問1
(ア)系統 正解は⑤ (①傾聴 ②渓流 ③経緯 ④啓発 ⑤系譜)
(イ)臨場 正解は④ (①人倫 ②林立 ③大輪 ④臨機 ⑤近隣)
(ウ)鉛色 正解は④ (①順延 ②炎症 ③縁故 ④亜鉛 ⑤高遠)
(エ)紡ぎ 正解は⑤ (①棒大 ②忙殺 ③感冒 ④解剖 ⑤混紡)
(オ)縛られ 正解は③ (①起爆 ②暴露 ③捕縛 ④漠然 ⑤麦芽)
*漢字は、「不正解の選択肢」のほうも書けるようにしておきましょう。
問2
論点収集
この問題は、
鉄則① 傍線部を含む一文はそもそも重要
鉄則② 指示語があれば、指示語の指示対象を必ず把握する
という〈鉄則〉を確認しようとしている問題です。
どのような問題であっても、まずは、〈傍線部を含む一文〉をチェックすることが何よりも大切です。
傍線部を含む一文には、
生活世界において働くその様をありのままに見ることはできない。
とあります。
これだけでは、何を言いたいのか判然としませんので、指示語をたよりにさかのぼっていきましょう。
直前には、
つまりことばそのもののもつ第一次的、本質的な対話性に目を向ける視点が抜け落ちているのである。
とあります。ここが決定的に重要です。
ただし、「本質的な対話性」がどういうものなのかは、この文からだけでは明らかにならないので、「つまり」の直前も追いかけていくことになります。
「つまり」の前では、こう述べられています。
このことば観のなかでは、~ 他者との会話からことばが生まれてくるという発想がない。
同じ内容は、〈①段落〉でも述べられています。
〈語―文法〉的なことば観は、しばしば独我論的で、そこに他者とのかかわりが見えてこない。
これらのことから、「このことば観」は、「他者が無視(軽視)されていることば観」であると言えます。
以上をまとめると、「他者とのかかわり」「他者との対話」「生活世界」ということとは反対方向にあるのが「このことば観」だということになります。
選択肢の検討
選択肢①
「他者との対話から生まれ」が逆で×。
選択肢②
「他者との関係の場で機能」が逆で×。
選択肢③
「生活世界とのかかわりで運用し」が逆で×。
選択肢④
「対話性を摸索」が逆で×。
選択肢⑤
「他者がない」「対話がない」という文脈をつくっているのはこの〈選択肢⑤〉だけです。
正解
以上により、正解は〈選択肢⑤〉になります。
補足
この設問で話題になった、〈語-文法〉的なことば観とは、文法として決まっていることしか認めないような言語観です。
たとえば、「ら抜き言葉」という現象があります。私たちは、日常会話で、「来ることができない」という意味で「来れない」という言い方をすることがありますが、文法的には「来られない」が正しい用法です。このとき、「来れない」ということばは「ら抜き言葉」だから駄目だ! とするのが、〈語―文法〉的なことば観です。
また、たとえば「パネエ」という言葉遣いは辞書に載っていません。もちろん、公的で正式な文書に使うべきではありませんが、友人同士の日常会話では通用します。ここで、「こんな言葉遣いはおかしい」と認めないのが、〈語-文法〉的なことば観です。
しかし、そもそも言語はこうやって、生活上の対話の中で少しずつ変化し、時には誤用が定着してしまうことすらあって、変遷していくものです。そのため、「文法が違う!」「正しい用法ではない!」と目くじらを立てることは、安易な文法破壊を防ぐ点ではいいことである反面、新しい言語の運用を抹殺してしまうことにもなりかねません。
たとえば、「新しい」ということばも、平安時代の読み方は「あらたし」であるので、誤用が定着してしまったパターンであると考えられています。今、私たちが使用していることばには、このようなものがたくさんあります。それらすべてを「おかしい」ということはできないはずです。
もちろん、みなさんが「志望理由書」や「小論文」などを書くときには、文法的に正しい言語運用をするべきです。また、目上の人との会話や面接においてなど、公式の場での発言では文法規則に則って話すべきです。しかし、先に見たように、言葉の想像力とは、むしろ既存の言語体系が壊れるときに発揮される場合もあるのです。たとえば「詩」などは、文法的には大いに壊れていますが、むしろそこからイメージの世界が生成される芸術だと言えます。
そもそも「ことば」とは、生活・対話・身体などと密接に関わるからこそ、創造されるものでもあります。「既存の言語体系」がまずあって、それを運用することでしか言語生活が営まれないのであれば、私たちは古文のままの言語体系を生きているはずです。しかし現実がそうでないことは明らかです。
ことばは「生活・対話・身体」に根ざすのです。まず「生活・対話・身体」があってこそ、ことばはそこからイメージを広げ、その営為によって、新しい言語が生成されることもあります。
ひとまず、筆者は、〈語-文法〉的なことば観を否定的に見ている、という立ち位置を把握しましょう。そのうえで先に進みましょう。傍線部Aによる〈問2〉は、筆者の立ち位置を把握させるための問題であると言えます。
問3
論点収集
まずは何よりも〈傍線部を含む一文〉の確認です。
そこにことばの世界と身体の生きる世界の二重化をはっきり見ることができる。
答案の〈核〉にするべきところを決めましょう。傍線部内の「二重化」が「意味不明」なところなので、ここを説明します。また、「そこ」という指示語があるので、指示対象を明確にします。
本問の説明のポイントは「そこ」と「二重化」
ひとまず指示語の解決から行きましょう。「そこに」が指しているところを確認すると、
ここまできたとき、ことばは現実の場面を離れて、それだけで一つの世界を立ち上げる
とあります。この文にも「ここ」という指示語があるので、さらにさかのぼると、
たとえこれを読んでいるのが真夏で、ステテコ一枚で、団扇をバタバタやっていたとしても、その雪の場面を理解するのに不都合はない
とあります。この部分より前は具体例そのものなので、内容がつかめればこのあたりをヒントにして正解表現を探しましょう。例に対応すると、「真夏・ステテコ・団扇」が「現実の場面」であり、「雪の場面を理解する」が「一つの世界を立ち上げる」になります。最大のポイントは「離れて」という言葉です。
現実と「離れた」世界が立ち上がる
(「真夏」に「雪」を理解する)
ということが「二重化」という言葉の意味です。つまり、「現実の場面」と「ことばの世界」が「離れて成立する」ことを「二重化」と呼んでいるのです。
以上の考察から、もしも記述問題であれば、ひとまず次のような〈下書き〉を書くことができます。
ことばが、身体の生きる世界を離れて、一つの世界を立ち上げるということ。
ただし、「世界を立ち上げる」という表現が、比喩的で、説明としては不十分です。したがって、この「世界を立ち上げる/世界が立ち上がる」という表現を、もう少しわかりやすく表現しているところはないか、という観点を持って探しに行きます。
すると、傍線部の後ろには、「二重化の構図こそ確認しておきたい」とあり、「念押しに~二つ例を引く」と書いてあります。
二重化の話題がそのまま続いていますし、「念押し」と表現されているのですから、話題はそのまま続いていると判断します。筆者は、そのまま「二重化」について説明していくのです。
「二重化の説明はこれで十分」と筆者が判断したのであれば、「念押し」をする必要はありません。「説明しきっている」のであれば、「二重化」そのものの説明はいったん終了し、話題は発展していくはずです。ところが、この文章はそうではなく、「二重化」そのものの説明を「念押し」するのです。そう考えると、〈説明のために有用な情報〉が、その後にもきっとあるはずだと言えます。
重要な姿勢は、例の終わった瞬間に着眼することです。そこに、例をまとめたような抽象表現があれば、筆者がかなり力を込めている箇所であると判断できます。
〈ポイント〉
例の終了時点に、例を受けつつ抽象説明している箇所があれば、それは重要文である。
(「そうした」「こうした」などの要約系の指示語がある場合は要注意)
そのような観点で見ていくと、ひとつめの例の終了付近には、
そうした世界が眼下に広がる思いがする。
と書かれています。「そうした」という要約系の指示語があることからも、例を受けつつ、説明しようとしている箇所です。ここで述べられていることは、「目の前の現実ではない世界が、まるで目の前にあるかのように意識される」ということです。
次に、ふたつめの例の終了付近には、
この文字のならびのなかに一つの情景が浮かんでしまうのである。
という説明があります。「情景が浮かぶ」とは、ひとつめの例の終了時点に書かれていた「眼下に広がる思いがする」という表現と〈類似表現〉です。ほとんど同じことを言っているので、記述問題であれば、どちらかをうまく利用できればよいでしょう。
さて、例が終了した次の段落では、ふたつの例を受け止めるかたちで、
身体がその生身で直接に生きる世界とは別に、ことばがそれだけで独自に開く世界がある。
と書かれています。
これは、傍線部直前の、「ことばは現実の場面を離れて、それだけで一つの世界を立ち上げる」ということと、まったくといっていいほど同じ構造になっています。
(a)ことばは現実の場面を離れて、それだけで一つの世界を立ち上げる
(b)身体がその生身で直接に生きる世界とは別に、ことばがそれだけで独自に開く世界がある。
(a)≒(b)
筆者は、ここまで「二重化」そのものの説明をし続けていたわけです。このように、例を挟んだ前後は、同じ意味内容を繰り返していることが多いと考えましょう。例示部分が長ければなおさらその傾向は強くなります。
以上の考察により、記述問題であれば、次のような答案が成立します。
〈記述想定答案〉
人はことばによって、現実から離れた情景を思い浮かべることで、生身の身体で直接生きる世界とは別に、ことばだけで独自に構成される世界をも生きるということ。
選択肢の検討
選択肢①
「現実の情景」がおかしいです。現実ではなく空想上のことばであっても、二重化の成立は可能です。
また、「他者の発した生き生きとしたことば」が限定しすぎです。たとえばかつて自分が書いた文章を読み返して二重化を経験することだってあるはずなので、「他者」に限定する必要はありません。
選択肢②
〈記述想定答案〉に最も近いのは〈選択肢②〉です。
〈選択肢②〉
ことばがことばだけで独立した世界を生成し、私たちの身体が実際に生きている現在とはまた別に、私たちがその世界をありありと感じ取ることができるということ。
(「眼下に広がる思い」「情景が浮かんでしまう」の言い換え)
ポイントは、「ありありと感じ取ることができる」という表現です。これは、「眼下に広がる思い」とか、「情景が浮かんでしまう」といった表現を、まとめて言い換えたような部分です。本文通りの表現ではありませんが、内容は一致しています。
選択肢③
「息子の発する『あ、雪!』ということばが、それを聞く私の身体に降り立つ」という具体例は、論と一致しません。傍線部に近接している具体例は、子どもが「あ、雪」と発話するのを実際に聞く具体例ではなく、書物で読む場合の具体例です。文章はこうなっています。
(具体例1)一緒にいる息子の発する「あ、雪!」ということばを実際に聞く。
【それだけで宇宙をなすところまでは遠い。】
(具体例2)障子一枚はさんだ外から「あ、雪!」という子どもの声が聞こえる。
【これをまだことばの宇宙とまでは言えまい。】
しかし
(具体例3)子どもが「あ、雪!」と叫ぶ場面を、書物で読む。
【そこに、二重化を見ることができる。】
つまりこの選択肢は、場所としても遠く、文脈的にも遠い具体例を使ってしまっているのです。
選択肢④
「一致して重なり合う」がおかしいです。「二重化」は、「現実」と「ことばによる想像」が別々に存在することを表すわけですから、「一致」は逆です。
選択肢⑤
「息子の発する『あ、雪!』という声」がおかしいです。③と同じことですが、「二重化」を説明するのに適切な具体例ではありません。
正解
以上により、正解は〈選択肢②〉になります。
問4
傍線部を含む一文をきちんと見ると、「念押しに」とあるので、この二つの例も「二重化」の例になります。問3との連動問題であり、「二重化」という言葉について触れていない選択肢はすべて落とすことができます。
選択肢の検討
選択肢①
「四十代の人間にしか感じられない」が「限定しすぎ」です。
また、「同世代の読者に対して」が「限定しすぎ」です。むしろ、自分が作者の世代でなくても、作者の世代が感じるような感覚を味わえることが、「ことばの宇宙」の内容です。
また、①は「二重化」の説明になっていないので、そもそも問いに答えていないとも言えます。
選択肢②
「雪国に生まれた人間が感じるのと同じような」「追体験」が「言い過ぎ」です。作者と読者が「同じ」イメージを持つのではなく、読者は読者なりのイメージを持てることが、「ことばの宇宙」の内容です。この選択肢だと、たとえば北海道に行ったことのない人が、北海道に住んでいる人と「同じような感覚」で雪をとらえることができるという内容になっています。それは常識的に考えても無理です。本文の主旨とも逆です。このように、「よく見ると常識的に考えておかしい」という選択肢には気をつけましょう。「南極の氷ってすごいよ」と南極に住んでいる人に言われても、私たちがイメージする「南極の氷」は、決してそこに住んでいる人が持っている「氷のイメージ」と「同じ」ではありません。時代劇を楽しんでも、当時江戸に住んでいた人と「同じような感覚」を持つことは不可能です。
選択肢③
「身体はここにいながら精神は別の場所へ行く」という「二重化」の説明ができているのは、この〈選択肢③〉だけです。
選択肢④
「読者が作者の年齢や人生に対する思いを共有したときに」が逆です。文中の「作者の生きてきた過程を知らずとも」に矛盾します。
選択肢⑤
「読者がかつて目にした」「そのままよみがえらせ」が言いすぎです。ことばというものは確かに何らかのかたちで「かつて見たもの」や「かつて経験したもの」とセットになります。しかし、そのことを根にして、想像力が広がっていくのが「ことばの宇宙」です。
「重層的な世界」も言いすぎです。「重層」は「いくつもの層に重なっているさま」を意味します。「二重化」は「二つに分かれること」を意味するので、「いくつもの層」になってしまうと分かれすぎです。
正解
以上により、正解は〈選択肢③〉になります。
問5
「身体の世界に根ざす」という「比喩的な表現」が何を意味しているかを問う「比喩解読」の問題です。比喩表現を解読する問題の場合、基本的にはそれを説明することのできる「具体的な表現」があるはずなので、それを探しましょう。注目すべきは、3行前の「この生身で生きる世界を離れては、根を失う」という表現です。
ことばで語り出す世界の中身そのものが、この生身で生きる世界を離れては、根を失う。
「根を失う」という表現は、傍線部の「根ざす」と対になっています。「根」という語から判断すると、同じ話題が続いていると考えられますから、「根を失う」と「根ざす」のあいだに存在する部分は、傍線部の「具体的言い換え」だと判断できます。
この部分は「例示」と「説明」が混在しているので、説明表現に使用できそうな場所と、例示とを、区別していくことが大切です。
身体をぬきにしては、
[yuki]は「ただの音声」
「雪」は「意味不明の模様」
[kaze]は「無意味な音声」
「かぜ」は「無意味な綴り」
であると述べられています。ここでは例示と説明表現が混在していて、重要箇所を特定するのが難しいのですが、「意味不明・無意味」という表現には着眼したいところです。つまり、「根を失う」という表現と、「無意味」という表現は、内容的に一致しているのです。
そのため、この「無意味」を〈逆利用〉すれば、説明表現をつくることは可能です。たとえば、「意味として成り立つ」「意味がある」「意味を持つ」などと答案に書くことができます。
「根」という表現は、「根幹」「根本」という熟語に代表されるように、「基礎」「基盤」として木を支えるものなのですから、「身体を基盤として意味をなす」とか「身体とかかわることで、はじめて意味が生成される」などのように説明するとよいでしょう。このように言い換えておくと、「根」という比喩表現をそのまま使用することを避けられます。
以上により、次のような〈下書き〉が成立します。
ことばは、身体を基盤とすることで、意味をなすということ。
これが〈核心〉です。
さらに踏み込めば、「震える・過ごす・聞く・感触」といった例示的表現を抽象的にまとめて、
「身体における感覚等を基盤として」
「身体による(対象の)認識経験を基礎として」
「身体による感覚の獲得を基盤として」
などと書くことができれば、より充実した内容の答案となります。
このように、例示は、そのまま書くわけにはいきませんが、「その例示によって何が言いたいのか」というほうを抽出できれば、解答の充実度を上げることができます。
このことから、次のように書くことができます。
◆ことばは、身体による対象の認識経験を基礎にして、意味をもつということ。
◆ことばは、感覚を伴う身体を基盤として、意味をなすということ。
閑話休題
設問に戻りましょう。
次に気をつけておきたいのは〈主題をしっかり書く〉ことです。主語は「ことばは~」でよいのですが、あっさりとそれだけ書くのは、今回に関してはやや甘いです。ここでは、「しかしそれだけではない」という接続関係で、その前後の内容は区別されていることに着眼しましょう。
息・仕草ぬきに、ことばはありえない。(x)
しかし、それだけではない。
ことばで語り出す世界の中身そのものが、身体を離れては根を失う。(y)
(x)で述べられていることは、物理的な「ことばの発語・筆記」のことです。実際に「ことば」は、身体的行為である「発言」や「記述」によって生成されるので、身体がなければことばが発生しないのは当たり前のことです。
続けて、「しかしそれだけではない」と筆者は述べます。仮に物理的な「発語・筆記」が行われていても、その内容と身体に結びつきがなければ、ことばは「単なる音」や「単なる模様」であって、意味を持たないと説明されています。つまり(y)で述べられていることは、「ことばの内容的なもの」についてなのです。
したがってここでは、主語を単純に「ことば」としてしまうのは不十分です。傍線部Dにおける「ことば」は、表面上の記号/物理的な音声や模様のことではなく、「ことばによってイメージされる中身(意味内容)」のことを意味していると読解するのが適当です。そのため記述解答の主語は、「ことば」とだけ表記するのではなく、「ことばによって語られる世界の中身(内容)は」とか、「ことばでイメージされる世界の意味内容は」といったように、「中身」「内容」に踏み込んで書く必要があります。
以上の考察から、次のようなまとめかたができます。
〈答案の核心〉
ことばによってイメージされる意味内容は、感覚を伴う身体を基盤にすることで意味をもつということ。
答案の〈核心〉はこれで完成です。
記述問題で上位点を狙いにいくのであれば、傍線部中の「すべて」「どこかで」といった表現も無視はできませんが、試験は時間との戦いですから、選択肢問題の場合、ある程度の方向性を検討したら、選択肢の比較に入りましょう。
つまり、音声や文字といった、物体や現象としての「ことば」も、ことばによって導かれる想像の世界も、いずれも、身体がなくては生成されないのです。傍線部内の「すべて」は、その話題をふまえての「すべて」であると読解するのが適当です。
そのことから、ここでの主語は、
音声や文字として生成されることばも、ことばによってイメージされる意味内容も、それらすべてが、
たとえば、目の前で雪が降っていて、それを「雪」と呼ぶようなときは、どこかで根ざしているどころか、まさにぴったりと根ざしていることになります。「どこかで」というからには、「よくよく見ると、かすかに根ざしていた」という現象として理解されるべきなのです。
選択肢の比較
選択肢①
先ほど作成した〈答案の核心〉に最も近い選択肢は〈①〉です。
「ことばの宇宙」は、身体から独立して成り立った独自の世界であるが、個々のことばが現実の身体をとおして初めて意味を持つ以上、身体から切り離されて存在することはできない。
「ことばの宇宙」は、「想像される世界」のことであり、その意味で「ことばが意味する中身」のことを示します。そのことから、選択肢①は全体的にみて、想定した答案に近いことがわかります。「ことばの宇宙」は比喩的な表現なので、厳密に言うと①は美しい正解とはいえませんが、他の選択肢にもすべて「ことばの宇宙」と書かれているので、ここは正否の判断材料には使用できません。「ことばの宇宙という比喩的表現をそのまま使用しているので×」と判断することはできないということです。
選択肢②
選択肢前半も選択肢後半も本文に書いてあることなので、落とすのは難しい選択肢です。
本文では、「身体を出入りする息」「身体の生み出す仕草」という話題は、傍線部3行前の「しかし、それだけではない」の前にあります。「息」や「仕草」の話題が出て、「しかしそれだけではない」という逆接の接続詞を経た展開で「生身で生きる世界を離れては、根を失う」という傍線部の論点が述べられるのです。
にもかからず〈選択肢②〉は、ひとつ手前の情報を中心視してしまい、それだけで解答を構成してしまっています。つまり、〈補足情報〉のみで解答が作られてしまい、〈核心〉のほうが存在しないことになっています。「問いに答えていない」という観点で×です。
選択肢③
「身体の世界を離れることで立ち上げられた~生き生きとした空想の世界に」が逆です。この段落の話題は、「身体を離れたことばは無意味だ」ということです。「身体を離れ」たことばが「生き生きと」することはできません。
また後半の「錯覚であり、実体をもつことができない」という言葉の使い方にも注目してみましょう。本文の後ろから数えて三行目に「そうした錯覚のうえで人はことばの宇宙を楽しみ、またそこに巻き込まれて苦悩する」という表現があります。この表現において「錯覚」という言葉は、私たち人間にとって必要なものとして述べられています。つまり筆者としては、「錯覚」は大切なものなのです。ところが選択肢では、「そんな世界は錯覚だ!」というような〈マイナス価値〉に転じています。この部分だけでは×にはできませんが、△をつけておきたいところです。
選択肢④
前半はよいのですが、後半はダメです。「はめこまれる形でしか意味を持ちえず」という言葉がありますが、ここがミスマッチです。「はめこむ」は「すっぽりおさまること」を意味するので、「どこかで根ざす」という傍線部の表現とは一致しません。たしかに〈6段落〉の最終文に、「いや、すでにことばの宇宙をそれなりに成り立たせている私たちにおいても、日常的に体験することばの多くは、周囲世界にはめこまれたかたちではじめて意味を得ているのであって、それだけで立つことは少ない」と述べられており、一見すると〈選択肢④〉と近い印象を受けます。しかし、丁寧に見比べてみると、
〈本文〉
ことばの多くは、周囲世界にはめこまれたかたちではじめて意味を得~それだけで立つことは少ない。
〈選択肢④〉
ことばそのものは、直接的な身体の世界にはめこまれる形でしか意味を持ちえず~
となっており、「はめこまれる対象」が異なります。「周辺世界」と「身体の世界」は明白に意味が違います。
また、本文では、「ことばの多くは」となっており、ことばのすべてが「はめこまれる」とは述べていません。したがって「はめこむ」という表現は、ここでの解答にふさわしくありません。
選択肢⑤
「ことばの宇宙も~直接に体験することがなければ成立しない」という表現が言い過ぎです。雪国を体験したことがなくても、その人なりに雪国をイメージすることができるのが「ことばの宇宙」です。ただそのイメージのためには「雪」という言葉が、頭の中だけではなく、身体感覚に何らかのかたちでつながっていなければならないということなのです。
私たちのほとんどは、「ハリケーン」を体験したことがありませんが、私たちなりに「ハリケーン」をイメージすることはできます。それは私たちが「台風」を体験したことがあるからです。私たちのほとんどは「南極の氷」を実際に見たことはありませんが、私たちなりに「南極の氷」をイメージすることができます。それは私たちが「氷」に触れたことがあるからです。あるいはまた、南極の映像を見たことがあるからです。私たちがことばによってなにかをイメージすることができるのは、私たちの身体が、かつて何かを経験したことがあるからなのです。それを傍線部では「どこかで根ざす」と述べているのです。
〈選択肢⑤〉では「直接体験することがなければ成立しない」と述べていますが、それでは「ことばの宇宙」は「イメージ」ではなく「記憶」になってしまいます。
また⑤は、「雪」という具体例をそのまま使っている唯一の選択肢であることにも着目しましょう。比喩を解読することを要求している問題で、具体例を使ってしまうのは、的外れです。もちろんいくつかの選択肢がそういう述べ方をしているのであれば×にはできませんが、ひとつの選択肢にだけ具体例が入っている場合などは、「もっとも説明的でない」という理由で、それが正解になる可能性はきわめて低くなります。
正解
以上により、正解は〈選択肢①〉になります。
補足
余談ですが、出題者が、「ことばの宇宙」という比喩をそのまま解答に書き込んだ理由は、「ことばの宇宙」そのものを説明する問題が〈問3〉だったからです。さらに、それについて具体例をからめて設問にしたのが〈問4〉だったからです。そのような状況で、この〈問5〉で「ことばの宇宙」を具体的に美しく説明してしまったら、〈問3〉〈問4〉が簡単になりすぎてしまいます。そのため、〈問5〉においては、「ことばの宇宙」を具体的に説明することは避け、あえて比喩表現のまま選択肢に書き込んだのです。もちろん記述問題であれば、このような書き方をしてはいけません。比喩を解答に書き込むことはありません。これは、選択肢だから許される書き方なのです。
問6
選択肢の正誤をそれぞれ判定していきましょう。
選択肢①
「ことばの宇宙」を説明しているのに、「生身の身体を離れた世界をイメージできる」という文意がありません。「生活世界と対話的にかかわりあい」ながら「〈ここのいま〉において世界を立ち上げる」という説明の仕方だと、「ことばの宇宙は生活とかかわる〈ここのいま〉の世界」ということになってしまいます。しかし、本文の説明では、「ことばの宇宙」は〈ここのいま〉を離れた「イメージの世界」なのですから、本文の文脈とは食い違います。
選択肢②
「想像力に限界がある」という話題はありません。本文の要旨とも逆になります。「作中人物と同化」も話題にありません。本文には「小説を読みふけるとき、読んでいる自分がその世界のなかに移り住んでいるかのように錯覚する」とありますが、このことがすなわち「作中人物と同化」することだと解釈するのはやや強引です。「自分」という登場人物を加えて小説を読む場合だってあるのですから(たとえばドラえもんやのび太の町に「自分」を想像的に付け加えて、一緒に遊んでみるかのように読む人もいるでしょう)。
また、問5の〈③〉と同様のことですが、「錯覚」という言葉の評価が本文と異なっています。これは価値の転倒です。本文では「錯覚」は決して否定的にはみなされていませんが、この選択肢では、「錯覚でしかない」というように、マイナスなものとして使用されています。この部分で×にまではできませんが、△をつけるポイントになります。
選択肢③
全体的にはよさそうですが、「主人公」がおかしいです。本文では「主人公」とは一言も言っていません。〈選択肢②〉にある「作中人物と同化」がおかしいことと同様です。
選択肢④
本文に一致しています。
選択肢⑤
「限界を克服するために」「活用しなければならない」が話題にありません(あるいは言いすぎです)。筆者は、「〈語‐文法〉的ことば観」を否定的にとらえてはいますが、本文中に、「〈語‐文法〉的ことば観の限界を克服するためにことばの宇宙を活用しよう」という因果関係はありません。
選択肢⑥
本文に一致しています。
正解
以上により、正解は〈選択肢④〉と〈選択肢⑥〉です。
まとめ
問5の補足的な内容ですが、「ことばが、身体を基盤にして成り立つ」というのが、具体的にはどういうことなのか考えてみましょう。
ここでは、ヘレン・ケラーを例に挙げてみます。ヘレン・ケラーが水道から流れる水に手をあてているときに、サリバン先生はヘレンの手のひらに指で「water」と書きました。ヘレンはそのときはじめて、「あ、これ、waterって言うんだ」という【気づき】に至ります。そしてそのことによって、「この手を流れている冷たいモノにwaterという【ことば】があるように、あれにも、あれにも、あれにも、ことばがあるんだ。サリバン先生が私の手に書き続けてきたものは、私が経験しているモノに対する【ことば】だったんだ」と理解するのです。
その経験をきっかけに、ヘレンは【人形】は【doll】、【卓】は【table】というようなことも次々に理解していきます。「手に流れる水」という身体的な感覚をとおして、「water」ということばは初めて意味を持ちました。そしてその経験を媒体にして、「あれ」にも「あれ」にも「ことば」があるんだという「世界の仕組み」を知ったのです。
さて、このような言語の獲得をしたヘレンにとっては、最初にイメージしやすかったのは、「山」や「谷」といったものではなく、「川」や「海」といったものだったのではないでしょうか。なぜならヘレンにとっては、「ことばの獲得」の原初の体験が、「water」の理解であったからです。「岩」や「土」の集合体である「山」「谷」よりも、「水」の集合体である「川」「海」へのイメージのほうが、身体をとおして獲得した「水」の延長線上にある概念として、意識しやすかったのではないでしょうか。もちろんこれは憶測にすぎませんが、本文の主旨にあてはめて考えると、そのようなことは十分起こりうることです。
「ことばの宇宙」とはそういうものです。たとえば、
海を見たことがなくても、自分なりにイメージができる。
しかし、その根底には水に対する身体的な経験がある。
というようなことが、私たちの言語体験には起こっているのです。
このようなことを指して、筆者は本文の最後に「ことばの両義性」と述べています。ここでいう「両義」とは、
〈意味①〉
ことばは、身体経験と何らかの接点をもつ点で、身体から離れることはできない。
〈意味②〉
ことばは、〈今ここ〉から離れた、まったく別の世界をイメージさせることはできる。
という、相反する二つの特徴をもつということです。