問1
(ア)祈念 (①祈願 ②棄権 ③騎馬 ④旗手 ⑤軌道)
(イ)記念碑 (①被害 ②卑近 ③罷免 ④碑文 ⑤疲弊)
(ウ)征服 (①犠牲 ②調整 ③先制 ④一斉 ⑤遠征)
(エ)朽ち (①究明 ②及第 ③階級 ④紛糾 ⑤不朽)
(オ)媒介 (①栽培 ②賠償 ③触媒 ④陪審 ⑤倍加)
問2
傍線部の「~せしめよう」という表現は現在ではあまり耳にしなくなりましたが、端的にいうと「~させよう」という意味です。
「せ」は古文の動詞「す」であり、意味は「する」です。「しめ」は古文の助動詞「しむ」であり、〈使役〉の用法です。したがって、「せしむ」という表現は「させる」という意味になります。
そのことから、「変容せしめよう」というのは「変容させよう」という意味になります。
さて、この設問は「どういうことか」という問いであるので、作業すべきことは「傍線部そのものの具体的言い換え」です。本文中の別個所に「正解の核」となる部分があるはずなので、それを探しに行きましょう。
さて、傍線部の直前には、
ヨーロッパ流の芸術観では、芸術とは自然を素材にして、それに人工を加えることで完成に達せしめられた永遠的存在なのだから、
という定義文があります。「AとはB」という定義的な文には常に注目しましょう。
さらに、この文は「~のだ」という統括文になっています。つまり、これまでに出てきた話題を端的にまとめた部分です。

定義文であり、かつ統括文なので、非常に重要な文であるといえます。
では、内容を考えてみましょう。
まず、この文の主題は「ヨーロッパの芸術について」です。
そのうえで、この定義文のキーワードを拾っておくと、
〈a〉自然を素材にして、人工を加える
〈b〉完成に到達させられた
〈c〉永遠的存在
といった情報があります。
その論点が入っている選択肢としては、〈選択肢②〉が最も近いです。
〈a〉時間とともに変化する自然に手を加え
〈c〉永遠不変の
〈b〉完結した形をそなえた作品を作り出そうとする
というように、「定義文」の論点がほぼそのまま入っている選択肢です。
選択肢の吟味
①
「一瞬の生命の示現」が「逆のこと」を言っているので×です。「一瞬の生命」は、ヨーロッパの対比項である「日本の庭」に当てはまるものです。
②
正解です。
③
「親和性」や「深い縁で結んだ」が「逆のこと」を言っているので×です。ヨーロッパの庭園においては、むしろ「自然」と「人間」は対立する存在だとされています。
④
「消え去った後も」が定義文と「逆のこと」を言っているので×です。ヨーロッパの庭園においては、「庭の構成がそもそも消え去らないように」工夫するのだと書かれています。
⑤
「自然の素材の変化を生かしつつ」が、定義文の意味と異なるので×です。ヨーロッパの庭園は、自然の変化を生かすのではなく、人間の手を加えて「完成(固定)」させてしまうのです。

正解は②です。
対比で構成されている文章は、登場する語句が、意味的にどちらに該当するのか区分して読みましょう。
課題文そのものが、「日本の庭v.s.ヨーロッパ式の庭園」という二項対立の図式で構成されていますね。
文章自体が「A対B」の構造になっている場合、傍線部問題で「Aの特徴」を聞き、不正解の選択肢に「Bの特徴」を入れていくというのは、非常によくあることです。
この設問も、傍線部では「ヨーロッパの芸術観」について書かれており、不正解の選択肢にはすべて「日本の芸術観」を入れておくという作り方になっていました。
問3
まず、設問の「問い方」がやや特殊ですね。
「生花」「茶の湯」「連句」の例を挙げている。
それは「一期の出会い」を踏まえた上で、日本の芸術のどのような点を強調するためか。
ややこしい聞き方をしていますが、結局のところ、具体と抽象の対応関係を聞いている問題であると言えます。
〈傍線部B〉は、「たとえば~」で始まる具体例の段落に引かれていますね。実際、傍線部の中には「花」「生花」という具体的な言葉があり、それ自体は例示です。

具体例を出すということは、「例を挙げてまで言いたいこと」が前後にあるはずです。
「ただの言いたいこと」ではなく、「具体例を挙げてまで言いたいこと」なので、重要度は非常に高いのです。
それを探しに行きましょう。
文脈はこうなっています。
造形意志が極端に弱いのが、日本の芸術である。(説明表現)
日本人は堅固な石ではなく、壊れやすく朽ちやすく燃えやすい木の家に住んでいる。(具体例)
彼らは自分たちの生のあかしとしての造形物を後世に残そうとしなかった。(説明表現)
たとえば生花とは造形なのか。~(以下具体例)
「具体例を挙げてまで言いたいこと」がありますね。それは、
造形意志が極端に弱いのが日本の芸術である。
彼らは(日本人は)生のあかしとしての造形物を後世に残そうなどとは心がけなかった。
ということになります。

この内容が正解の「核心(最大のポイント)」になります。
最初に見たように、設問は、「一期の出会いにまつわる具体例を挙げることによって、何が言いたいのか」というものなので、
日本人は造形意志が弱い
というポイントを押さえたものが正解ということになります。
該当する選択肢は④で、これが正解です。
選択肢の吟味
①
◆「日本人は造形意志が弱い」という「答案の核心」に言及していません。
また、「連句の中の発句のもつ十七字という極小の単位にしぼって」という説明が、本文と食い違っています。本文では、「芭蕉は発句よりも連句に生きがいを覚えた」とあるので、特に「発句」に話をしぼっているわけではありません。
また、「簡素さ」がおかしいです。「簡素」なのか「華美」なのかが問題なのではなく、本文では「日本人は造形そのものに対する意志が薄弱である」とされています。
②
◆「日本人は造形意志が弱い」という「答案の核心」に言及していません。
また、「人間関係の豊かさ」が△です。「茶の湯の例」と「連句の例」にはかろうじて当てはまるかもしれませんが、「生花」の例で「人間関係」は出てきません。つまり、「人間関係」の話題は、3つすべての例に共通しているものではないのです。
③ *注意すべき選択肢!
◆「日本人は造形意志が弱い」という「答案の核心」に言及していません。
「連句を楽しむ時間の短さ=刹那性」という部分は、「一期一会」自体の説明としては適当です。芸術として表現されたものが、「すぐに消える」というのは、「一期一会」の特徴と一致しています。しかし、設問は、「一期一会そのものの説明」を求めているのではなく、そういった例示を挙げることによって結果的に何が言いたいのか、ということでした。
この段落での筆者の論理は、
(ⅰ)このことからも、日本の芸術の表現者たちは、造形意志が希薄だと言えます。
(ⅱ)生花、茶の湯、連句など、日本の芸術では、表現されたものはすぐに消えます。
ということでした。
(ⅰ)が「主張」で、(ⅱ)が「具体例」です。
この〈選択肢③〉は、「刹那性を強調」という説明をしており、それは(ⅱ.具体例)のところについて述べていることにはなります。したがって、本文そのものと矛盾しているわけではありません。
ところが、設問で問われていることは、「(ⅱ.具体例)によって何が言いたいのか」ということですので、答案に必須なのは(ⅰ.主張)のほうなのです。
その(ⅰ.主張)について、〈選択肢③〉は何も言及していないので、〈選択肢④〉に比べると、正解としての核心的な論点がない、と判断できます。
④
正解です。
⑤
◆「日本人は造形意志が弱い」という「答案の核心」に言及していません。
また、「芸術における空間性」という論点は、この設問の議題とは関係ありません。

重要なことなので繰り返し述べるますが、〈選択肢④〉以外は、すべて〈正解の核心〉に言及していません。
「消去法」だけで対応しようとすると、こういう問題の正解になかなかたどり着きません。
選択肢問題であっても、「記述問題だったらここを使う」という観点を持っておきましょう。
問4
「志賀直哉」自身が「〇〇という理由で絶賛したぞ!」と述べているわけではないので、「筆者」が「志賀は〇〇と思って絶賛したんじゃないかな」と述べているところを「答案の核心」とします。
ポイントは、志賀の文章を受けて、
この一文は、石庭を相阿弥の作と想定して、ほぼ最初に作られたままの姿でいることを、今日の鑑賞家である自分たちにとって幸いだとしているのである。変化してやまぬ草木が一本もないのだから、作者が最初に置いた石の配置さえ動かさなければ、それは原形を失っていないはずだし、それを相阿弥の庭としてまじり気なく受け取ることが出来ることになる。
と述べている箇所に注目しましょう。志賀の言葉を受けて、いわゆる「~のだ文」で統括しています。

「幸い」というのは、肯定的な語句なので、「絶賛」と相通じると考えられますね。
その後、本文はこう続きます。
だが志賀氏はここで、作者(相阿弥と想定して)の意図が、そのままの形で今日のわれわれに伝わることを、どうして幸いとしたのであろう。ここにはやはり、永遠不変の記念碑的な造型物を志向するヨーロッパ流の芸術理念の上に、飽くまでも作者の個の表現としての作品を重んずる近代風の考えが重なっているのではなかろうか。
これこそ、「幸い」とした「理由」であると考えられます。
ポイントは、「永遠」と「個」です。
「作者個人の造形表現」が、「ずっとそのまま残る」ことを「よい」と考えていたからこそ、志賀は、「龍安寺石庭」を「幸い」とした(絶賛した)のだといえます。
このポイントに合致するのは⑤であり、これが正解です。
選択肢吟味
①
◆「答案の核心」である「永遠・個」に言及されていません。
また、「精巧な模倣」という説明も、本文情報からはわかりません。「精緻な模倣」というと、「完璧に真似る」という意味になりますが、本文の説明を読む限り、そうではないと考えるほうが妥当です。
また「幾何学的」というのは、「秩序だっている」「法則性がある」「整然としている」という意味です。たしかに「ヨーロッパの庭」の特徴としては当てはまりますが、「龍安寺の石庭」が幾何学的かどうかについては、本文情報からはわかりません。
②
◆「答案の核心」である「永遠・個」に言及されていません。
また、「幸福な出会い」が、比喩的表現であり、説明として△。おそらく日本の芸術とヨーロッパの芸術が「混合している」とか「うまい具合に調和している」といった意味でしょう。しかし、志賀直哉も筆者も、龍安寺の石庭に「日本的美」を見出しているわけではありません。
③
◆「答案の核心」である「永遠・個」に言及されていません。
また、「一見無造作に見える」という部分が、本文情報からはわかりません。
④
◆「答案の核心」である「永遠・個」に言及されていません。
また、「一期一会の歓びにすべてをかける」が〈逆〉です。「一期一会」は文章前半で話題にされていたように、日本的美の特徴であって、それは「ずっと残っていないもの」「その瞬間だけ輝くもの」です。龍安寺の石庭は、むしろ「ずっとそのまま残っているもの」として解釈されているので、内容的に正反対です。
⑤
正解です。
「作者の強固な意図」「そのまま息づいている」という説明が、「個・永遠」に該当する論点になっています。

この問題も、「書くならここを使う」という観点があれば、正解を選びやすいと言えます。
問5
傍線部には「例外」という語があります。

「例外」は「原則」の対義語です。
「龍安寺の石庭」について、筆者は「例外と言うべき」だと述べています。
「例外」とは「原則から外れている」ということですから、要するに、「日本の一般的な普通の庭」から見ると、「龍安寺の石庭は異質」だと言っていることになります。
答案には、「原則(日本の普通の庭)」についても、何らかの説明があるとよいです。それがないと、「例外」を説明しきったことになりません。
その観点で重要論点を探しに行きましょう。
さて、傍線部の内部には「この」という指示語があります。
直前には、
「これは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りに厳格すぎる」
という、志賀の言葉があります。
ただし、「志賀の言葉」は引用であり、「筆者の主張そのもの」ではありませんので、「筆者も同じようなこと言っていないかな」という視点で、もう少しさかのぼってみましょう。
すると、筆者自身のことばとして、
だが、この寺に住まい、朝夕この庭と対している住持の立場に立てばどうなのか。このような、つねに人に非常の時間を持することを強い、日常の時間に解放することのない緊張した空間に堪えるには、人は眼を眠らせるより仕方がない。それは毎日それと共にあるには、あまりに息づまるような、窮屈きわまる庭なのである。日本の多くの庭の、人の気持ちをくつろがせ、解き放ち、嬉戯の心を全身にみなぎらせてゆくような要素が、ここにはない。
と説明されています。
まさにここは、傍線部の「この非日常性」が指している箇所だと言えます。
しかも、この箇所には、「日本の多くの庭」の説明も含まれているので、ここを答案に使用すれば、「例外」に対する「原則」のほうにも言及したことになります。
したがって、ここが「答案の核心」です。
「日本の多くの庭(原則)」は「人の気持ちをくつろがせる・解き放つ・嬉しくさせる」ものであるのに対し、「龍安寺の石庭(例外)」は「息づまる・窮屈」な庭であるという「二項対立」の答案が正解候補です。
すると、最もよいのは③であり、これが正解です。
選択肢の吟味
①
◆「答案の核心」に言及されていません。
また、「様式美」という語が事実にあっていません。「様式美」というのは、「ある決まった約束事・形式の中に見出せる美」のことです。
たとえば「打席に入る前のイチローの素振りは、もはや様式美だ」などと言います。
要するに、「ある決まった形・形式・約束事」を「美しい」とすることなのですね。文章から読解する限りでは、「龍安寺の石庭」は「独特な庭」であり、「何かをまねた庭」「どこかほかの庭に形式が似ている庭」ではありません。すると、そこに「様式美」を見出すことはできないことになります。
余談ですが、たとえば、整然と並んだ「田んぼ」などは、日本のどこに行っても同じようなスタイルのものを目にすることができますね。こういうものを「様式美」ということは可能です。
②
◆「答案の核心」に言及されていません。
また、「芸術の本道」というものが一体なんなのか、本文情報からではわからないので、説明不足です。
③
正解です。
「日本の庭(原則)=くつろがせるもの」v.s.「龍安寺の石庭(例外)=緊張感を強いるもの」という二項対立がズバリ示されています。
「くつろぐ」も「緊張」も本文に存在している語ですが、「正解の選択肢」というものは、これらを「安らぐ」とか「心が張りつめる」といったように、「適度な言い換え」をしてくる可能性もあるので、そのあたりは注意しておきましょう。
④
◆「答案の核心」に言及されていません。
また、「ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造形美」が「言いすぎ」です。たしかに「龍安寺の石庭に対する志賀直哉の評価」は、「ヨーロッパの芸術理念」に基づいていると解釈できますが、それはあくまでも筆者がそういう解釈を導き出したものです。
「即応」というのは「すなわち応じること」つまり「すぐに応じること」「ぴったり対応すること」ですが、「ヨーロッパの芸術理念」と「龍安寺の石庭の造形美」が「ぴったり対応」しているというのは言いすぎです。
「即応」とまで言うのであれば、そもそもの見た目が、ヴェルサイユ宮殿の庭のようになっていなければおかしいです。
⑤
◆「答案の核心」に言及されていません。
また、①と同様に「様式美」という語が用いられていますが、「様式美」というものは、むしろ「原則」のほうにあてはまるものであり、「独特な例外」に対して「様式美」という説明を用いるのは食い違いがあります。
問6
問い方は少々変わっていますが、結局は内容把握問題として成立しています。「本文の内容とあっているか/あっていないか」で確認していくため、解答スタイルは最初から〈消去法〉になります。
選択肢の吟味
①
「龍安寺の石庭を代表とする日本の庭」が「本文と矛盾」します。
最終段落では、多くの日本の庭と比べて「例外」と位置づけられているので、「代表」はまったく逆です。
②
正解です。本文と整合しています。
③
「龍安寺の石庭が日本の代表的な庭園」が、〈選択肢①〉と同じ理由で×です。
そのことから考えると、その直前「両者(日本とヨーロッパ)の芸術理念の共通点に普遍性を認めつつ」もおかしいです。
「普遍性」というのは、「いつでもどこでもあてはまる」ということですから、「ヨーロッパと日本の芸術理念の共通点は、どこの国でもいつの時代でもあてはまるものだ」と言っていることになってしまいます。
筆者は「日本の庭」と「ヨーロッパの庭」が「違う」と述べているのであり、「龍安寺の石庭は例外」と説明しているわけですから、「共通点に普遍性を認め」てはいません。
④
「龍安寺の石庭が日本の芸術理念を集約」が〈選択肢①〉や〈選択肢③〉と同じ理由で×です。
「龍安寺の石庭」は、「日本の芸術理念を集めて要約したもの」ではなく「例外」なのです。
⑤
「前半では~抽象的に論じている」が不一致です。
前半には「庭・生花・茶の湯・連句」という「具体例」がずいぶん出てきていましたね。
どちらかというと後半のほうが抽象的です。

「具体」⇔「抽象」という対義語は、評論文では非常によく出てきますね。