋を再利用したグループホーム」には、「それまでの暮らしの型」からはみだそうとする(再編成されようとする)「新しい暮らし」が生成されるという点で、「文化がある」ということになります。

以上のことから、次のような答案が成立します。

〈解答例〉
木造家屋を再利用し、入居者たちが暮らしを再編成しようとする空間には、人と物との関係が従来以上に成熟し、新たな機能を探る段階という意味での文化が認められるということ。

〈採点基準〉⑧点
木造家屋を再利用                ②
入居者たちが暮らしを再編成しようとする空間   ②
人と物との関係が従来以上に成熟         ②
新たな機能を探る段階が認められる        ②
(「文化」という語自体はなくてよい)

正解の選択肢も見ておきましょう。

〈正解の選択肢〉
木造家屋を再利用したグループホームという空間では、そこで暮らす者にとって、身に付いたふるまいを残しつつ、他者との出会いに触発されて新たな暮らしを築くことができるということ。

パーフェクトな正解とまでは言えませんが、概ねすべての表現が、本文を根拠にしていることが見込めるので、決定的な「×」をつけるべきポイントがありません。そのため、他の選択肢との相対関係において、この選択肢が正解となります。ただし、ここはけっこう重要なポイントなので、「なぜパーフェクトとは言えないのか」ということについて述べておきます。

この傍線部の論理構成は、「この空間には ⇒ 文化がある」というものです。そして、直前の青木氏の引用によれば、「文化」とは「モノと人との関係が、従来の機能以上に成熟し、新たな機能を探る段階」なのです。つまり、ここで言及すべきことは、「木造家屋」と、「そこで暮らそうとする人」との関係なのです。

したがって、ここでは、「木造建築における暮らしを、新しい入居者たちが再編成しようとする」という情報が、中心的論点となるべきです。ところが、〈正解の選択肢〉では、「他者との出会い」を中心視してしまい、むしろ、「人と人との関係」として「文化」を語ってしまっています。

遡って、傍線部のある段落の前の段落にもう一度目を通してみましょう。ここでの「使用規則や行動基準のキャンセル」の話題は、「人と人」ではなく、「人と場所」の関係を論じていたはずです。その話題を発展的に継承し、「空間」の話題が続き、それを〈傍線部〉が受け止める格好になっているのですから、やはりここでも、「モノ(場所)」と「人」との関係のあり方が、主題となっていると考えなければなりません

しかし、〈正解の選択肢〉では、その論点への踏み込みが非常に甘くなっています。「木造家屋を再利用したグループホーム」は、単なる出会いの場に過ぎないかのような扱いをされ、「人に触発されて、新たな暮らしが築かれる」とまとめられてしまっています。

たしかに、「別のひととの別の暮らしへと空間自体が編みなおされようとしている」と、書いてはあります。しかし、ここでの「別のひととの」という情報は、中心に据えるほどの論点ではありません。

こう考えてみましょう。もしも、しばらく誰もいなかったその場所に、たったひとりのおばあちゃんが新たに住み始めたら、どうなるのでしょうか? 「文化」はないのでしょうか?

――いえ、違います。「文化」はあるはずです。

繰り返しになりますが、文脈から判断すると、ここで「文化」を生成するのは、あくまでも「モノ(家屋)と人」との関係によってです。「それまでそこにあった暮らし」が、「新しく参与する人」をきっかけに、空間ごと再編されていくのです。もちろん「別のひと」という副次的な要素があれば、「ひと」と「ひと」との関係性もあいまって、よりいっそう「文化」の再編は進むことでしょう。そのため、「補充」の論点としては、「別の人との暮らし」という情報は、ある一定の部分点を見込めるはずです。しかし、あくまでも核心的な論点としては、「モノ(空間)」と「人」の関係を説明すべきです。

先ほど、たったひとりのおばあちゃんのケースを考えてみましたが、別の例として、「引っ越し」を考えてみるとよいでしょう。ある家族が、引っ越しをしたとする。仮に引っ越し先が、中古の木造家屋(イエくん)であったとしましょう。その家族と、「イエくん」との物語が、引っ越した日から始まります。当然、「イエくん」と「前の居住者」との間には、本文で述べられているような「文化」があったはずです。さて「ある家族」は、前の居住者と同じように、台所を台所として使用するので、「使用規則」や「行動基準」がキャンセルされているわけではありませんが、おそらくきっと、レンジを置く場所が少し違います。冷蔵庫を置く角度が少し違います。ナベやフライパンをひっかける位置が少し違います。換気扇を回す時間の長さが少し違います。そういうふうに、新しい暮らしが編みなおされていくのです。このことは、本文で述べられている「文化」の話と同型のものです。さて、「ある家族」から見て、この新しい暮らしに、初めて出会う人はいたでしょうか? 「別の人との暮らし」は始まったのでしょうか?

――いません。(少なくともその家の中にはいません)

「他者との出会いに触発」されなくても、「新しい暮らしの編みなおし」は生成されるのです。重要なことは、「家屋」に、「新しい居住者が入る」ということなのです。穿った見方をすれば、本文で述べられている「別の人との別の暮らし」というのは、「イエくん」からみて「別の人」である、と読むことすらできます。

さて、そのように考えてみると、〈傍線部〉を正確に読解するのであれば、ここでの論理の主題(主体者)は、あくまでも「空間」になるはずです。人との家屋との関係性の総体としての「空間」に「文化」が「ある」のです。その点で、〈正解の選択肢〉は、「他者との出会いに触発されて」という部分が、やや言い過ぎな印象があります。この言い方だと、「新たな暮らしを築く」ためには、「他者との出会い」が必要条件のように解されてしまいますが、述べてきたように、中心的論点はむしろ「空間と人との出会い」であり、「人と人の出会い」は副次的なものです。

長々と述べてしまいましたが、この〈問い〉に関しては、他の選択肢が「もっと×」であることにより、消去法で正解を選出することになります。

(センター試験の正解のように書くことが記述力を高めると述べておきながら、こういった問題を取り扱うのも気が引けるのですが、このように、正解がいまいちに感じられる問題は、まったくないわけではないです)

でもほとんどの問題は良問です。