小説 肉親再会

問1 

センター試験小説の語句問題は、辞書的な意味をベースに、文脈に合うものが正解になる。辞書にその意味があっても文脈に即していなければアウトになるため、辞書的な意味と、文脈とを、きちんと両方チェックしよう。古文の単語問題もその傾向があるのだが、古文ではさらに「語義主義」の傾向があり、マニュアル化された「現代語訳」を知っていても歯が立たないことがある。「語義」に即して、かつ、文脈に合わせないと正解が出せないことがあるのだ。
さて、2005年のこの問題は文脈傾向が強く、(ア)(ウ)は傍線部だけでは答えが出せない。検討しよう。

(ア)正解は④

「光を発するものを創りたい」と思いながらも、「家庭を持つと、生活のために」「光への執着」を「失ってしまった」とある。「その代償として」「余裕ある金」を得ることができたのであるから、「私」は「生活や金」のために、「光を創りたい」という気持ちを失っていってしまったのである。

① 「作業に嫌気がさした」が〈話題なし〉で×。

② 「芸術家を気取りたい」が〈逆〉で×。「私」がとったのは「生活や金」のほうである。

③ 「言葉巧みな勧誘」が〈話題なし〉で×。「私」が聞き取ったのは、自分自身の「楽な方向にいきたがる声」であって、それが表現として「巧み」であったのかどうかはわからない。「気楽な仕事」も△。本文には「生活のために」とあり、「仕事」に関する表現は周辺にない。

⑤ 「その時々」がミスマッチ。傍線部直前には「あの時」とあるので、「安易な声を聞いた」のは過去のある一点を指している。「その時々」と表現してしまうと、「安易な声」を何回も聞いたことになるので、文脈に沿わない。「自分を力づけた」も〈話題なし〉で×である。

(イ)正解は②

「たむろする」は「屯する」と書き、「群れて集まる」ことを意味する(たとえば「駐屯地」という言葉は、隊が集まる場所を意味する)。今でも「コンビニにたむろする」などと使用する。これは言葉の意味を知っていれば素直に〈選択肢②〉を選ぶことができる。①「気分に浸っている」、③「うろついている」、④「言い合っている」、⑤「すわり込んでいる」が、どれも「たむろする」の意味と一致しない。
ただ、「本番ではその言葉の意味を知らない」ということも起こりうる。そういう時は、文脈を追って、できるだけ選択肢をしぼっていく努力をしよう。
ここでは、直後に「無数のこういう連中」とある。「こういう」は前後に影響力のある指示語である(前を幅広く指示し、後ろで発展する)。指示しているものは「自分を芸術家だと信じ込んでいる【連中】」であり、発展内容は「軽蔑し、屑だと考えている」ということである。「こういう/そういう/こういった/そういった/こんな/そんな/このような/そのような」などが設問にからんだら(傍線部の周辺にあったら)、「指示内容」と「発展内容」を両方チェックしておけるとよい。常に前後の両方が解答にからんでくるとは限らないが、そうなる傾向が大きい。ただ、ここでは問題の性質上「言葉の意味」がベースなので、指示内容がおさえられていればセーフである。
さて、「私」が「自分を芸術家だと信じこんでいる連中」を「軽蔑し、屑だと考えている」の後ろを追っていくと、「もちろんその中には真剣なやつもいる」とある。しかし、「真剣だからといってこの残酷な世界(芸術の世界)だけはどうにもなるものではない」「光のつらぬくものを創れはしない」「連中は巴里では敗残者となる」とある。このように、「こういう」をきっかけに前と後ろを見ておけば、答えに近づいていくことはできそうだ。

〈選択肢①〉は、「芸術家になった気分に浸っている」であるが、「こうした」が指しているのは「芸術家だと信じこんでいる」である。「俺は芸術家なんだぞ」と本気で信じていることと、「気分に浸っていること」は、よく考えるとミスマッチである。たとえば私たちはバッティングセンターで気持ちよくかっ飛ばすと、プロ野球選手の「気分に浸ること」はできるが、「自分をプロ野球選手だと信じること」はできない。つまり「気分に浸ること」は、「自分がそのものではないことがわかっていながら、その架空の状態を演じる」というようなニュアンスになるのだが、「信じること」は、「本気でそのものであると思い込んでいる」という意味になる。「たむろしている連中」は自分たちを芸術家だと「信じている」わけであるから、「俺は芸術家じゃないけど、芸術家っぽい気分を味わおう」という意味での「気分に浸る」とは別物の感情である。

〈選択肢③〉は、「チャンスを求めて」とあるが、「私」は、「連中は光のつらぬくものを創れはしない」と、「能力そのもの」を軽蔑している。「私」に言わせれば、「チャンス」が訪れたとしても「連中」には「光のつらぬくもの」は創れないのである。ということは「連中」の中には何回も「チャンス」を得ている人が混じっていてもおかしくない(つまり「チャンス」には別に飢えていないかもしれない)。したがって、「チャンス」のあるなしは「私」が「連中」を軽蔑する原因には直接関係がない。

〈選択肢④〉は、「身勝手な芸術論」がミスマッチである。後ろに「連中の中には真剣なやつもいる」とあり、その「真剣」と「身勝手」はどちらかというと遠い言葉である。「私」が「連中」を軽蔑するのは、「自分を芸術家だと思っているくせに光のつらぬくものを創ることができないから」である。それは「能力」の問題であって、「身勝手」という「態度」が問題になっているわけではない。

〈選択肢⑤〉も〈選択肢④〉と同様に、「雑談にふけってすわり込む」という態度が、「真剣」とはミスマッチである。

正解の〈選択肢②〉を見てみると、「夢を求めて」とある。「私」が「連中」を軽蔑する理由は、「光を創る能力がないから」であった。〈選択肢②〉を正解として代入してみると「私」は「能力がない者が芸術的な夢を求めてもどうせ光のつらぬくものは創れないんだ(そんなのは芸術じゃない)」と「軽蔑している」という文脈になり、これだと、前後との矛盾が生じない。
選択肢は、見比べて、絞り込んでいけば、どこかに光明が見えてくる。言葉の意味を知らないとあきらめてしまうのではなく、文脈からヒントを拾っていくくせをつけよう。

(ウ)正解は⑤

「償う」は「(それに見合う何かで)うめあわせる」という意味である。「罪を償う」だったら、「罪」というマイナスを、善行を積むなど何かしらのプラスでうめあわせる、ということになる。「ピッチャーが無理をした代償はあまりにも大く、ひじの炎症はひどくなった」だったら、「無理をした」ということに見合う「怪我(ひじの炎症)」が発生したことを意味する。さて、傍線部は「償われなくたって」と受身形になっているので、「(それに見合う何かで)うめあわせをされなくても」という意味になります。選択肢にはすべて「見合う~が得られなくても」という構造になっているので、辞書的な意味はどれもクリアしていると見てよさそうだ。するとこれは文脈問題になる。
傍線部の前後を見ると、「生きることって結果ではないじゃないの」「自分がいいならそれで結構じゃないの」とある。「妹」は芸術に打ち込んでいるわけであるから、打ち込んだ「懸命さ」とか「誠実さ」とかに対して、「それに見合う分」の「結果」(後ろの言葉を使えば「立派なものを生むこと」)が出なくてもいい、と言っているわけである。「連中」のように「沈んでいく」のだとしても、「自分がいいなら」かまわないと主張しているのだ。「妹」はやりとりの終盤で、「ポーちゃんはなにか報われなければ嫌だったんでしょう」と言っている。ここの「報われ」は、「償われ」とほとんど同じ意味である。つまり「私」は、「立派な芸術家になれないなら努力自体が惨めだ」と忠告していて、「妹」は「立派になれなくても、その過程そのものに意味があるから、結果が出なくても満足」と反論し、志半ばで日本に帰って芸術の道を捨てた「私」の行動に対して少々皮肉めいた物言いをしているわけである。

① 「満足感」がおかしい。傍線部直後の「自分がいいなら」という言葉は、「自分が満足ならば」という意味にとるのが自然である。

② 「支出」「収入」が〈話題なし〉である。ここではお金の話をしているわけではない。

③ 「犠牲」がミスマッチ。ここで「妹」が放出するのは芸術に対する「懸命さ」や「誠実さ」であって、それを「犠牲」ととることはできない。また、傍線部直前の「結果」は「立派なものを生むこと」と解釈するのが妥当で、「人から感謝されること」ととれる文脈はない。

④ 「答え」が文脈に即さない。「答え」という言葉自体がぼやけていて(どういうふうにも受け取れてしまって)、説明的であるとは言えない。仮にこれを「自分なりの生き方の正解」ととるのだとすれば、「妹」は「自分がいいなら結構」という、ある意味ではひとつの「答え」を手にしているとも言える。

⑤ 「苦労」は、直後の「懸命」「誠実」の言い換えとして成り立ち、「成果」も「立派なものを生む」の言い換えとして妥当である。辞書的な意味も、文脈も整合するこれが正解である。

問2 正解は④

「誰が作ったのかわからない木彫の基督の死顔」を「私が喪った」とあるが、「木彫の基督の死顔」は、中世美術館の館内にある「ふるい聖人像」の一つなのだから、実際に私の持ち物だったわけではない。美術館の保有する作品を、「あれはオレのだったんだぜマジで。マジだぜ」と言う人がいたら、単なる変人であろう。
ということは、「喪った」というのは、「木彫の聖人像」そのものではなく、木彫の聖人像に置き換えられた「何か」である。このはたらきは「象徴」である。「象徴」とは、知覚しえないものを知覚できるものに置き換えた場合の、【置き換えられたもの】のことである。たとえば、「ハトは平和の象徴である」という場合、「知覚できないもの」が「平和」で、「置き換えられた知覚できるもの」が「ハト」である。「ダイヤの指輪は愛の象徴ですよ」とジュエリーデザイナーがいう場合、「知覚しえないもの」が「愛」で、「置き換えられた知覚できるもの」が「ダイヤの指輪」である。したがって多くの場合、「校章」や「社章」は、その学校や会社の「理念」を象徴している。たとえば、キリスト教の学校が「信仰の盾をとれ(自分の信念を守りぬけ)」という「理念」をあらわすために「盾」の校章をデザインしたり、言論の力を信じる学校が、「言論は暴力よりも強い」という「理念」をあらわすために「ペン」の校章をデザインしたりすることは「象徴」の好例である。
さて、次段落の最初の文を見ると、

この木彫のように眼を射る光の発するものを自分も創りたいと思った。

とある。傍線部中にある「木彫」を「この」という指示語で指し示しているので、絶対に見逃せない一文である。続いて、「だが」でひっくり返り、

日本に戻り家庭を持つと、生活のためにこの光への執着を少しずつ失ってしまったような気がする。

とある。漢字こそ違うが、傍線部中の「喪った」の同表現である「失ってしまった」がある。つなげて考えると、「光の発するものを創りたいという気持ちを失っていった」ということになり、傍線部の「木彫の基督の死顔」は、「光の発するものを創りたいという気持ち」を象徴していると読むことができる。正解の〈選択肢④〉は、後半にズバリ「創造を希求する心」があり、前半の「魂を激しく揺さぶる」も、「光の発する」を言い換えた表現として妥当である。

〈不正解の判断材料〉

① 「人々の困窮を救おうとする心」が〈話題なし〉である。

② 「古典的な作品を否定」が〈逆〉である。「私」は「十二、三世紀」に作られた聖人像の「ような」ものを創りたかったのである。

③ 「光」は「創りたかったもの」であり、「私にひそんでいるという信念」があったとは書かれていない。また、「光」という比喩的な表現をそのまま使用しているため△。説明とは言えなく、問いに答えているとはみなせない。比喩や具体例が混在している選択肢は、他の選択肢がもっとダメであれば、正解になることもあるが、説明表現としては基本的に未熟である。

⑤ 「社会的栄誉を手に入れようとする心」が〈話題なし〉である。また〈選択楚③〉と同様、「光」をそのまま使用している点は△である。

問3 正解は①

「セリフ」は言語的な「行為」であり、問題になる以上、必ず前提に「心情」がある。そして「心情」の前提には「きっかけ」がある。小説ではその三者の関係に常に気を配ろう。

「きっかけ(理由・前提)」→「心情」→「行為(セリフ)」

ただし、上記の「3つ」は、この順番に書かれるとは限らない。また、常に3つとも書かれるとは限らない。たとえば、本文中では「原因」と「行為」しか書かれていなく、そのあいだに入るべき「心情」を選択肢の中から探す、という設問も実際には少なくない。その場合は「つなげておかしくないもの」として妥当性の高い選択肢が正解になる。そういう問題は、「本文に書かれていないものはすべて×」という考え方に寄りすぎると、「選択肢に正解がない」と感じてしまうことになる。選択肢は、本文に書かれている言葉を「言い換え」たり、妥当性の高い水準であれば心情を「書き足し」たりすることがあるので、注意しよう。「ここまでの解釈はOK!」「この解釈はやりすぎ!」という「ルール」は、年度を超えてしまうと規則性が甘くなる。したがって、10年を通じて、センターの正解は絶対こうなる!」という普遍的なルールは存在しないと考えてよい。正解はあくまでも、同じ場所にある5つの選択肢のなかで最もよいものなのである。
さて、この問題では「こんなもの」という指示語が指しているのは、「妹の部屋の様子」である。「妹の部屋」は「暗く」「寒く」「小さかった」のであり、「巴里でもっとも貧しい人々が住む屋根裏にちがいなかった」のである。「私」が「セリフ」を発話する「きっかけ」となったのは、「部屋の様子を見たこと」だと考えられる。
では、「要するに……こんなものだったんだな」というセリフにつながるための「心情」はどんなものなのでろうか。本文になければ選択肢を参考に類推しなければならないが、ここでは、「窓硝子の罅に千代紙を貼っているのが【あわれ】」だという心情表現がある。この「あわれ」という心情は、部屋の様子をとおして、妹の生活全般に向けられているものと推量してさしつかえない。正解の〈選択肢①〉は、「(貧しい)部屋の窓硝子の罅に千代紙が貼っているのが【あわれ】だった」という記述を「貧しい生活をしている彼女(妹)を痛ましく思う」と言い換えている。
「屋根裏部屋」は「貧しい生活」の比喩と考えて妥当であり、また、「あわれ」と「痛ましい」は、この場合の言い換えとしてセーフの範囲である。
〈選択肢①〉の前半は、「ズバリ正解」だとは言いにくいのだが、〈傍線部ア〉の3行後に、
妹の部屋を尋ねてみようかという気がふと胸のなかに起こった~彼女は私が彼女の下宿を尋ねるのをなぜか避けているような気がした。

とある。中心的な疑念は「男がいるのではないか」ということであるが、いずれにせよ「私」は、「妹は自分に隠していることがある」と思っている。
妹からの手紙には、住んでいる家の家族が親身も及ばぬほど親切であることや、革命広場(コンコルド広場のことですね)を見ることができるなどと書いてあった。そうであるから、「周囲の人が親切」「部屋の眺めがよい」ということに対して、「私」が「妹は満ち足りた生活をしているはずだ」と思っていたのであれば、実際の部屋の様子を見たことに対する「驚き」が記述されていてもよいはずである。しかし、「私」は一貫して冷静でいる。「要するに……こんなものだったんだな」という心中のセリフからも、「特別な驚き」は読み取ることができない。ということは、「私」は、「妹の幸せな暮らし」を信じきっていたわけではないということになる。
そのような全体的な「私」の心情から(妹の部屋の様子にさほど驚いていないということから)、貧しい生活をしているかもしれないことに、ある程度の覚悟はしていたと考えられる。その意味で〈選択肢④〉の前半はそういう作り方をしているが、「予想したとおり」とまで言い切るのは言いすぎである。逆に、〈選択肢③〉には、「手紙の内容から妹の生活に関して安心感を抱いていた」とあるが、これは〈選択肢④〉の前半とちょうど対照的な選択肢となっている。

〈選択肢③〉     〈選択肢④〉
「安心していた」 ⇔ 「貧しい生活を予想していた」

となっており、どちらもやや極端である。それに比べると、〈選択肢①〉はちょうどその中間に位置するようになっている。
つまり、「手紙の内容から妹が満ち足りた暮らしをしていると想像していたわけではないが、」という〈選択肢①〉の前半は、確かに○にはしきれず、△くらいは入るかもしれないが、逆に×にはできないポイントになっている。〈選択肢②③④⑤〉が決定的に×になることから、消去法として〈選択肢①〉を正解と考えていく。あくまでも、比較のうえで最もよい選択肢を選ぶのがセンター試験なのである。

〈選択肢②〉は、「虚勢を張っていたと知って」→「不愉快」が〈因果関係不成立〉である。「不愉快」という言葉は、妹に恋人がいることを想像した時の心情として使用されている。また「ねたましく」が、「あわれ」の言い換えとしてはズレが大きい。「あわれ」は、自分よりも「劣位」の境遇にいるものに対して抱く感情であるのに対し、「ねたみ」は自分よりも「優位」の境遇にいるものに対して抱くものであるので、どちらかといえば〈逆〉の内容である。

〈選択肢③〉は「安心感」が〈話題なし〉である。いちいち妹の部屋に確認に行くくらいであるから、むしろ安心していないと解釈したほうがよい。「残念に思っている」と受け取れる箇所もない。

〈選択肢④〉は「予想したとおり」が〈話題なし〉である。また「貧しい生活をすることが芸術家の条件であると彼女が考えていることがわかり」というのは極端である。いくら実の兄でも、部屋の様子からそこまでわかるというのは無理がある。「エスパーかよ!」というレベルである。

〈選択肢⑤〉は「帰りたがっていたのか」が〈話題なし〉である。そこまでは読みとれない。また、「日本や家族に対して強い愛着」が〈言いすぎ〉である。「日本の千代紙」や「写真」などから、「日本」や「家族」に対する何らかの思いは感じとれるので、それを「愛着」と解釈してもよいが、「強い」かどうかまではわからない。そもそも「こんなものだったんだな」という呟きは、みすぼらしい部屋の様子を前にして、その質の悪さを形容した〈マイナス表現〉なのであるから、「愛着」という〈プラス表現〉に変換してしまうのは、〈価値の転倒〉である。

問4 正解は③

「みまわした」という「行為」に至るきっかけは、直前の「妹のセリフ」を聞いたことである。

きっかけ 「一流の俳優であるレーベジェフさんに教わっている日本人は
        私一人だ」という妹のセリフ
        ↓
心情   【何らかの心情】
        ↓
行為   周囲を見回す

ところが、肝心の心情描写は、ズバリとは書かれていない。そのため、周辺情報から推論していく必要がある。推論してみよう! やってみよう!

「みまわす」という行為の対象は何かというと、「異様な髪の形をした女」や「肋骨のような外套を着た男」などである。「私」は彼らを「屑」「自分だけは才能があると思い、沈んでいく連中」と表現している。さらに、「妹も今その一人になろうとしている」という思いを抱いている。その後に、「こんな連中みたいになったらお終い」「惨め」などのマイナス評価としての発言も続く。
この部分は、「みまわす」という行為を無意識的にしたあとで、「屑」のような人間たちが目に入り、「妹も同じだ」という感情が発生した、と読むほうが自然かもしれないが、いずれにせよ、「みまわす」という行為と、「妹も屑のような人間になろうとしている」という心情に密接な結びつきは認めてよいので、そこをヒントに推論できる。正解の〈選択肢③〉は、前半に「きっかけ」となるセリフの内容を踏まえ、後半に「妹が屑になろうとしている(周囲の屑どもと同じである)」というポイントをおさえている。

〈不正解の判断材料〉

① 「自尊心が傷つけられ挫折」「破壊的な行動」が〈話題なし〉である。周辺の人々の自尊心が傷ついているかどうかはわからないし(むしろ自尊心は高そうである)、「破壊的な行動」の描写はまったく存在しない。

② 「芸術に行き詰った焦りの結果」が〈話題なし〉である。
また、「自信に満ちあふれた人々の中で脱落」は本文の感情と矛盾する。「私」は「妹」が「屑のような連中」と同じように落ちぶれていってしまうのではないか、と考えているが、この選択肢の書き方だと、「自信に満ちあふれた人々」に対して「妹だけ」が脱落するような文意になってしまう。

④ 「有望な芸術家志望の若者ととらえており」が〈話題なし〉である。〈事実のミス〉と言ってもいい。この場面はあくまでも「妹」がそう主張しているだけのことであり、「先生である外国人俳優」が妹を実際にどう評価していたかはわからない。

⑤ 「大声」が決定的に×である。本文に「怒ったように言った」という描写はありますが、それが「大声」であったかどうかはわからない。
また、「自己の才能に自信を失っている」ということも、本文からは読み取れない。特にこの選択肢は、「妹は周辺にいる屑と同じになろうとしている」という、正解に必要な要素を取り入れていないので、〈核心不在〉であるとも言える。

問5 正解は②

まず、傍線部内にある、「妹の言っていること」を特定する。直前の妹のセリフは、

だからポーちゃんは日本に帰ったんでしょう。
ポーちゃんはなにか報われなければ嫌だったんでしょう。

というものである。このセリフを「きっかけ」にして、「私」は、「喧嘩はよそう」と言い、勘定書を手に取る(つまり店を出ようとする)。その店を出ようとした行為の背景にあるのは、傍線部にある「半分は正しい」という「感情」である。「報われなければ嫌だった」という指摘を、「私」は「半分」認めたことになるだが、その解読のポイントは次の2点である。

(1)なぜ「半分だけ」認めるのか。
(2)「報われる」とはどういうことなのか。

このことは、傍線部の直後で、比喩表現を交えながら説明されている。
まず(1)について、

七年前、私の片半分は安易さを捨てろ、もっともっとこの街に一人で止まるべきだと囁いていた。

とある。つまり、「私」は、妹の言うとおり日本に帰ったわけだけれども、「日本に帰らずに、フランスで芸術を志すべきだ」と囁く「片半分の自分」も持っていたのだ。だから妹の指摘を全面的に認めるわけにはいかないというわけなのである。
次に(2)について、

それに耳を塞いだ私はあの中世美術館の基督の死顔を喪い、そのかわりこのトゥイードのコートを得た。

とある。「フランスで芸術を志すべきだ」という声に耳を塞いだ(つまり日本に帰った)「私」は、「基督の死顔」を喪い、「トゥイードのコート」を得る。それぞれ何を意味しているのであろうか。
「基督の死顔」は〈問2〉でも問われていたように、「芸術の創造を希求する心」を象徴するものである。これは第一段落を読めば明らかになる。
一方、「トゥイードのコート」は「私」が芸術を捨てるかわりに手に入れた「世俗的な成果(家庭や、生活のための金を得ること)」の象徴である。〈傍線部ア〉の直前には、「(光への執着を失ってしまった代償として)トゥイードのコートまで作れるような余裕ある金を得ることができた」と書いてある。「報われる」とは、このことを意味している。
つまり、妹の指摘の内実は、

ポーちゃんは、(トゥイードのコートを得るくらいには)世俗的な成果や、金が欲しかったんでしょう?

ということになる。「私」はその指摘を「半分」認めるが、「七年前の私(日本に帰る直前の私)」には、「本当の芸術を志し、フランスにとどまるべきだ」という「片半分」もあったので、妹の指摘を全面的に認めるわけにはいかない、という心境でいるのだ。まとめると、

「世俗的な安定(生活や金)」だけがほしかったわけじゃない!
    (俺にだって、芸術を志す「半分の俺」がいたんだよ!)

という「反発」と、

実際に日本に帰り、トゥイードのコートを得た(安定した生活を得た)という事実は事実だな
(妹の指摘のとおりだな)

という「納得」とが半分ずつ混在している感情を抱いているのだ。正解の〈選択肢②〉は、その「反発」と「納得」を両方とも組み入れている。

〈不正解の判断材料〉

① 「芸術家は生活が安定すると優れた作品を創作できない」が〈言い過ぎ〉あるいは〈話題なし〉である。妹は、「生活に逃げたお兄ちゃんには優れた芸術なんてつくれっこないのよ!」とまでは言っていない。
また後半の「本心」の内容に、「芸術のためにパリにとどまりたい」という「片半分の自分」がまったく含まれていないため、〈核心不在〉である。

③ 「パリに未練を残したままでしぶしぶ帰国した」というのは、むしろ妹が指摘しなかった「私の本心」のほうである。妹は、「芸術のためにパリにとどまりたい」という「私」の「片半分の気持ち」には目を向けず、「生活のために帰国した」ことだけを指摘している。

④ 「芸術を極めることの困難に負けた」が、妹のセリフの内容にない。そのため、「芸術を極めることの困難に負けたことを帰国の理由とする」→「妹の指摘」というつながりが〈因果関係不成立〉になる。「私」が「自身の気持ちの内部」で、「芸術を極めることの困難に負けた」と思っていることは事実であり、その点で外すのが難しい選択肢なのであるが、「妹の指摘そのもの」には、「お兄ちゃんは負けたのよ!」とストレートに出てくるわけではない。妹が「(私の)帰国の理由」としているのは、「世俗的な安定が欲しかったんでしょう?(報われたかったんでしょう?)」という点である。
⑤ 「芸術家は自己満足が究極の目的」が〈言い過ぎ〉である。確かに妹は、多少投げやりになって、「私は自己満足だっていいの!」というような言い方をしているが、すべての芸術家にとってそれが「究極の目的」とは言えない。また、「帰国の原因」が「好き勝手にふるまう芸術家に対する嫌悪感」であるとするのは取り違えである。〈選択肢⑤〉は、「報われなければ嫌だったんでしょう」という指摘をまったく活かしていない。

問6 正解は④

小説の最後の問題は、基本的に消去法になる。

① 「情熱がともなわないと創作を続けることは困難」「生活を犠牲にして惜しまないものだけが生き残る世界」がおかしい。〈傍線部イ〉の直後には、「真剣だからといってこの残酷な世界だけはどうにもなるものではない」「だれもが~光のつらぬくものを創れはしない」とある。つまり「私」は、いくら情熱があっても、才能がなければどうしようもないと考えているのであり、その考えは、「情熱が必要」であるとする〈選択肢①〉とは一致しない。

② 「伝統につちかわれた技能の習得」「過酷な修行」がおかしい。本文にも書かれていないし、才能が何よりも重要であるとする「私」の芸術観に整合しない。

③ 「異様な格好が自己表現として評価される」がおかしい。むしろ「私」はキャフェで異様な格好をしている「芸術家きどり」の連中を「軽蔑」し、「屑」だと考えている。
また、後半の「特異な個性を持っていない限り敗残者となる」もズレる。「私」が芸術に必要だと考えているのは「才能」であり、「個性」ではない。

⑤ 「評価を下すのは最終的には他人」「多くの場合は世に理解されない」が〈話題なし〉である。「私」は「才能のある者だけが、光あるものを創ることができる」と考えているが、「その芸術性を評価するのは他人だ」ということにまでは触れていないし、「いい作品を作っても多くは理解されない」とも考えていない。「光ある作品を創れるのはごく小数の才能ある者だけなんだ」と考えているにすぎなく、「私」にとって重要なのは、その「光あるものを創ることができるかどうか、その行為そのもの」なのである。〈選択肢⑤〉の言い方だと、「その作品に光がなくても(芸術性が低くても)、他人に評価されてしまえばそれでいい」ということになってしまう。

          ◇

【全体を通じて】

 習熟期においては、「選択肢を切る時に、〈本文に書いていない〉という判断根拠はあまり使用したくない」と普段は言っているが、誤解がないようにもう一度繰り返しておこう。

 たとえば選択肢に「不安」という語があったとして、その「不安」という語そのものが本文に存在しない場合でも、「心細さ」などという語が本文にあった場合、「不安」はその「言い換え」として認められる。したがって、選択肢中の語が本文にないといっても、それは「本文語句の置換」である可能性があるので、むやみに×にはできない。しかし、「本文に話題そのものがない」という場合には、早めに切ったほうがよい。たとえば、プロ野球選手の話で、本文では野球の記述しか出てこないのに、選択肢にピアノの話が混じっている場合などである。そういうものは、「話題なし」とみなして切っていく。

 「本文表現なし」は「言い換え」の可能性があるので×にできないが、そもそも「話題がない」場合には、早めに×にしてよいということだ。特に小説では、「事実のミス」が不正解の根拠になりやすいので、「話題がない」という切り方が、評論よりも比較的多くなる。
 また、本番は時間との闘いなので、残り時間が少なく、どうしようもないときは、「本文表現なし」を思い切って×にしていく思い切りの良さも必要である。