「答えるべきこと」の濃淡をつける。
試験において最も出題されやすい形式は、本文中に傍線が引かれ、「どういうことか」と問われるものです。
記述答案においては、次の3つの観点が重要になります。
① 応答 設問に応答している。
② 論理 主語・修飾語(特に目的語)・述語が本文と整合している。
③ 表現 比喩表現・例示・「 」付きの特殊な表現などを答案から除外している。
この3つはどれも重要ですが、①については、傍線部の中で「特に」どこを中心的に答えるべきかという「ターゲット」を意識しましょう。
なぜなら、問題を作っている出題者も、「ここを答えてほしい」という「ポイント」があるからこそ、そこに傍線を引くからです。
採点においては、そこにこそ最も配点が多く集まっています。そのため、傍線部を単純に5つくらいに分けてしまい、その5つを公平に説明していくと、結果的に得点が落ちてしまう可能性があります。
傍線部の中の「特に」わかりにくい部分を、「特に」しっかりと説明するように心がけましょう。
では、典型的な「どういうことか」の問題を扱いましょう。
非常にレベルが高い問題です。
いまここであらためて、歴史とは何か、という問いを立てることにする。大きすぎる問いなので、問いを限定しなくてはならない。中島敦が「文字禍」で登場人物に問わせたように、歴史とはあったことをいうのか、それとも書かれたことをいうのか、ともう一度問うてみよう。この問いに博士は、「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と断定的に答える。すると博士の頭上に、歴史を刻んだ粘土板の山が崩れおちてきて命を奪ってしまうのだった。あたかも、そう断定した博士の誤りをただすかのように。こういう物語を書いた中島敦自身の答は、宙づりのままである。
「反歴史論」
たしかに、書かれなくても、言い伝えられ、記憶されていることがある。書かれたといても、散逸し、無に帰してしまうことがある。たとえば私が生涯に生きたことの多くは、仮に私自身が「自分史」などを試みたとしても、書かれずに終わる。そんなものは歴史の中の微粒子のような一要素にすぎないが、それがナポレオンの一生ならば、もちろんそれは歴史の一要素であるどころか、歴史そのものということになる。ナポレオンについて書かれた無数の文書があり、これからもまだ推定され、確定され、新たに書かれる事柄があるだろう。だから「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と断定することはできない。もちろん「書かれた事は、有った事じゃ」ということもできないのだ。
さしあたって歴史は、書かれたこと、書かれなかったこと、あったこと、ありえたこと、なかったことの間にまたがっており、画定することのできないあいまいな霧のような領域を果てしなく広げている、というしかない。歴史学が、そのようなあいまいな領域をどんなに排除しようとしても、歴史学の存在そのものが、この巨大な領域に支えられ、養われている。この巨大な領域のわずかな情報を与えてきたのは、長い間、神話であり、詩であり、劇であり、無数の伝承、物語、フィクションであった。
傍線部「歴史学の存在そのものが、この巨大な領域に支えられ、養われている」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。
まずは傍線部(を含む一文)を大きく分けてみましょう。
「どういうことか」の問題は、まずは傍線部(を含む一文)を各要素に分けることが基本的な方法論ですが、あまり細かく分けすぎると、「論の構成要素」以外の部分まで重要視してしまうことになるので、大雑把に分けましょう。
〈主部/目的部/述部〉くらいの分け方で問題ありません。
〈論点a〉歴史学の存在そのものが、
〈論点b〉この巨大な領域に
〈論点c〉支えられ、養われている。
明らかに〈論点b〉が「特にわかりにくい部分」です。
まずは、〈論点a〉と〈論点c〉について考えておきましょう。
論点a
「歴史学」という言葉は、【指示表現・比喩的表現】には該当せず、客観的に通用する表現なので、このまま使用してかまいません。
注意点は、早合点して「歴史は、~」と書いてしまわないことです。あくまでも「歴史学の存在は、~」なので、「学」を抜かさないように気をつけましょう。
「学」を抜かして書いてしまうと、減点される可能性があります。
論点c
「支えられ、養われている」は、意味内容としては難しい語句ではありません。
大づかみに言えば、「歴史学」は、「この巨大な領域」があるからこそ、「生きていくことができる」という意味で理解できます。
さて、「支える」「養う」は、比喩的な表現です。なぜなら、「支える」とか「養う」とかいった表現は、本来であれば生命体に使用する表現だからです。いわば「擬人法(活喩)」であるといえます。
これらを「説明」した表現は本文中にありませんが、傍線部内の語句は可能であればそのまま残したくありませんし、それが「比喩的表現」であればなおさらです。何らかの言い換えをしましょう。
ただし、説明材料が文中にないことからも、「支える」と「養う」を強く区別して説明する必要はありません。
なぜなら、ここが出題者にとって大きな加点のポイントであれば、「説明」のための材料が本文に存在するはずだからです。それがない時点で、「ここに大きな加点はないな」と判断してかまいません。
「支える」も「養う」も、「(あるものの)基礎となっている」とか「(あるものを)成立させている」という意味内容として理解できますから、一気にまとめてしまい、「基礎づけられている」とか「成り立っている」などと書ければ十分です。
この問題は、次に見ていくように、〈論点b〉の説明をしっかりすることが大きなポイントになりますから、〈論点a〉や〈論点c〉の説明に字数を割かないように気を付けましょう。
論点b
この〈論点b〉が、この問題に答えるうえで最も重要になる部分です。
「この」という指示語があるからです。そしてその指示語が指している箇所に、比喩表現があるからです。
ひとつひとつ解決していきましょう。
傍線部内に指示語がある場合、とにかくその指示内容に必ず言及します。

指示語がからむ問題は、その指示内容を過不足なく答案にまとめる必要があります。
現代文の問題の基礎中の基礎ですが、「指示している対象」が不明瞭だと、とたんに難しい問題になります。
「この」が指す箇所は、
そのようなあいまいな領域
です。ここにも「そのような」という指示語があるので、またさかのぼると、
歴史は、書かれたこと、書かれなかったこと、あったこと、ありえたこと、なかったことの間にまたがっており、画定することのできないあいまいな霧のような領域を果てしなく広げている。
という一文があります。まさにここが傍線部の指示語「この」が指している具体的箇所です。
とはいえ、「霧のような」という表現は明らかな比喩ですから、答案には使用したくありません。「つかみどころのない」とか「不確かな」とか「刻一刻変化する」といったように、「霧」の特徴のほうを書くといいですね。その点では、直前に「あいまい」とあり、これがまさに「霧」の特性を表していると言えますから、「あいまい」のほうを採用しておけば、「霧のような」はそのままカットしてもかまいません。
ここに「果てしなく広げている」という表現があります。これは傍線部の「巨大な」という語と意味が対応します。そのため、「果てしなく広がる」は、答案に必要な論点だと判断しましょう。
以上のことをふまえ、あまり深く考えずに書いてしまえば、ひとまず次のような答案になります。
下書き
歴史学の存在は、書かれたこと、書かれなかったこと、あったこと、ありえたこと、なかったことの間にまたがり、画定できず、あいまいなまま果てしなく広がる巨大な領域に基礎づけられているということ。
さて、論点収集はできましたので、ここから「清書」の段階に入りましょう。
圧縮と比喩解除
「下書き」を「清書」していく段階で求められることは2つです。
①圧縮 冗長な表現を「端的に」言い直す
②比喩解除 比喩的な表現は「実態」に言い直す
まずは、短くする工夫をしましょう。
そのためには、
ⅰ.書かれたこと
ⅱ.書かれなかったこと
ⅲ.あったこと
ⅳ.ありえたこと
ⅴ.なかったこと
の各要素を省かずに記述しなければなりません。「列挙」されているものを答案に書き込む場合は、「どれか一つを抜かす」ということはできないからです。字数が許せば全部そのまま書き込んでしまうという方法も取れなくはないですが、「すべてを包括してまとめる」という手段が基本方針です。そうはいっても、この(ⅰ)~(ⅴ)は、端的な表現で一気にまとめることは困難なので、7割くらいにまで縮められればいいと考えましょう。
ⅰとⅱは「記録の有無」などとできます。
ⅲとⅴは「実在性の有無」などとできます。「事実も反事実も」などとすることもできます。
ⅳを、「可能性」などとしておけば、ひとまず次のように書くことができます。
合格答案
歴史学の存在は、記録にあること、ないこと、事実、可能性、反事実のすべてにわたり、画定できず、あいまいなまま果てしなく広がる巨大な領域によって成り立っているということ。
複数列挙されている出来事や事物が答案に必要だと判断される場合、「すべて書く」か「一気にまとめる」か、どちらかにしなければなりません。少なくとも、列挙されているうちの「ひとつだけ無視する」といった方法はNGです。上記の解答例の赤色マークの部分は、課題文よりはコンパクトにまとめた表現です。このように、「圧縮」において、「自分のことば」が使用されています。
ここまで書ければもう十分ですが、〈さらなる高得点〉を目指すうえで、あと少し考えてみましょう。上記の答案のなかで、まだ少し「比喩っぽいところ」が残っていないでしょうか。
・・・・・・あります。それは、「果てしなく広がる」「巨大」です。
「事実」や「可能性」といったものは、実際には目に見えないものも含んでいるので、「果てしなく広がる」とか「巨大」などという表現は、いささか物体化しすぎている印象があります。
たとえば、「俺の果てしなく広がる思い出」と言ってみると、違和感が残ると思います。

俺の果てしなく広がる巨大な思い出・・・・・・

「思い出」は「物体」ではないから、「果てしなく広がる」とか「巨大」ってなんだかへんだね。
現実のもので考えてみましょう。
たとえば「アルバム」をイメージしてみましょう。写真を撮って、プリントアウトして、アルバムに貼っていくとします。その際、「プリントアウトした写真」以外にも、
ⅰ.デジカメで撮ったのだけれども、プリントアウトはしなかった写真
ⅱ.実際に見たのだけれども、カメラでは撮らなかった風景
ⅲ.予定を変更したために行かなかった場所
(行っていたとしたら写真に撮ったであろう場所)
ⅳ.撮るつもりがないのに、誤ってシャッターを押してしまった写真
といった、諸々の「事柄」が存在するはずです。「歴史学」はそれら「すべて」を学問の対象とするのです。
単純に、旅行に行く回数が増えれば、写真が増え、アルバムのページ数は増えていきます。
いや、特に旅行に行かず、カメラで撮った写真そのものが増えなくても、1枚の写真を巡って思い出話をすれば、

この時、雨が降らなければ清水寺まで行けたのにね。

そういえばあの日、殿が寝坊しましたよね。

えー、寝坊したのは、牛車だよ!
といったように、「事実」以外にも、「可能性の話」とか「事実ではない話」などが出現することが少なくありません。
つまり、「記録に残っていること」や「確かな事実」以外にも、「情報」が増えていくことになります。
筆者は、このようなことを「巨大な領域を果てしなく広げている」と述べているのです。
だとすれば、「巨大」というのは、あくまでも「図に描いてみるとすればとても大きい」ということであって、「事柄」が増えていくことを「比喩的に形容している」にすぎないことになります。
「果てしなく広げている」というのも、「図に描いてみるとすればどんどん広がっている」ということであって、「事柄」が増えていくことを「比喩的に形容している」にすぎないことになります。
以上の考察から、「果てしなく広がる巨大な領域」というのは、
◆あいまいで画定できない領域において増えていく莫大な情報
◆あいまいで画定できないまま増殖し続ける膨大な事柄
などといったように、書くことができます。
「事柄(情報)」の量がどこまでも増え続けているということが「実態」なのだといえます。
さらに、傍線部の「巨大」という語の代わりに、「膨大」「莫大」などの語を書き込んでおけると、「語そのもの」の言い換えも果たしたことになります。
以上により、次のような答案が完成します。
トップレベル答案
歴史学の存在は、記録の有無、事実、可能性、反事実にわたって、画定できず、あいまいなまま増え続ける膨大な事柄によって基礎づけられているということ。
採点基準 ⑥点
歴史学の存在は、 (「学」がないと減点)
記録の有無、事実、可能性、反事実 ① *要素が抜けているものは加点なし
画定できない ① *区別・分類なども可
あいまい・不確か・つかみどころのない ① *同趣旨なら加点
増え続ける ① *「増える」という情報があれば加点
膨大な出来事 ① *「莫大」など同趣旨なら加点
によって基礎づけられている ① *同趣旨なら加点
*最後のポイントは、「支えられ、養われている」のままは加点なし。
選択肢問題なら・・・
歴史学の存在は、記録されたものや確定的な事実だけでなく、記録がないこと、事実でないこと、可能性にすぎないことまで含み、分類できないまま無限に増殖し続ける事柄のすべてを研究の対象にせざるをえないということ。

最後の部分の「研究の対象にせざるをえない」という表現は、本文にある表現ではありませんが、「歴史学は、事実でないことや可能性にすぎないことも排除することはできない」という趣旨のことが傍線部の直前に書いてあります。
つまり、歴史学は、「記録に残っていること」「確固とした事実」以外のことも、無視することはできないのです。つまり、研究の対象から外すことができないのです。そういう観点で、「すべてを研究の対象から外すことができない」という説明は、十分本文に根拠のある表現といえます。

選択肢問題は、他の選択肢が「もっと間違っている」のであれば、少々いまいちな表現でも正解になります。ですから、記述の答案よりも、さらに「言い換え」が行われている可能性が高くなります。