落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する。

〈課題文抜粋〉
 演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。それは「演じている自分」とそれを「見せる自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。落語、特に古典落語においては、習い覚えた根多の様式を踏まえて演りながら、たとえばこれから自分が発するくすぐりをいま目の前にいる観客の視点からみる作業を不断に繰り返す必要がある。昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限らない。彼はいったん今日の観客になって、演じる自分を見る必要がある。完全に異質な自分と自分との対話が必要なのである。
 しかも落語という話芸には、他のパフォーミングアートにはない、さらに異なった次元の分裂の契機がはらまれている。それは落語が直接話法の話芸であることによる。落語というものは講談のように話者の視点から語る語り物ではない。言ってみれば地の文がなく、基本的に会話だけで構成されている。端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。(イ)落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する私の見るところ、優れた落語家のパフォーマンスには、この他者性の維持による生きた対話の運動の心地よさが不可欠である。それはある種のリアリティを私たちに供給し、そのリアリティの手ごたえの背景でくすぐりやギャグがきまるのである。

〈問〉傍線部(イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

まずは、高得点者の再現答案から示します。

〈高得点者答案〉
落語家の自己は、根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化し、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者として現れた状態に分かれているということ。

いわゆる「守りの答案」として上出来です。おそらく、3/6点くらいになっていると考えられます。

では、なぜこれが「守りの答案」として上出来であるのか、そしてさらに得点するにはどうすればよいのかについて検討していきましょう。

まず最初に確認しておきたいことは、傍線部(イ)と、その直前の文との間に、関係を示すラベル(接続語など)が何もないことです。

基本的に、二つの文が「ラベルなし」でつながっている場合、同じ意味内容が書かれていると考えられます。

今回の場合、その「直前文」に「指示語」があるので、さらに遡る必要があります。

傍線部とほぼ同じ内容が直前にあり、その文に「指示語」があるということは、傍線部そのものに指示語があるケースと同等と考えてかまいません。

端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。(イ)落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する。

指示語「この」が指す、「おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない」という部分は、「答案の核」となる部分です。ここを無視するわけにはいきません。さらに、「そうした」という指示語でさかのぼる必要もあるので、直前の「根多に登場する人物たちのやりとり」は、論点として拾っておきたいものです。ただし、「おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたり」という表現は、「具体例」ですから、そのまま拾うわけにはいきません。これは、何の具体例かというと、さらにその直前の、「演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する」という状態の具体例です。したがって、そちらのほうを答案に書き込むほうがよいということになります。

ここまでの時点で、次のような答案が成立します。

〈解答例 下書き①〉
落語家の自己は、根多に登場する人物たちに瞬間瞬間に同一化し、互いが互いの意図を知らない複数の他者として現れ、分かれていくということ。

〈再現答案〉とほぼ一致しています。

これに手を加えて、さらなる高得点を目指してみましょう。

まず、「維持」というキーワードを無視しないようにしたいところです。

傍線部(イ)の直前には、「この他者性を演者が徹底的に維持する」と書かれています。

「分裂」というからには、「かわるがわる複数の人間になる」という説明では足りません。「複数の他者がかわるがわる現れる」という状態が、「演技のあいだじゅう保たれている」からこそ、落語は生き生きとしたものになるのです。

ここまできっぱりと直前に書かれているものを、あえて抜く必要がありません。「維持」という語句をしっかりと入れていきましょう。

〈解答例 下書き②〉
落語家の自己は、根多に登場する人物たちに瞬間瞬間に同一化し、互いが互いの意図を知らない複数の他者として現れ、分かれたまま維持されるということ。

このように、傍線部「外」に「熟語」がある場合、それが傍線部と明らかに密接にかかわっているのであれば、積極的にそのまま(熟語のまま)答案に組み込んでいきたいものです。ただし、脈絡なく答案に書き込むだけでは得点になりません。今回の場合、「複数の人間性を保つ」というニュアンスで「維持」を使用できるとよいです。

これで、5/6点くらいになります。

では、最後の「1点」のために、どうすればいいでしょうか。

ある程度は書きつくしたと思える場合でも、よく見ると主語(主題)のほうに説明不足が生じているケースがあります。

今回の解答例では、「落語家の自己は」となっていますが、本当に主語(主題)がこのままでいいのか、あともう少し傍線部の内容に合わせて限定できないものか、考えてみましょう。

「落語家」も「自己」も、比喩ではなく、客観語であるから、そのまま使用してかまいません。したがって、「言い換え」ではなく、「補足」ができないか考えみたいところです。

現実の事例で考えてみましょう。たとえば、柳家喬太郎さんはキョンキョンの愛称で親しまれている「落語家」です。しかし、キョンキョンはいつもいつも複数の他者を同時に抱え込み、分裂しているのでしょうか? 朝起きてから寝るまで、「おう、そばをいっぱいおくれ」「へい、うちのそばは本物だよ」などという「根多のなかの人物たちに瞬間瞬間に同一化し、互いの意図を知らない複数の他者に分かれたまま維持されている」のでしょうか。

そんなはずはありません。いかに落語家といえども、落語を演じているとき以外のキョンキョンは、一人のキョンキョンとして生きていると考えたほうが適当です。

つまり、さきほど見た解答例における「落語家の自己は~」という主語は、「規定不足」なのです。よりしっかりと傍線部の主語(主題)を設定するならば、「複数の他者に分かれてしまう」のは、「落語を演じている最中の落語家の自己」であるということになります。

以上により、次のような答案が成り立ちます。

〈解答例完成版〉
ひとり芝居を演じる落語家の自己は、根多のなかの人物たちに瞬間瞬間に同一化し、互いが互いの意図を知らない複数の他者として現れ、分かれたまま維持されるということ。

〈採点基準〉
ひとり芝居を演じる             ①
落語家の自己は、           (ないと減点)
根多のなかの人物たちに           ①
瞬間瞬間に同一化し、            ①
互いが互いの意図を知らない         ①
複数の他者として現れ            ①
分かれたまま維持される           ①

最後のポイントとして、次のようにまとめておきます。

〈ポイント〉主題・主語の範囲指定(概念規定)

「今、何の話?」というテーマを示す役割を果たすのが主語である。つまり、「一文」という論理関係において「主題」となるのが「主語」である。

傍線部の主語は輪郭がぼんやりしていることが多いので(だからこそ問題になる)、「今、この話です!」と範囲をくっきりと示すと、論点が明確になる。

今回の問題で言えば、「落語家」の話をしているのではなく、「ひとり芝居を演じている際の落語家」の話をしているので (しかも、同段落内にきっぱりと書かれているので)、そのことをしっかし書き、主題を規定したほうがよいということになります。