評論 小津安二郎の反映画

問1  

(ア)陶酔  ①搭乗 ②沸騰 ③答弁 ④哀悼 ⑤薫陶

(イ)暴虐  ①暴落 ②無謀 ③妨害 ④防戦 ⑤欠乏

(ウ)幻惑  ①減量 ②上弦 ③変幻 ④幽玄 ⑤厳正

(エ)欺く  ①虚偽 ②擬態 ③疑心 ④詐欺 ⑤義憤

(オ)腐心  ①不穏 ②赴任 ③扶養 ④腐敗 ⑤給付

正解

以上により、(ア)⑤ (イ)① (ウ)③ (エ)④ (オ)④ が正解です。

問2 

論点

傍線部の直前に「それとはまさしく相反して」とあります。

「それ」は、前段落にある「人間の眼の動き」を指しています。

また、傍線部の直後には、「こうした人間の眼の無用な動きを否定」とあります。「こうした」は、前を広くまとめる〈要約系の指示語〉なので、やはり前を押さえていることが重要です。

つまり、「カメラの機能」とは、「人間の眼の機能とは相反するもの」であり、「人間の眼の機能を否定するもの」なのです。

私たちが普段何かを「見る」ということは、「See(目に入る)」がほとんどです。それに比べれば、「Watch(意識して見る)」は時々しか行っていません。たとえば、バッターボックスから、投球されるボールを見るような「見る」は生活にはあまり存在しません。私たちは生活の大部分で、「見よう!」と意識しないで、いろいろなものを目に入れているのです。傍線部の前に書かれていたのはそういうことです。

しかし、「カメラのレンズ」は、そういう「無用な動き」を否定します。たしかに、私たちがカメラをかまえるときは、常識的に考えて「被写体」が不可欠です。そこになにもないのにパシャッとシャッターを切ることはありません。あるいは、自分が見ていない方向に向かってシャッター切ることもありません。

また、「被写体」をこれと決めてシャッターを切るときには、「それ以外の事物」は事実上無視されていることになります。きれいな花を撮ろうとレンズ越しにその花を見ているとき、フレームの外でアゲハ蝶が飛んでいても、私たちは気がつきません(気にしません)。

本文のここでいう「連続」とは、「時間的に連続していること」ではなく、「空間的に連続していること」を意味しています。絵画で考えてみると、たとえば「太陽」と「富士山」が描かれている絵であれば、絵の中の「太陽」と「富士山」は「(空間的に)連続」しています。人間の眼でその絵を見るとき、「富士山だけ」「太陽だけ」を限定的に見ることはできません。

ところが、「カメラ」でその絵を見るとどうでしょうか。「ビデオカメラ」でも「普通のカメラ」であっても、その絵の中から「太陽だけ」「富士山だけ」をフォーカスすることができます。それが〈傍線部A〉の直後にある「おびただしい剰余の眼がひとつの視線に注がれ、集中するように抑圧する」ということです。

本当は、「太陽」と「富士山」は連続しています。実際に接触していなくても、「空気」や「光」でつながっています。「花」と「蝶」もそうです。「花」の周りを飛んでいる「蝶」は、やはり「空気」や「匂い」などでつながっています。しかし、カメラのレンズで「蝶だけ」に焦点を当てると、その世界(カメラのレンズから覗いた世界)には「花」は存在しません。

つまり、カメラのレンズは、世界のそういう「つながり(連続性)」を断ち切ってしまう「見方」になってしまうのです。

たとえば、授業中に黒板を見ていると、意識しなくても「窓」とか「自分の手」とかが眼に入るでしょう。「窓」と「自分の手」と「黒板」は、世界の連続性の中にいます(空気や光でつながっています)。人間の眼で見ると、そういう「つながり」が「つながりのまま」眼に入ってきます。ところがカメラのレンズが「黒板」だけにフォーカスした場合、「窓」や「自分の手」は排除されてしまいます。

そういう意味で、カメラのレンズは「連続性」を排除してしまうのです。

以上の考察で、もしもこれが「〈傍線部A〉とあるが、それはどういうことか」という設問であれば、次のような答案が成立します。

〈記述想定答案〉
人間の生きた眼差しが、世界を連続する総体として無意識に見るのに対し、カメラのレンズは、特定された対象以外は排除し、無視するということ。

〈傍線部A〉の直前(しかも一文内)に「相反して」という表現があるのですから、「カメラのレンズ」と対比されている論点を記入すべきです。したがって、「人間の生きた眼差し」の性質に言及し、対比構文で「カメラのレンズ」の特質を述べるのが適当です。

しかし、本物の〈問2〉に関しては、「カメラのレンズの機能」に問いが焦点化されているので、上記の〈想定答案〉の後半部分に相応するものを選べばよいことになります。

選択肢の検討

選択肢①

「個別的にではなく連続的に」が〈逆〉です。「連続」という語句は、「相反して」の前にあり、「人間の眼」の特徴として述べられています。

傍線部の後には「カメラのレンズ」は、「限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び」とあるのですから、むしろ逆に「連続的にではなく個別的に」と言ったほうがあてはまるはずです。

〈選択肢①〉は、「映画のカメラレンズ」だけに特定して考えれば、正解に近いようにも感じられますが(映画は時間が流れているので、連続的と言えないこともないのですが)、「写真のカメラレンズ」に関して言えば決定的に間違いです。

「写真」と「映画」は、〈⑦段落〉からは分けて述べられていきますが、傍線部の段階では「同じもの(人間の眼ではないもの)」として扱われているからです。

選択肢②

「ありのままの姿を正確に」が〈逆〉です。

画面に切り取った以外の空間は排除し、無視するのですから(つまり周囲と断絶されていて、周囲との「連続性」は映し出されていないわけですから)、ありのままでもなければ、正確でもないと考えたほうが妥当です。

選択肢③

「現実の世界を否定」が〈言い過ぎ〉です。

被写体を固定化し、それ以外の空間を無視してはいますがが、それが「世界を否定」している行為とまでは受け取れません。

選択肢④

先程作成した〈記述想定答案〉の後半と一致します。

選択肢⑤

「人間の眼と同等」が〈逆〉です。「相反して」「否定する」とあるのですから、「同等」ではありません。

正解

以上により、〈選択肢④〉が正解です。

問3 

論点

文章が進むにつれて、対比されているものが変化していくやっかいな文章ですが、がんばって読んでいきましょう。

〈問2〉の段階では、「人間の眼 v.s. 写真・映画のカメラ」という対比でありましたが、ここでは、「映画 v.s. 写真・絵画」の対比構造になっています。

「写真」と「映画」は〈問2〉の段階では仲間だったのに、〈問3〉の段階では敵になっているのです。

傍線部周辺を拾ってみましょう。

「映画の映像と写真」は、「複製の表現」であり、
「現実をイメージによって捉え、抽象化」する「絵画」とは異なる
と思われがちだが、
それを見るという行為の側に立つならば、
写真と絵画はまったく同質のもの
「写真・絵」「同じ」「おびただしい剰余の眼差しに支えられて」「われわれは見ている」

だが「映画」は「そうした」「眼差しの無用さ、無償性」を許さない。

特定の視点を強要し、(さらに見入っている時間にまできびしく制限)

私たちが「写真」や「絵」を「見る」というときに、特定の視点を強要されるかと言えば、そのようなことはありあせん。大切にアルバムに入れてある写真を見ても、駅のポスターがちらっと目に入っても、美術館でまじまじと油絵を見ても、そのとき私たちは、その写真や絵「だけ」を限定的に見ているわけではありません。味わいのある壁紙や、隣に掲げられている看板や、ふるびた額縁などを、同時に目に入れているのです。またあるいは、「絵」や「写真」の中に視線を泳がせ、右上のほうを見たり、中央を見たり、という見方をしているわけです。

ところが「映画」はそうはいきません。館内が明るいまま上映する映画館がないように、「映画」は周囲の情景をできるだけシャットアウトする特性を持っています。仮に部屋が明るいままビデオを流しても、「映画」を集中して見るならば、「周囲の情景」をできるだけ排除しなければなりません。写真や絵画とは異なり、時間が流れて行ってしまう映画は、画面のみに集中しなければ、ストーリーについていけなくなってしまうのです。

さて、〈問3〉は、「写真と絵画」が共通に持っている特性であり、しかもそれが映画にはない特性が選択肢になければならない。映画との対比で考えると、正解には、「特定の視点が強要されない」ことが書かれているはずである。字数が長ければ、さらに、「時間に制限がない」ことについても触れられているかもしれない。正解の〈選択肢③〉は「特定の視点が強要されない」ということについてつくられた選択肢であった。特に「時間」についての話はないが、「時間」の話題は、あくまでも〈補充〉に該当する論点であるので、なくても問題はない。
以上のことから、次のような〈解答の核心〉が得られる。

写真も絵画も、それを見るという行為においては、特定の視点に強要されず、剰余のまなざしに支えられているということ。

ただし、「剰余のまなざし」という表現が、やや抽象的であり、そのまま書いていいかどうか、迷いが生じる表現である。もしも、これを具体的にかみくだいた表現が本文に存在しなければ、そのまま書けばよい。存在すれば、より具体的なほうを採用したほうがよい。その観点で「よりよい表現」を捜索するのであれば、〈傍線部B〉の直後に、「一枚の写真もまた絵のタブローと同じように」と書かれていることが大きなヒントになる。「タブロー」の話題は、既に読みおわった〈③段落〉にあった。そこには、

タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつもどりつしながら反復を繰り返しているのである。

と書かれていた。これは、「剰余のまなざし」を具体的に説明している部分だと言える。したがって、記述であれば、「剰余のまなざし」の「具体的ふみこみ」として、「表面に視線を滑らせ、反復を繰り返す」という表現を採用できるとよい。採点が細かい大学であれば、「剰余のまなざし」と書いてあれば〈1点〉、「表面に視線を滑らせ、反復を繰り返す」と書いてあれば〈2点〉といった部分点が入るであろう。文脈に即して具体的に記し、筆者の言わんとしている事態がクリアになっているほうが得点が高い。「具体例」まで書いてしまうわけにはいかないが、具体例にぎりぎりまで接近している具体的表現が、解答では最も必要となる表現なのである。
 以上のことから、次のような答案が成立する。

〈記述想定答案〉
写真と絵画は、それを見るという行為においては、表面に視線を滑らせ、反復を繰り返すのであり、(映画のように)特定の視点に強要されない点で、同質であるということ。77

★ 「見るという行為に立つならば」という条件がついているのであるから、「見る」という話題は必須。
★ 周辺領域で「写真・絵画」と「映画」が比べられているのであるから、直後の段落の「だが映画は~」からも情報収集できるとよい。映画のほうの特質を〈反転解釈〉すれば、写真・絵画の特質として成立しうる。
★ 正解の〈選択肢③〉は「写真の~A~である点が、絵画の~B~である点と同じ」というような書き方をしているが、傍線部では「まったく同質」と述べられている。「似ている」ではなく「まったく同質」なのである。そうであれば、上記の「~A~」と「~B~」の部分は、結局同じことを述べることになってしまう。したがって、記述では、シンプルに「写真と絵画は~」とまとめて主語にしてしまえばよい。「同質」という表現も十分一般的なので、そのまま使用すればよい。この設問で重要なことは、「写真と絵画は~x~の点で同質であるということ」という構文の「x」において、きちんと具体的説明をすることである。
★ 「映画のように」は、字数が苦しければなくてもよい。

 ⇒ 最も近い選択肢は〈選択肢③〉であり、これが正解。

〈不正解の判断基準〉

① 選択肢後半の「複製」が決定的におかしい。〈⑦段落〉前半では、「映画の映像を写真はともに複製で、現実をイメージで捉えて抽象化する絵画とは異なる~」と書かれているように、「複製」は、「絵画」のほうには該当しない語句である。たとえば「天国」をイメージして描かれた宗教画は、決して「現実を複製」したわけではない。ピカソの抽象画も、「複製」とは言えないだろう。
  また、「動く映像としての映画のあり方と対比させれば明らかであるが」という表現が、説明としては未熟である。「映画のあり方」という言葉があるが、では「映画のあり方」とはどんなものなのか、ということについて「動く」以外の何の説明もない。長い字数を割いているわりに、〈選択肢①〉の前半に、有意味な説明はほとんどないのである。

② 「世界の一部が切り取られて画面に再現」が、〈選択肢①〉と同じ理由でおかしい。抽象画などは、「世界が再現」されているとは言いがたい。
また、傍線部直前には「見るという行為の側に立つならば」という表現があるにもかかわらず、〈選択肢②〉は、「見るという論点での写真・絵画の話題」になっていない。
④ 「奥行きのない平面における表現」が×。奥行きのある絵画や写真は数限りなくあるだろうし、もし「キャンバス」や「印刷面」を「平面」と表現しているのであれば、「映画」における「画面」も同じように「平面」である。

⑤ 「現実をなんらかの媒介物に転写」が、〈選択肢①②〉と同じ理由でおかしい。イメージを描いた「絵画」は「現実の転写」ではない。「現実の複製」でもないし、「現実の再現」でもない。

正解

以上により、〈選択肢③〉が正解です。

問4 

「写真や絵画」になくて「映画」が持っている特長として顕著なものは「時間」である。映画は誰が見ても、開始から終了まで「同じ時間」なので、「写真や絵画」のように「その人のペース」で鑑賞することができない。〈問3〉の正解に「時間」に対する言及がなかった理由がこれでわかった。〈問3〉と〈問4〉を別の問題として成立させるためには、「時間」の話題を〈問3〉で言ってしまうわけにはいかなかったのである。
さて、設問をよく見ると、「どのような結果が生じたか」というのが、問題の主旨であることがわかる。傍線部の前は、「映画は速度に依存している」という抽象的な説明だけであり、「そのことによってどうなったのか」という話題はなかった。したがって、傍線部の後ろを見る。
まず、「二時間たらずで人間の一生を描くことができた」「神話から宇宙の物語まで語りえた」という、どちらかといえば〈プラス○+〉の表現があるが、「しかしながら」でひっくり返るので、この後には〈マイナス○-〉の表現がくるはずである。見てみると、「速度にとらわれて、その奴隷と化する」「一方通行的」「流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない」「危険」「見ることの死」と、〈マイナス○-〉のオンパレードである。「しかし」「だが」などで文意が反転するときは、その前と後ろのどちらが大切かというと、それは後ろである。したがってここでは、「〈プラス○+〉【しかし】〈マイナス○-〉」という文脈になっていることから、正解に必要なのは、〈マイナス○-〉のほうである。
以上のことから、次のような答案が成立する。

〈記述想定答案〉
映画が一方通行的な早い速度で流れることで、観客はそれに圧倒され、視点が不自由になり、内面で思考できず、ひとつの意味しか見出せなくなったということ。73

★ 「奴隷」「見ることの死」を一般的な表現に換言できるかというのが最大のポイント。絵画や写真の場合は「(視点が)自由」と表現されているので、「奴隷」の比喩は、「自由」を〈反転解釈〉し、「不自由」と表現することができる。「見ることの死」は、その直前の「ひとつの意味しか見出せない」が意味上呼応する。
★ 制限字数が長めであれば、「〈映画〉が~であることによって、〈観客〉は、~になった。」というように、「意味上の主語」が、「映画」と「観客(見る側)」の二つ記入されているとよい。
★ 設問は「結果的にどうなったか」ということである。結果的には、「観客」が、「速度の奴隷」と化し、「観客」に「見ることの死」がやってきたのであるから、メインの主語は「観客」であり、「映画がどうのこうの」というのは、前提的なおまけである。したがって、字数が短めであれば、主語を「観客」のみにしてもOK。
⇒ 最も近い選択肢は、〈選択肢③〉である。〈選択肢③〉は、〈プラス○+〉→「逆接の【が】」→〈マイナス○-〉という構造になっており、本文の流れとほぼ同一になっている。〈マイナス○-〉のみで作成した〈記述想定答案〉とは、やや構成が異なるが、強調されるのは「が」の後件なので、〈マイナス○-〉を〈核心〉として作られていることになる。いずれにせよ、後述する〈不正解の判断基準〉によって、他の選択肢がすべて外れるので、結果的にみて〈選択肢③〉を正解とする。
〈不正解の判断基準〉

① 「映像の迫真性によって」が〈因果関係不成立〉である。国家権力やコマーシャリズムに利用された理由は「迫真性」ではなく「時間」である。もう少し詳しく言えば「限定された時間による一方通行性」である。ところが、「映像の迫真性」という語句には「時間」という要素がまったく入っていない。

② 「錯覚によるまやかし」がここでの話題にない。この後の段落での話題では、「小津安二郎」にとって「超スピード」は「まやかし」と述べられているが、この情報は、「それにしても」で話題が発展した後のものであるし、一般的・客観的にもたらされた事実ではなく、あくまでも「小津さんがそう思っていた」という情報であるので、この設問での正解にはならない。〈問いに答えていない〉とも言える。
また、「神話などの虚構」が〈言いすぎ〉である。これはセンター試験が正解にする可能性が非常に低い〈危険選択肢〉の典型的な例である。センター試験は、教育の一環でもあるので、常識的に見ておかしい選択肢(例/太陽は西から昇る)や、夢も希望もない選択肢(例/みんないなくなればいい)や、特定の団体などに不利益が生じるような選択肢(例/○○市には変人しかいない)などは正解にならない。本文で「神話」と書いてあった部分をよく読むと、「神による天地創造の神話」とある。ということは、この「神話」というのは「聖書」を指していることになる。つまり、〈選択肢②〉は、聖書を「虚構」と言ってしまっているのである。これが正解になってしまうと、全国のキリスト教会を敵にまわすことになる。実際にはこのような選択肢は稀だが、「オマケ知識」として頭の片隅に置いておこう。

④ 「反復とずれによって表現する」が、〈逆〉である。この言葉は、次の段落における「小津安二郎の映画の作り方」という話題で登場する。そこを読んでみると、「反復とずれによって移ろいゆくのが小津さんが感じる時間」とある。その段落の冒頭で筆者は、小津安二郎について「映画の特権、魅力をことごとく否定する反映画の人」と評しているので、「反復とずれ」という言葉は「反映画」的な言葉だと判断できる。つまり「反復とずれ」は、傍線部の「速度を産み出す時間」とは反意的になる言葉なので、〈問4〉の説明としては「逆」になる。

⑤ 「静止した画像とゆっくりと対話することが困難になった」が〈逆〉である。〈「しかしながら~奴隷と化する」の直後には、「静止して動くことのない絵画や写真の場合は~内面でゆっくりと対話することもできるだろう」とある。つまり、この段落での〈マイナスの論点〉は「映画を見ること」に限定されており、写真や絵画を見ることにまで及ぶものではない。〈選択肢⑤〉はくだけた言い方をすれば、「映画の速い速度に慣れちゃうと、人は写真や絵を見るときも落ち着かなくなっちゃうんだよね」ということになってしまう。

正解

以上により、〈選択肢③〉が正解です。

問5

先の〈問4〉では、映画の特性として「時間」が話題にあがった。映画は、一方通行的に時間を流し、それによって見る側は奴隷と化し、本来多様な解釈があるはずの「作品」にひとつの意味しか見出せなくなってしまい、それは「見ることの死」である、と説明されている。次に小津安二郎はそれを否定する、反映画の人であった、と続く(出典名も『小津安二郎の反映画』である)。
文脈上、小津安二郎は、「一方通行的な早い時間の流れ」「見るものの奴隷化」「見ることの死」というものを否定し、それに反した人だった、と読むことができる。しかしながら小津安二郎自身は映画監督である。「反映画の映画監督」というのは、一見矛盾する存在である。しかし、それは次の段落で、「映画表現のありようにまさしく反抗しながら、それにもかかわらず映画を愛するという矛盾をみごとに生きぬいた人」と表現されている。すなわち、アンチノミー・アンビヴァレンス・パラドックスの関係である。「ありように反抗する」ことと「愛する」ことは、パッと見ると矛盾しているように感じる、よく考えると両立可能な二つのものである。
たとえば、読売ジャイアンツの文句ばっかり言っている人がよくいる。そういう人に、「どの球団が好きなんですか?」と聞くと、「うん。ジャイアンツ」ということがよくある。「え? だって、あなた、ジャイアンツの文句ばっかり言ってるじゃないの?」と言うと、「バーロー。好きだからだよ。好きだから、いやな球団になってほしくねーんだ。ばっきゃろめ。てやんでい」などという屈折した愛情を表現されることがある。そのように、「ありかたに反抗すること」と「愛すること」は、一見矛盾するように思われるが、同時に存在することができる。
同じように、小津安二郎は、「時間を早回しで詰め込んでいく」という映画独特の表現方法に対して、「あれじゃあ押し付けだよ。誰が見たって同じ映画になっちゃうよ」ときびしく反抗するとともに、じゃあ映画が嫌いなのかというと、そうではなくて、「もっと見る人によっていろいろな意味になる映画をつくりたいよ。時間を強制しないような映画がいいよ。作り手から意味を押し付けるような映画じゃなくて、見ている人に意味を見出してもらうような映画がいいよ」と、大きな情熱と愛情を持ち合わせていたわけである。
傍線部にある「『見せる』ことよりも『見られる』映像」という表現は、映画から意味を押し付けるのではなく、(たとえば絵画や写真のように)見る側が映画に意味をこめられるような状態を意味している。具体例の段落初盤にある「あえて意味が曖昧なままに浮遊する映像」というのは、「意味を押し付けたくない」という小津の気持ちをそのまま表現している箇所である。具体例の段落終盤の「映画の筋立てとはかかわりなく、われわれの無用の眼差しによってそれは見られてしまう」というのは、「ストーリーに関係のないところにまで、見る人によってさまざまな意味を見出してしまう」と解釈できる。
基本的には「具体例」の前後にある「説明表現(抽象的な筆者の主張)」が大切になるのだが、書き手によっては、具体例と抽象表現が混ざっているケースも多く、その場合、「こっちが具体例/こっちが抽象表現」とくっきり分けることができない。したがって、具体例はただ読み飛ばすのではなく、その具体例の前後の「説明表現」、場合によっては具体例に混在している「説明表現」とのかかわりを意識することが大切である。その時、あくまで具体例はその「説明表現」をわかりやすくする「手助け」であり、具体例そのものが大切なわけではないのだが、「読まなくていい」というわけではない。
 以上のことから、次のような答案が成立する。

〈記述想定答案〉
小津は、ひとつの意味を一方通行的に観客に伝えるのではなく、観客主体の自由な観点によって、多様な意味に解釈されうる実験的な映像を撮ろうとしたということ。75

★ 傍線部をバラバラに区切り、それぞれの換言を見つけ、再構築するというスタンダードな方針がそのまま使える設問。以下の仕分けのように、大きく見れば4つ、細かく分ければ8つのブロックにできるので、採点が面倒ではあるが、採点基準は作りやすい問題である。

① a.主語        → 「小津」
② b.「見せる」     → ひとつの意味を一方的に押し付ける
c.よりも       → 対比構文 そのままでOK  「ではなく」「一方」なども可。
③ d.われわれの     → 観客の (一般化・客観化)
e.無用・無償の眼差し → 自由な視点 (別表現複数あり)
f.によって      → 因果構文 そのままでOK
④ g.見られる      → (観客側の主観で)意味を解釈してもらう
h.映像を試みる    → 「実験的な映像を撮ろうとした」など。

 ⇒ 最も近い選択肢は〈選択肢②〉であり、これが正解。

〈不正解の判断基準〉

① 「ゆるやかなテンポを持たせた編集」「によって」「観客が余裕」という因果関係は本文にない。「意味を押し付けない」ための手法を「テンポをゆっくりにする」ことだけで受け取ってしまうのはNGである。小津は「ただ時間をゆっくり流せばいい」と思っていたのではなく、見る側にそれぞれの意味を見出してもらうため、具体例にあるような様々な趣向を凝らしていたのである。

③ 「多彩な角度からの映像」が〈因果関係不成立〉です。「右から、次は左から」というふうに角度を変えれば、観客にとって様々な意味が出る、と考えるのは浅はかである。〈選択肢①〉は「時間をゆっくりにすればいい」、〈選択肢③〉は「角度をいろいろ変えればいい」としか言っていない選択肢で、小津が試みた多様な表現の仕方を語りきれていない。いずれにせよ、〈選択肢①③〉は、具体例の中に対応関係を見出すことができない。

④ 「さまざまな意味合いを含んだ」が〈逆〉である。「さまざま」であっても、作り手側が意味合いを含んでしまっては、結局は「一方通行的な意味の押し付け」になってしまう。「あえて意味が曖昧なままに浮遊する」という箇所に矛盾すると判断してよい。

⑤ 「画面に映し出されていない場所やその舞台裏」がまったく話題にない。

正解

以上により、〈選択肢②〉が正解です。


問6

本文全体に関わるものなので、消去法で除外していこう。

① 「自由な筋立て」が〈話題なし〉である。「筋立てとはかかわりないところにまで、観客が意味を見出してしまう映画」なのであり、「筋立てそのもの」が「自由」なわけではありません。
「戯れや諧謔に満ちた筋立て」も〈話題なし〉である。

② 「現実の時間の流れに従うように」が〈話題なし〉である。「早い時間の流れを押し付ける」ことには否定的であったが、「現実の時間の流れ」そのものに合わせたとは書いていない。何より、小津の映画がすべて、「二時間の映画なら二時間分の現実」を描いていたとは常識的に考えにくい。〈現実に合わない〉ことからも、不適である。

③ 「筋立てが複数化」が〈話題なし〉である。これは〈問5〉の〈選択肢④〉とほとんど同じ理由で外せる。小津の映画は、「複数の意味」があらかじめ設定されているわけではなく、「筋立てとかかわりないところにまで観客のほうから意味を見出せるように」つくられているのである。「複数」であってもそれは結局「意味の押し付け」になってしまうのであって、本文中の「意味が曖昧なままに浮遊する」に矛盾する。

⑤ 「そのような特質を徹底」が〈逆〉である。小津は「反映画の人」なわけであるから、映画がもともと持っていた特質(速い時間の強制による意味の押し付け)を「徹底」してしまっては、本文の文脈と逆方向になってしまう。

正解

以上により、〈選択肢④〉が正解です。