(三)「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。
「誇張表現(大げさ表現)」は「実態」に直そう。
「誇張表現(大げさ表現)」は、「実態」とはかけ離れています。
たとえば、近所の八百屋さんに行くと、「300円」のおつりを返すのに、

はいよ! おつり300万円!
なんて言ってくるご主人がいることがありますね。
もちろん、「300万円」のはずはありません。その実態は「300円」です。
下町の駄菓子屋に行けば、「50円」のおつりをわたすのに、

はい、おつり50両
なんて言ってくるおばあちゃんがいることがありますね。
もちろん「50両」のはずはありません。その実態は「50円」です。
このように、私たちは、日々何らかの「誇張表現」をしながら生活しています。
たとえば、

朝から何にも食べてなくて、おなかと背中の皮がくっつきそう!
などというセリフも「誇張表現」です。おなかと背中の皮は実際にはくっつかないからです。この場合、「胃腸に何も入っていないと実感するほど空腹であるということ」などと説明することになります。
こういった「誇張表現(大げさ表現)」がある場合、その実態のほうを答案に書き込みます。
傍線部を大きく分けると、2つのポイントになります。
〈論点a〉自分ひとりでいい気持ちになりやがって
〈論点b〉芝居にもなんにもなりやしねえ
〈論点a〉は、傍線部のある「次の段落」の最後にその経緯が語られています。
「自分ひとりでいい気持ちになりやがって」となる所以である。
と書いてあるのですから、その直前はキーポイントです。
その部分の情報を拾うと、次のようにいえます。
「いい気持ちになる」というのは、「主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っている」ということです。
「なりやがって」と批判的に語られている理由は、「そのすりかえ」が「舞台で向かい合っている共演者には瞬間的に響く」からです。
したがって、〈論点a〉を重視して答案を作ると、次のようになります。ここだけでもしっかり書ければ、合格点ラインの答案になります。
役者が、主人公の行動の展開とは無関係に、一人で回想や連想によるわが身あわれさに浸っていると、そのすりかえが舞台上の共演者にはすぐにわかり、芝居にならないということ。
答案をハイレベルにしていくために、〈論点b〉を説明していきましょう。
芝居にもなんにもなりやしねえ
とは言っていますが、そこで実際の芝居が終了してしまい、幕を降ろしてしまうわけではありません。
「芝居そのもの」は成立しています。
ということは、「芝居にならない」というのは、一種の誇張表現です。
その観点で傍線部周辺を探ると、傍線部の直前には、「共演した連中はシラーっとして」という表現があります。
「共演者たちがシラーっとしている」ということは、決して質の高いよい舞台であるとは言えません。
そのことから、「芝居にならない」というのは、
「よい芝居にならない」とか「芝居の質が下がる」などと表現したほうが、「実態」を表現したことになります。
「芝居」という語そのものは、十分客観的な語なので、そのまま使用してもかまいませんが、傍線部中の語なので、念のため「演技」などに言い換えておきましょう。
ハイレベル答案
役者が、演じる人物の境遇とは無関係に、一人で回想や連想によるわが身あわれさに浸ると、そのすりかえが共演者にはすぐにわかるため、よい演技にはならないということ。
トップレベルへの+α
よい演技にならない理由は、「共演者がシラーっとしてしまう」ことにありました。ということは、この「シラーっとしてしまう」という論点を追加しておくと、この文の論理関係はいっそう充実することになります。
すりかえが伝わり → シラーっとしてしまうため → 演技の質が下がる
と書くほうが、理屈が強くなります。
トップレベル答案
役者が、演じる人物の境遇とは無関係に、一人で回想や連想で自己陶酔すると、そのすりかえが共演者にはすぐにわかり、しらけてしまうため、よい演技にはならないということ。
「わが身あわれさに浸っている」という部分は、「自己陶酔」などの熟語を使用すれば圧縮できます。もちろん、「わが身あわれさに浸っている」のままでもOKです。同じ意味であれば、どちらで書いても同じ点が入ります。
「シラーッとしてしまう」は、そのまま書くと「おしゃべり言葉」のようになってしまいますので、「しらけてしまう」くらいに言い換えましょう。
採点基準
役者が(一人で) (ないと減点)
登場人物の行動の展開とは無縁の位置に立ち ① 同趣旨なら可
回想や連想 ①
自己陶酔 ② 「わが身あわれさに浸る」も可
そのすりかえが共演者に伝わる ①
舞台がしらけてしまう ① 同趣旨なら加点
(よい演技にならない・芝居の質が落ちる など)
ということ。

ひとつ前の問題で、筆者は、
「感情を伴わず、典型的なパターンにすぐにおさまる演技」を批判していました。
では、「感情」があればいいのかというと、そういうわけではありません。
「芝居の流れ」とは無関係の「自分自身の過去」などを思い出し、涙を流す演技をしたりしても、共演者たちにとっては、「あれ? こいつ今、関係ないことで泣いているんだな」とわかってしまうのですね。
それは、いわゆる「嘘の感情」です。
「芝居の中の話の流れに没入して、その登場人物になりきって、悲しみの気持ちを味わい、涙を流す」という演技が、最もよい演技なのです。
まとめると、
ひとつめの問題では、「感情を無視して、典型的な型通りの演技をしてはいけない」ということが述べられていました。
そして今回の問題では、「感情的になって、涙を流すことができたとしても、それが芝居の展開には無関係の回想によって引き起こされたものであれば、共演者たちにはわかってしまうので、結局はいい演技とはいえない」ということが述べられていました。