死者・他者・私

*ここでは文章の流れに沿って設問を見ていきます。

問一(Ⅰ) 正解は「ニ」

「流動性」との対比であり、「ニ」の「固定化」が適当です。他の選択肢はすべて対概念になっていません。

問二 正解は「ニ」

正解がいくつか出てしまう問題ですが、「最も」よいものを考えます。これは予備校によっては批判されている問題で、たしかに良問とは言いがたいのですが、「最も」よい並び方はこれだ、ということに関してぎりぎり説明できる問題です。「論理」というよりは、評論文を読みなれているかどうかという「感覚的な言語意識」を聞いている設問でもあり、その意味では、難関大らしい出題です。

ここでは、接続詞や副詞を伴わない文の連結は、「端的な文→後置説明(補足的言い換え)」の関係が基本ということを押さえておきましょう。

ハ.他者は私の外からやってくるとは限らない。(ズバリ!)
       ↓
イ.私自身が私にとっての最大の他者だ。私が私自身を熟知していると思ったら、とんでもない間違いだ。
(前文「他者は私の外からやってくるとは限らない」の補足となる後置文)
       ↓
ニ.私の心の奥に何がうごめいているのか、そして私が何をしでかすのか、私自身にも分からない。
(前文「私自身を熟知していると思ったら間違い」の補足となる後置文)
       ↓
ロ.明日私が殺人の衝動に駆られないと、誰が断言できようか。私は理性的な判断を下すことができるなどと、うぬぼれない方がいい。 (前文「私が何をしでかすのか、私自身にも分からない」の補足となる具体例)


「ズバリと言って→後ろに付け足す」という流れが、評論文では基本的な流れです。したがって、「A→B」「B→A」が、どちらも論理的には間違いでないときには、「ズバリ→補足」という関係であるほうが、評論文の基本を守っている流れであると判断できます。

問三 正解は「〈人間〉の領域の日常性が回復される」

「〈人間〉を基礎づける」という言葉を「説明」する問題です。

これは抜き出し問題ですが、抜き出しは、3つくらい候補を挙げて、そのうち「最も」よいものを選ぶ、という発想で攻めます。

難関私大の問題は、一般的な解釈と正解がピッタリ一致しないことも多くあります。つまり、「誰が読んでもこう読むだろう」という客観的な読解ではなく、出題者のやや主観的な「解釈」がなされていることがあるのです。ですから、場合によっては、選択肢の中に正解が「ない」ように感じることがしばしばあります。

したがって、「ズバリ正解はこれだ!」という選び方をするよりは、正解候補を見比べて、「最も妥当なものはどれか」という視点を持つことが大切です。また、ふたつの正解候補で迷った時などは、前述したように、その意味段落の要旨(その周辺で最も言いたいこと)に近いものはどちらか、という視点をぜひ持ってください。

さて、字数制限を鑑みると、正解候補は以下の3つです。

(1)人と人の間がルールによってつながれ(17字)
(2)他者を無視して、〈人間〉は成り立たない(19字)
(3)〈人間〉の領域の日常性が回復される(17字)

ここで傍線部付近をきちんと見ると、「他者は〈人間〉を壊すと同時に〈人間〉を基礎づける」とあるように、主語は「他者」です。そこで(2)が候補から外れます。

理由は2点あります。ひとつは、(2)の前半部「他者を無視して」がやや余計である点です。傍線部からは「他者は」という主語が外されているのに、正解のほうに「他者」という言葉が入ってくるのは、正確な対応関係とは言えません。もしも(2)を正解として聞く問題なのならば、傍線部との対応で考えれば、「〈人間〉は成り立たない」を正解にして、15字以内で指定したほうがいいでしょう。

ふたつめに、「他者を無視して、〈人間〉は成り立たない」という説明は、裏返すと、「他者によって〈人間〉は成り立つ」という文意になりますが、傍線部「〈人間〉を基礎づける」という言い方と、「〈人間〉は成り立つ」という言い方は、ほとんど同じ意味になります。これは、「言い換え」というよりはむしろ「繰り返し」と言ったほうがよいレベルであり、「説明」として妥当であるとは見なせません。説明は「同語反復」ではなく、「ある程度の言い換え」が必要なはずです(ちなみに「同語反復」のことを「トートロジー」と言うことがありまして、時々文章に出てきます)。

(1)も外れます。理由は2点あります。

ひとつは(1)がある段落に「他者」の話題が(言い換えも含めて)出てこないことです。

ふたつめに、「~つながれ」という区切れ方が、言い切るには少々中途半端であることです。どちらも×にするには確定的ではありませんが、△の根拠がふたつあるので、積極的に正解にできる箇所ではありません。

正解は(3)です。

「(不定形で厄介な)他者(を〈人間〉に取り込むこと)によって、〈人間〉の領域の日常性が回復される」という文脈は、「他者は〈人間〉の領域の日常性を回復する」と述べることができ、傍線部周辺の主語述語関係とも一致します。赤本は「他者を無視して、〈人間〉は成り立たない」を正解にしていましたが、他の問題集はどれも「〈人間〉の領域の日常性が回復される」なっています。赤本の解答はミスだと考えられます。

問四 正解は「ニ」

直前には、「関係が取り結ばれれば、もはやそれは〈人間〉の領域に取り込まれて、他者ではありえなくなる」とあります。ということは、「他者としての他者」というのは、「関係を取り結ぶことのできない他者」と考えることができます。次の段落ではそれを、「もっとも極限的な他者」と述べており、「死者」を話題にします。

傍線部「他者としての他者」とは、具体的に言えば「死者」のことになります。さて、それまでの文脈で、「他者」を説明していた箇所に注意をします。

すると、

〈②段落〉
「役割に入りきらない他者」
「未知の他者」
「間柄を失った他者」
「どう対処したらよいのかわからない厄介な存在」
「予測不可能で、唐突で、暴力的で、対話不可能」
「逃げようがなく、私の行く手を阻む」
「適度な距離を保ってくれず」
「べったりと私に貼りつき、いな(否)、私の中に入り込んで私を犯す」

(3段落目は並べ替え問題なのでいったん無視)

〈④段落〉
「他者は〈人間〉を逸脱する」

〈⑤段落〉
「不定形で厄介な他者」

などのように、「他者」を説明したものが相当量出てきます。「問四」は、これだけ出てきた「他者というものの説明」を「まとめなさい」という設問意図があると考えられます。つまり、広い意味段落を要約的にまとめる問題として機能しているのです。

では、もっともよい選択肢はどれになるでしょうか。

正解は「ニ」です。分解して検証します。

選択肢「ニ」

「絶えず自己を流動させる」(不定形)
「不断に変化する」(不定形)
「自立した」(間柄を失った・対話不可能)→「関係していない」ということ
「有機体と称せられる」(生命的なものと呼ぶことができる)

以上すべて、本文に書いてあることの「言い換え」を「まとめたもの」としてみなすことができます。

「有機体」というところが少々ひっかかるポイントですが、「有機」というのは基本的に「生物・生物的な・生命的なもの」を指す言葉です。「小さな部分がつながって、その部分部分が関連しあって、大きなひとまとまりの生きたつながりを形成すること」を「有機的」と言います。そのことから、生物・生命でなくても、「まるで生きているようにまとまっているもの」を「有機的」「有機体」と呼びます。

たとえば、とてもパスワークのよいサッカーチームは「有機的なチーム」と言われたり、人間のように動くロボットは「有機体」だと言われたりします。さてここでは「他者としての他者」は「死者」が具体例になっていることもあるので、「有機」という点で本文に即していないように受け取られるかもしれません。しかし、筆者は「死者」を「無機物」としては扱っていません。たとえば〈⑦段落〉には、

私は死者に話しかけ、そして死者の声を聞く。

とあります。

このことは、常識的に考えても、決しておかしいことではありません。私たちは、仏壇に手をあわせたり、お墓に話しかけたり、お盆やお彼岸という行事を大切にしたりしますが、これらはすべて、死者を、まるで生きているように扱っていることのあらわれです。つまり、死者を「有機体」とみなしているのだと言えます。

選択肢に戻ると、「有機体と称せられるような他者」とありますが、これは「生命的なものと呼べるような他者」と言い換えることができます。まさに、私たちの死者に対する態度は、それらを「生命的」なものと見立てているからこそのことではないでしょうか。

〈不正解の選択肢〉

「緊張関係」が×です。

「関係」が取り結ばれないのが他者としての他者であるのだから、「緊張関係」は不適です(ちなみに「緊張関係」とは、主に「張り詰め対立関係」の意味です。

「役割が厳然と残っている」が×です。

「役割に入りきらない他者」に矛盾します。

「きちんと布置」が×です。

「布置」は「配置」の意。「適当な距離を保ってくれず」に矛盾します。

「言葉で表現でき」が×です。

話題にありません。また総合的に見て、「他者の性格は言葉で表現できない」としたほうが文脈に合うでしょう。

「理性の下に置かれる」が×です。

「理性の下に置く」は、少々強引に言い換えれば「論理的に説明できる」ということです。総合的に見て「理性の下に置くことのできない」としたほうが文脈に合うでしょう。

問一(Ⅱ) 正解は「ニ」

「死者も~語りかける」というのは、筆者の中心的な話題であり、空欄の直後でも「死者は語る」と断言しています。全文を通じて「死者からの語りかけ」を強く主張しているのですから、強調の「紛れもなく」が適当です。ちなみにこれは、声が聞こえるとか、おばけと話せるとかそういうことではありません。たとえば私たちが先祖を祀ったり、菅原道真が神として扱われたりするのは、私たちが、「断絶された他者」とのコミュニケーションをどうにかしてとろうとしていることの文化的な現れです。

余談になりますが、そういう慣習をもたない文化はありません。人間が人間である所以は、死者とどうコミュニケーションをとるか、ということを文化の中心に置いていることにあります。人間の営む文化がすべて、死者とのつながりを決して捨てないことを鑑みて、筆者は「死者は語る」と述べているのだと解釈できます。

不正解の選択肢

「相変わらず」が×です。

「過去と今」という時間の流れを前提とする言葉ですが、この周辺では、時間の流れは話題にされていません。

「どういうわけか」が×です。

本分全体を通じてのテーマは、死者とのかかわりの「あり方」についてであり、「死者は語る」ということは論の前提条件(疑われることのない土台)です。それにもかかわらず、「どういうわけか」という言葉を使ってしまうと、「死者が語るのはなぜか?」という文意がここで作られてしまいます。本文での問いの立て方は、「死者は語るんだけど(死者と生者はつながっているんだけど)、では、その死者と生者のつながりというのはどういうものなんだろうか?」というものです。「死者が語るのはなぜなんだろうか?」ということは、一段階違う水準の問いになってしまうのです。

「当然だが」が×です。

「当然」という言葉は、言い換えれば「常識」ということです(古文でいう「べし」ですね)。つまり、「みんなそう考えるに違いないこと」に関して「当然」という言葉は使用します。「死者も語りかける」という表現だけを取れば、「そんなわけないだろ」と考える人もきっとたくさんいるでしょう。筆者自身も、直後で「矛盾している」「ありえないことが起きている」と述べています。ということは、「死者も語りかける」という表現が、みんなに自明のこととして受け取られる可能性はむしろ低いので、「当然」という言葉づかいはミスマッチになります。

問五 正解は「イ」

〈傍線部C〉の直前に「接続詞・副詞」がないことに注意してください。基本的に考えれば、「死者を殺すのは簡単」という文は、前文の「死者を蹂躙し、勝手に利用しようと、死者には抗議する言葉がない」ということの「補足的言い換え」になっていると考えられます。けれどもそれだけで正解が出せる問題ではなく、やはり〈傍線部C〉がある〈⑩段落〉と、次の〈⑪段落〉あたりで、「結局何が言いたいのか」ということ(段落の要旨)を間接的に問う問題です。

〈⑩⑪段落〉で、結局述べられていることは何なのか、ということに目を向ければ、正解にかなり近づくことができます。「しかし」の後ろ、「だが」の後ろなどに特に注目して、周辺を全体的に追ってみましょう。

〈人間〉の言葉の範囲では、死者は黙して語れない。
死者をどれほど蹂躙し、勝手に利用しようと、死者にはそれに抗議する言葉がない。
    ↓(接続詞・副詞のないつながり=言い換え文)
死者を殺すのは、生者を殺すよりもよほど簡単だ。
死者を利用しようとは思わなくても、慰霊とか鎮魂というとき、結局それは生者の一方的な営為に過ぎない
慰霊・鎮魂も、~生者が死者の魂を鎮め、それによって死者の跳梁を封じ込めること

これらの段落をまとめると、私たちは、慰霊や鎮魂を儀礼として整備することで、「一方的な営為」を行なっているにすぎず、死者が抗議できないのをいいことに、死者の跳梁(自由に跳ね回ること。例:跳梁跋扈〈ちょうりょうばっこ〉)を封じ込めている、と述べられています。それを最も端的に表現しているのが「死者を殺す」という表現なのです。

たとえば、私たちは、死者がどうしてほしいのか知ることができません。それをいいことに、葬儀などの儀礼があまりにも定型化してくると、「そういうものだ」として、あまり考えずに儀礼をとりおこなってしまいます。しかし本来であれば、「死者はどうしてほしいだろう」と、できるだけ想像力をはたらかせて、死者と会話をしているつもりになって、仏壇への供え物を決めたり、花を飾ったりするのが望ましいのでしょう。そのような「死者がどうしてほしいのかを想像すること」比喩的に言えば「死者と話すこと」をしなくなると、私たちだけの都合で、慰霊や鎮魂の「仕方」を決めてしまうようになります。筆者はそういう、「死者はこうしてほしいはずだ」という勝手な取り決めをもって、生者の都合に死者を当て込んでしまうことを、「死者を殺す」と述べているのだと解釈できます。

本文では、生者から死者への態度は、「蹂躙」「勝手」「一方的」「封じ込める」という言葉で表現されており、最も近い選択肢は「イ」になります。

不正解の選択肢

「死者のことばに耳をふさいで」が×です。

「〈人間〉の言葉の範囲では、死者は黙して語れない」「抗議する言葉がない」に矛盾します。聞こえているのに聞かないのではなく、死者の語りかけは私たちに届かない、ということです。「生々しい」も話題にありません。

「非現実と一蹴」が×です。

周辺の話題にありません(「イ」のほうがよりよい、という観点で落とします)。

直前の段落で、「死者も語りかける」と述べられているので、筆者の考えでは「死者は語りかける」ものです。ただしその「語りかけ」は、「妄想や思い込みとしか呼びようのない事態の中で、死者は語る」とあるように、「物理的・論理的」な「言葉」ではありません。

そのことを考えてみましょう。たとえば、マイケル・ジャクソンが夢枕に立ったとして、「やあ、自分は今天国で元気でいるよ!」と言ってきたとします。しかしそれは、次の日にみんなに話しても、「そんなのはおまえの妄想だ!」と退けられてしまう可能性のほうが圧倒的に高い出来事です。その意味でそれは「現実的な言葉」ではありません。

そのことから考えると、選択肢「ハ」の、「死者の語りかけを、非現実と一蹴してしまうこと」は、「死者がせっかく話しかけてきてくれているのを無視してしまうこと」と解釈できるので、「死者を殺す」という比喩に該当していると判断しうるものです。ですから、「ハ」は「イ」がなければ正解と言ってもいいくらいのものです。

ただ、「死者を殺す」という文意と、「死者を無視する」という文意は、すなわちイコールではありません。「殺す」という表現は、積極的に危害を加えるものとしての比喩ですので、「無視する」という行為をたとえたものとしては、少々ズレがあります。

その意味で、「殺す」という能動的・積極的な加害行為を意味するものとしては、選択肢「イ」の「あるべき形を作り、それに強引にあてはめる」という意味内容のほうが、比喩との対応関係がストレートだと言えるでしょう。

前段落との文脈をおさえると、こうなります。


 死者は語りかけるのであるが、それは妄想や思い込みとしか呼びようのないものである。
            ↓
  <人間>の言葉の範囲では、死者は黙して語れない。
  死者を蹂躙しても、勝手に利用しても、死者には抗議する言葉がない。
            ↓
  (だから)死者を殺すのは、簡単だ。
            ↑
          *注意!!

死者を蹂躙したり、利用したりすることが簡単なのは、死者に抗議する言葉がないからです。どうして、抗議する言葉がないのか? それは、私たちが「死者が語ることなんてない」と思っているように、それを非現実と一蹴してしまっているからでしょう。

実はそれが選択肢「ハ」の内容になっているのです。つまり選択肢「ハ」は、「死者を殺す」という傍線部そのものの説明なのではなく、「死者を殺すことは生者を殺すことより簡単だ」ということの理由にあたる表現に、どちらかと言えばなってしまっているのです。したがって、「よりよいもの」を選ぼうとすると、ふさわしいのは「イ」になります。超難問です。

「ニ」 無機物 → やや言いすぎです。
    合理性に即して理解 → 「合理」は「理屈にあう」という意味ですが、「死者を【生命的でないもの】とみなして、理屈で理解する」という文脈は周辺にありません。
問六 正解は「追憶」
意味的に候補として挙がるのは、「追憶」「妄想」「思い込み」などがありますが、「思い込み」は字数が違うのでアウトです。「追憶」か「妄想」か、という選択になりますが、3つの理由で「追憶」を正解にします。
 ひとつは、「追憶」のほうが、対応関係が強い点です。空欄の前後は「死者は生者の【 乙 】の中にしか居場所を見出せない」という文になっていて、本文7段落目には、「死者は所詮、生者の追憶にしか存在しないのではないか」という文があります。「ではないか」という文末表現は、読者に投げかけるかたちにはなっているものの、結局は筆者の主張そのものなので、このふたつの文は、ほとんど同じ構造を取っていると考えられます。
 ふたつめの理由として、「妄想」が外せるのは、9段落目に「妄想や思い込み」という並列的な表現が2回出てくる点です。空欄の前々段落で「妄想や思い込み」と並列的に表現していることから考えると、空欄【乙】に「妄想」が入るのであれば、「思い込み」のほうを取ってしまうのはあまり美しくありません。
 みっつめの理由として(これは論理的な根拠ではありませんが、文学部の入試であるという点においては、意外と重要な理由です)、空欄補充問題というのは、当たり前ですが原文ではそこに「語句」があったわけです。出題者は、その原文を見て、「あ、ここ抜こう!」と決めるのですから、文学を生業としている人にとって、「出題したい言葉」のはずなのです。そういう意味では、本文の要旨にからむ「キーワード」はよく抜かれる傾向にあります。みんなだったら、「妄想」と「追憶」と、どちらを出題したいでしょうか? 「妄想」を選ばせる問題と、「追憶」を選ばせる問題とで比べると、やはり「追憶」のほうが詩的でセンスがよい問題ではないでしょうか。
これも要旨にやや絡んでくる出題意図があります。たとえば、この文章にタイトルをつけるとして、どちらかを選ぶとしたら、次のどちらがふさわしいでしょうか。

(1)死者は生者の妄想の中に存在する。
(2)死者は生者の追憶の中に存在する。

もう少し言い換えると、この文章は全体として、いったい何について語っているのでしょうか。「死者に対する追憶の仕方」についてでしょうか、「死者に対する妄想の仕方」についてでしょうか。

さらに言い換えると、本文全体のテーマを、漢字二文字で表現するとしたら(たとえばこれが輸入映画だとして漢字二文字の邦題をつけるとしたら)、「妄想」と「追憶」のどちらがいいでしょうか。

そこまで考えると、本文の全体的なテーマを踏まえているのは「追憶」のほうがよいでしょう。

問七 正解は「ニ」

「構造」というのは「組み合わせ」「仕組み」のことであり、「構造化」というのは「組み立てる」という意味になります。「AはBを構造化している」「BはAに構造化されている」などという文がよく出てきますが、それは表面的には「AはBを組み立てている」「BはAに組み立てられている」という意味ですが、もう少し深い意味としては、「BはAによって成り立っている」「AがなければBは成り立たない」「Bの土台はAがつくった」「Bの基盤はAなのだ」という文意になります。そこから考えると、

死者は生者たちの生存と生活を歴史的に構造化する。

という文脈は、

死者は生者たちの生存と生活を歴史的に組み立てている。

という意味になります。言い換えると、「歴史のつながりの中で見ると、(先に生きた者である)死者が生者たちの生存と生活を組み立てた」ということです。

たとえば、私たちが生きている土地も、言語も、慣習も、すべてはかつてそこにいた人たちが引き渡してくれたものです。徳川幕府があって、太田道灌がいて、そしてそれにまつわる数えきれない人々がいたらこそ、川越という街は「今のような街」なのです。多くの人が高校に行くとか、そのうちの半分は大学に行くとか、そういったシステムも、先人たちがいたからこそ「今にある」わけです。もちろんそのまま残っているわけではないですが、「今」のあらゆるものたちは、必ず「かつて」と因果関係を持ちます。そう考えると「私たちの生き方」というものは、大部分が「かつて」によって支えられています。そこから自由になれる人はいません。たとえば日本語を話している時点で、「かつての日本人」によって、「日本語で話し、考える私」が構造化されていると言えるのですから。

そう考えると、選択肢「ニ」が最も近いです。前半の「個々の人間を歴史の中に位置づけることを通して」はズバリです。後半の「普遍的な人間の運命を明らかにする」という部分の「普遍的」「運命」などが少々引っかかる表現なのですが、以下のように解釈します。

人間はすべて、歴史から逃れることはできません。日本に生まれた以上、日本語や、日本国憲法などから自由ではありません。こういう「先に生きた者たちが与えてくれた身の回りのもの」によって生が構造化されているということ、例外なくすべての人間にあてはまるので、「普遍的」ということができます。「運命」は、「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力」「幸、不幸のめぐりあわせ」などの意味ですが、私たちは生まれた瞬間から「歴史とのつながり」の中に放り込まれるわけで、幸や不幸のめぐりあわせも、大部分がその「歴史とのつながり」によって明らかにされます。たとえば「黒人が虐げられた運命」や「黒人から大統領が出た運命」など(幸不幸のめぐりあわせ)は、それ以前からの「かつて生きた人」とつなげて考えることで大部分は明らかにされます。もちろん、すべてそれで説明がつくわけではないので、「ニ」は少々言いすぎな感がありますが、他の選択肢と比較すれば、「最も」よいものになります。他の選択肢が不適である理由は以下のとおり。

不正解の選択肢

「世界はすべて」が「言いすぎ」です。

本文では、「この世の人間の生活に必要な一切のもの」と述べており、「世界はすべて」とまでしてしまうのは大げさです。具体例にも、「宗教」「倫理」「言葉」など、人間が作り出したものに関して列挙しているのであり、たとえば「荒川」とか「秩父山脈」とか、人間の創造物でないものに関してまでは言及していません。

「すべて無名の先人」も「言いすぎ」です。

有名な先人から受け継いだものもたくさんあるでしょう。

「合理的に説明」が×です。

「合理」は「理屈にあう」という意味ですが、「生者のあり方が理屈にあうかたちで説明できる、というのは無茶があります。これは問五の「ニ」を消したことと同じ理由です。

「微妙なドラマ」が×です。

これは話題にありません。また、「生者と死者の違いを明らかにする」という文意もありません。

問一(Ⅲ) 正解は「イ」

これはふた通りの考え方があります。構文として解くか、要約的に考えて解くか、です。もちろんどちらの考え方でも検証できた方が、正解の確信は深まるでしょう。

まず「構文」の考え方です。

空欄の直前に注目すると、「~つつ、」という表現があります。これは「両面価値」「二律背反」を導きやすい言葉で、「~ながら、」もほぼ同じ使い方をします。「両面価値(アンビヴァレンス)」「二律背反(アンチノミー)」とは、「一見、相反する命題・感情が、同時に存在すること」です。たとえばこのようなものです。

愛しつつ、憎む。 / 愛しながら、憎む。
怖がりつつ、見たがる。 / 怖がりながら、見たがる。
統合化しつつ、差異化する。 / 統合化しながら、差異化する。

このように、「~つつ、~」「~ながら、~」といった言葉は、それだけで、「性質の違うもの同士が同時に存在していること」を表すことができます。ここで気をつけたいのは、両面価値・二律背反というものは、性質の違うものがたまたまそこに共存しているのではなく、お互いの存在があるからこそ、お互いがそこに存在していられる、というちょっと屈折したやっかいなつながりをもっているということです。

たとえば3つめの例文の「統合化しつつ差異化する」というのは、たまたま「統合化」と「差異化」が一緒に進んでいるのではなくて、「統合化」が進むからこそ「差異化」が進むという構造になっています。ヨーロッパを例にとりますと、ヨーロッパがそれぞれ小国として分立していて、違う通貨を使っている間は、「ベルギー」と「オランダ」と「イタリア」は、一般市民が物価の差異を比べることなどほとんどなかったでしょう。通貨が違うと、何が高くて何が安いのかよくわかりませんから。ところがEUができて、ユーロを使い始めると、差異が浮き彫りになってきます。「おい、フランスでは5ユーロだったニンジンが、フィンランドでは3ユーロなんだぜ」などのように。つまり「統合化が進んだことによって、差異化が進んだ」状態だと言えるのです。

以上のように、「~つつ、」「~ながら、」などで導かれやすい「両面価値」「二律背反」の状態というのは、一方の存在があるからこそ、一見逆に見えるもう一方が存在してくるということになります。「死者が沈黙・拒絶しているからこそ、内奥から生者を揺るがせる」という文脈を作るものとしては「イ」の「それゆえに」が最もよいです。

「沈黙・拒絶しているからこそ、内奥から揺るがせる」というのは、たとえば生者同士のかかわりを例にしても、納得できることです。

「よしお」がいくらはなしかけても、「よしぞう」が口をきいてくれないとします。「よしぞう」はなんだか怒っているようです。ここでもし「よしぞう」が、「だってお前昨日、俺のコロッケパン食っただろ!」などと言ってくれれば、「よしお」は、「なんだそのことか!」と納得することができます。この場合、外部から「揺るぎ」がやってきていると言うことができます。しかし、もし「よしぞう」がずっと黙ったままだったらどうでしょうか。きっと「よしお」は、「なんでこいつ怒ってるんだろう? ひょっとして昨日のコロッケパンのことかな? それとも一昨日のヤキソバパンのことかな? それとも三日前のアンパンマンパンのことかな? それとも……」という具合に、自分の内側のほうから「揺るぎ」がやってきます。これは、「よしぞう」が沈黙しているからこそ、「よしお」内奥から揺らいでいる一例です。

このことはもちろん死者にもあてはまります。たとえば自分の先祖であれば、先祖は自分にどう生きてほしいと思っているのか、などということをある程度イメージすることができますし、自分が生きている場所だって、先祖からのものである場合が多いものです。その意味で、「生者の生存や生活」が「死者によって構造化されている」と言うことができます。しかし、アウシュビッツの死者たちは、私たちと歴史的にどうつながっているのでしょうか。彼らは私たちにどう生きてほしいのでしょうか。わかりません。徹底的にわからないからこそ、「彼らが言いたいことはなんだろう」という「揺らぎ」が、私たちの「内部」からやってくるのだと、筆者は述べています。

次に要約的な考え方です。筆者はずっと、生者と死者との関係性は断絶されている、それでも生者は死者とかかわっている、そういう矛盾、ありえないことが実際に起きている、と述べてきました。私たちが太宰府天満宮に参り、菅原道真公に「頭がよくなりますように」とお願い事をするのは、「矛盾・ありえないこと」の一例です。どうしてもコミュニケーションがとれないはずの他者と、私たちはつながっているのです。

文章中に引用される渡辺氏は、そういうことをふまえて、「生者の世界は死者によって構造化されている」「(私たちが生きている世界は)生者から見れば収奪したもので、死者から見れば贈与したものだ」と述べています。このことは問七で見てきました。

しかし最終段落(とそのひとつ前の段落)で筆者は、渡辺氏の意見と少々対立し、「世界の構造化は死者から与えられたものなのか、それとも生者の側から死者を取り込んで、〈人間〉の領域を拡大しただけなのか、どちらかというと後者ではないか」という疑問を呈しています。

具体例にするのはアウシュビッツの死者です。たしかに戦争や虐殺などによって、無意味であるかのように殺されていった死者たちを例にとると、彼らと、私たちの「歴史的なつながり」は希薄であるかのような印象があります。彼らが私たちに「意味」を与えてくれているのか、それとも私たちが「勝手に・一方的に」彼らとのつながりを「解釈」し、強引につなげているのか、どちらなのかわからなくなります。

仮に死者たちの声が聞こえるとしたら、「いや、俺たちは、お前たちなんかとは、関係ないよ」と言っているかもしれない、ということです。にもかかわらず、私たちは、「関係してくれているに決まってるよ!」と、決め付けてしまっていないか? ということが、筆者の「ひっかかり」です。

渡辺氏は、「死者たちは関係してくれている」と述べていて、それはたしかに説得的な話ではあるのですが、筆者はこう反論します。

「死者たちが関係してくれていると、決めてしまうこと自体、死者の声を聞こうとしていないんじゃないか。たとえばアウシュビッツの死者たちは、本当に私たちと関係したがっているのか? そういう、徹底的に沈黙している死者は、沈黙しているからこそ、外からやってくるのではなく、内側から、生者を揺るがせる。私たちと、関係したがっていないかもしれない死者とどう向き合うのか、ということが、現代の問題なのだ」ということです。

最後のところは設問になっていないので、読解上は無視でいいのですが、これは興味深い課題です。身近なところに「靖国問題」があります。「靖国問題」は、いわゆる「戦犯」をどう祀るのか、ということが議論になりますが、その議論においては、死者たち自身が「どうしてほしいのだろうか」という想像がされません。物理的にはそんなことは聞けないのですが、あまりにもそういう営みが排除されすぎているのが今の「靖国議論」の傾向です。「そもそも靖国は政府のために戦った死者を祀ったのだから、彼らも祀るべきだ」とか「古代の神社は、祟りを恐れて祀ったのだから、戦犯だって祟らないように祀るべきだ」とか、「こちら側の理屈・都合」だけで、「靖国問題」は論じられています。「死者自身がどうしてほしがっているか」ということは、あまりにも置き去りにされています。

問八

選択肢を検討しましょう。

イ ○

本文全体のテーマに一致します。

ロ ○

筆者自身の論が「ロ」に述べられているとおりの考えをしています。

ハ ×

「忘れようとしても忘れられない」「人間関係が希薄な現代人」がともに話題にありません。

ニ ○

「画期的な成果」という文脈があるので、「従来の見方を大胆に変え」の言い換えとみなせます。

ホ ×

「現代が直面するさまざまな問題も一気に消失」が話題にありません。

問九

1 営為

2 抗議

3 収奪