「はなさかじいさん」の概要をおさらいしてみましょう。
善い爺がイヌを飼う。イヌが畑を掘る。そこを掘ると小判が出る。
悪い爺がイヌを借りてまねると汚い物が出る。悪い爺はイヌを殺す。
善い爺はイヌを葬り、墓にマツの木を植える。マツはすぐに成長する。善い爺がマツで臼をつくり、餅をつくと小判が出る。
悪い爺が臼を借りてつくと汚い物が出る。悪い爺は臼を焼く。
善い爺がその灰をまくと、枯れ木に花が咲き、殿様から褒美をもらう。
悪い爺がまねをすると、殿様の目に灰が入り、とがめを受ける。
こうしてみると、「悪いじいさん」が悪いことをするたびに、それがきっかけとなって、「いいじいさん」に幸福が転がり込んでくる話になっています。
ということは、「悪いじいさん」が何もしなければ、「いいじいさん」は、殿さまに褒美をもらうところまではなかったのですね。
「物語」には、いろいろなものがありますけれども、「主人公」と対比される「敵」がいないと、なかなか進展しない部分がありますね。
ディズニーの映画などでも、何らかの「敵」がいて、それを乗り越えることで、主人公サイドの結束が増したり、真実の愛に気が付いたりします。
そういう意味で、たいていの「物語」には、「主人公サイド」から見た「悪(障害)」が必要になります。
「悪いように見える」ことが、結果的に、「新しいよいこと」のきっかけになっています。
以上のことが、③段落で述べられていることです。

「塞翁が馬」という故事にも通じるところがありますね。
昔、中国の北辺の老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げたが、後に立派な馬をつれて帰ってきた。老人の子がその馬から落ちて脚を折ったが、そのために戦争に行かずにすんだ。このように人生の吉凶は簡単には定めがたいことをいう。人間万事塞翁が馬。

その時点では「不幸」と見えることが、別の「幸運」を呼び込むきっかけになったり、「幸運」と見えることが、別の「不幸」につながったりします。それが人生です。
さて、④段落で筆者は、「はなさかじいさん」の「よい爺さん」と「悪い爺さん」の関係を、「一人の人間の内界の話をしても読むことができる」と述べています。
「よい爺さん」と「悪い爺さん」を、一人の人間の心の内側にある「二人の自分」として考えてみようということです。
もちろん、「はなさかじいさん」の昔話のなかでは、「隣に住んでいるいじわるじいさん」は実際にいるのですが、筆者は、「もしも、よいじいさんの心の中に、いじわるじいさんがいたとしたら」という架空の話をし始めます。
どうしてそんな架空の話をし始めるのかというと、筆者は、
「現在に生きている私たち自身」にも、「ちょっとした悪い心」があるけれども、そういう心が「次の成功」を生むかもしれないよ。
時々「失敗」したほうが、次にもっと大きな成功につながることもあるよ。
それに、「悪い心」を抑え込みすぎると、いつか爆発してたいへんなことになることもあるよ。
ということを言いたいからです。そういうことを述べているのが⑤段落です。
さて、④段落の話に戻ると、これは「実際のはなさかじいさんの話」ではなく、筆者の「架空の話」なのですが、「よい爺さんの心の中に、悪い爺さんがいたとして」という設定で話をします。
もしも「よい爺さん」が良い行動しかしていなければ、物語は進展しませんね。「悪い心」にそそのかされて、時々悪いことをしてしまうからこそ、話は展開していくのです。
河合隼雄先生が、「どうしてわざわざ一人の人間の心の中の話」にしているのかというと、「それが人間の真実の姿」だからです。
誰の心の中にも、大なり小なり「悪心」があり、誰の人生にも、その「悪心にしたがってしまったからこそ失敗してしまった」という経験があります。
それが「とんでもない失敗」「とんでもない悪行」であれば、取り返しのつかないことになることももちろんありますが、筆者は、「悪心による失敗がない人生も危険だよ」と考えています。

そういう話を⑤段落で述べたいために、その布石として、④段落でそういう「架空の話」をしたのですね。