(四)「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」

(四)「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。

 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるかも知れぬ。それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。
 とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。ところが二流の役者ほど「悲しい」情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる。「悲しい」という感情をしみじみ満足するまで味わいたいならば、たとえば「あれは三年前……」という状態に身を置けばよい。
 こういう観察を重ねて見えてくることは、感情のたかまりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。ふつう感情と呼ばれていることは、これと比べればかなり低まった次元の意識状態だということになる。

傍線部の前の流れを意識すると、

「演技の瞬間」には、「悲しみ」を意識する余裕などないはずであり、後になって、「悲しみ」は意識されてくる。

と述べられています。

つまり、「その演技の瞬間」には、「悲しみ」という感情は「ない」はずだ、と筆者は主張しているのです。

ところが、「二流の役者」ほど、「悲しい」情緒を十分に味わいたがる、と述べらています。

以上の読解により、「感情を捨てる」ということに関しては、

 あとに認知されるはずの感情(≒情緒)を、「その演技の時点」で味わっていけない。

ということが書ければよいことになります。

さて、「Aではない」という書き方をしてしまうと、「Aではないのであれば、では何なのか」ということがわかりません。

そのため、「~してはいけない」のであれば「ではどうすればいいのか」というところまで言及したいのです。

「感情を先取りして味わってはいけない」というのであれば、どうすればいいのでしょうか。

傍線部の後ろに着眼すると、

激烈に行動している身体を満たし溢れている何か(を名づけたもの本源的な感情)

とあります。つまり、「名づける前の状態のままでいる」ということがまず大切なことなのです。

筆者はそれを「からだの動きそのものに他ならない」と述べています。

つまり、

概念化された(名づけられた)感情とか情緒のことを考えずに、
身体を充溢する何かをそのままからだを使って表現するんだ!!

と述べていることになります。

ブルース・リーの『燃えよ! ドラゴン』の名ゼリフを借りるなら、

Don’t think. Feel ! (考えるな、感じろ!)

という考え方に近いですね。

推奨答案

役者は、激烈に行動する身体を充溢するものを、からだの動きのままに表現すべきであり、事後的に意識されるはずの情緒を先取りして意識すべきではないということ。

採点基準

役者は、              (なくてもOK)
激烈に行動する身体を充溢するものを    ①点
からだの動きのままに表現すべきであり   ①点
事後的に意識されるはずの情緒(感情)を  ①点
先取りして意識すべきではないということ。 ②点 「演技の時点で」なども可 
                        単純に「意識すべきではない」は①点