まつりの目ってまるで節穴じゃん

「いえるのはなぜか」の問題です。

茉莉花の日々

加藤幸子氏の小説『茉莉花の日々』からの出題です。 「茉莉花」は「まつりか」と読みますが、 は、主人公である「茉莉花」は、自分のことを「まつり」といいます。

 ベンチに両足をそろえて座っていると、右足のほうがまだわずかに細いことがわかる。わたしはそのふくらはぎを、上から下へそっとさすってみた。思ったよりも硬くて、冷たい皮膚だった。足首のところまでいくと、靴の横にちっぽけな植物が生えているのが目にとまった。毎週欠かさず除草奉仕にくる町内の老人たちの指を逃れた幸運な草! しなしなした茎の先にゴミくずみたいな花が固まってついている。ふいにその弱々しい草めがけて、大粒の水玉がボタッと落ちてきた。草は全身を震わせたが、必死に衝撃をこらえて立ちなおった。わたしはかばんからカメラを出し、レンズを植物にあてがうほど近づけて、ファインダーをのぞいた。
 四角い窓の中に星を散りばめたような花が映った。〈ゴミくずだって? まつりの目ってまるで節穴じゃん〉わたしは続けてシャッターを切りながら、そう思った。
 雨が静かに降りかかる中を、わたしはゆっくり歩いて家路についた。気持ちはまだ暗かったが、前ほどではなかった。わたしは小さい灯をかばんの中にしまっていた。骨折のおかげでもらったカメラが発見した、薄青い星座を。

加藤幸子『茉莉花の日々』

〈問〉傍線部「まつりの目ってまるで節穴じゃん」とあるが、「節穴」といえるのはなぜか。80字程度で説明せよ。

解答における最大のポイントは「節穴」という比喩をどう解除していくかです。

「節穴」の語義

ふし あな 【節穴】
①板などの節が抜けてできた穴。
②(穴があいているだけで)役に立たない目。見ていながら気づかなかったり、本質を理解できなかったりすることをののしっていう語。 「おまえの目は-か」

三省堂『大辞林』

『大辞林』の説明にもあるとおり、「節穴」は主に「目」に対して使用することが多い比喩表現です。「多い」というよりも、「目」以外ではまず使用されません。

「おまえの口は節穴か」とかは聞いたことないな。 

②の説明にあるように、「役に立たない」という表現が、文脈上最も適合しますので、「節穴」の語義としては、「役に立たない」という論点を取り込んでおきましょう。

「まつり」の目はなぜ「役に立たない」のか。

直前にあるように、「まつり」は、小さな花を、肉眼では「ゴミくず」とみなしていました。

「ゴミくず」をカメラのファインダーを通してみると、それは「星を散りばめたような花」でした。

目に入ったものの「本当の姿」は「星を散りばめたような花」であったのにも関わらず、「まつり」が肉眼で見ていたときにはその価値に気が付かず、「ゴミくず」と思っていたのです。

そのことを「節穴」と言っていることになります。

下書き

実際には星を散りばめたような花が、肉眼ではゴミくずに見えていたという点で、「まつり」の目は役に立っていなかったから。

修正点

上記の答案にはまだ問題が残っています。「星を散りばめたような」が比喩であり、実態ではないということです。そのため、できるかぎり「実態」のほうをイメージさせるために、直後にある「小さな」「薄青い」といった情報を拾っておきましょう。

とはいえ、「星を散りばめた」という表現は、実際に「まつり」がそのように見えたという観点では、登場人物そのものが感じた「実態」でもありますから、カットする必要なありません。「星を散りばめたように見えた」などと、表現を工夫することで、答案に残しておきましょう。

解答例

カメラのファインダー越しには星を散りばめたように見える薄青い小さな花が、肉眼ではゴミくずに見えていたという点で、「まつり」の目は役に立っていなかったから。

写真に撮ると、実物を実際に見るよりもきれいに見えることもあるよね。