世界と人間

問1

(ア)大丈夫 正解は② (①常備 ②頑丈 ③冗談 ④譲渡 ⑤施錠)

(イ)階層  正解は⑤ (①介入 ②氷解 ③軽快 ④懲戒 ⑤階段)

(ウ)眺め  正解は③ (①清澄 ②膨張 ③眺望 ④調理 ⑤聴衆)

(エ)替え  正解は④ (①怠慢 ②耐寒 ③不退転 ④代替 ⑤停滞)

(オ)源泉  正解は① (①泉 ②染 ③浅瀬 ④潜 ⑤薦)

問2 正解は④

「『それが分化する』とは、なにがどうなることか」という設問ですが、傍線部そのものの説明問題の応用的なものです。いわゆる「言い換え問題」の応用編であり、「それ」という指示語があるので、正解はその指示内容をふまえたものでなければなりません。傍線部そのものを説明する「言い換え問題」において、傍線部内に指示語がある場合は、その指示内容は必ず正解に含まれます。

さて、設問には「なにがどうなることか」とあるので、基本的には「言い換え問題」と前述しましたが、正解の選択肢は、「○○が△△になる」という文脈になっていないといけません。何がどうなるのでしょうか。指示語をさかのぼっていくと、この話題はおおむね同段落冒頭から始まっているので、この段落の文脈をチェックします。(基本的には、「分化」の「前」と「後」を区別する二項対立の問題です)

 私(主観)が物(客観)を見るというのは、結果として現れてきた現象
   ↓
 主観と客観の関係の基礎には
 両者が一体となった状態があり、
    ↑
 その原初の世界が分化することによって知るという意識の現象がある
   ↑
 この意識の根源にあるのは直感の世界であり、主客合一、物我一如といわれてきた
          (例)我を忘れてものごとに熱中している時
             美しい風景にうっとり見入っている時
                  ↑
      しかしこの例に限らず、どのような場合にも
      そのような一体化した状態が意識の根源に存在している。
           ↑
       それが分化した時、 人間の意識の世界が現れてくる。
                      ↑
                    それは
                    意識するもの/されるもの
                    知るもの/知られるもの
                    の世界
                      ↑
               これは、主客対立とか主客分裂とかいわれる

傍線部の直後には、「~時、~」というつながりがあるので、直後も大きく注目します。

A であって、 B
A であり、 B
A 場合、 B
A とき、 B
A ならば、 B
A 連用形、 B

という構造であるとき、AとBは同価値の並列(文脈的に同じくらい価値のある部分のつながり)です。ですから、AかBかどちらかに傍線部や空欄がある場合、反対側に大きなヒントがあると考えます。

大雑把に言えば、「主観」と「客観」が混ざっている状態が「意識の世界」の根源にあり、それが分化することで、「意識の世界」が現れてきます。そしてその「意識の世界」とはどんな世界なのかというと、意識するもの(私・主体・主観)と、意識されるもの(物・客体・客観)とに対立・分裂する世界なんだということになります。正解の選択肢④は、

人間の意識の根源にある世界 が 見る私と見られる対象の世界に分離すること


となっています。「人間の意識の根源にある世界」は、「主と客」「物と我」が「一体となった状態」であり、指示語の示す指示内容である「一体化した状態」を言い換えたものとして妥当です。

不正解の選択肢


「再び」が話題なしです。本文では主観と客観とが混ざっている状態を「根源」と言っていますので、それがもっとも本質的な基礎であり、それより以前の状態はないことになります。「再び」と言ってしまうと、もともと「主観」「客観」は分かれていて、次の段階でそれが混ざり、次の段階でもう一度分かれる、という文意になってしまいますが、本文では「混ざっている状態」の前の段階は話題にされていませんし、「根源」「基礎」と言っているということは、それより前はないと言っているのと同じです。



「熱中のあまり我を忘れた」という表現が具体的すぎるものであり(具体例のようなものであり)、説明としては不十分です。また、この設問のポイントである、「主/客」の話題がふまえられていなく、指示語を生かしているとは言えませんし、「冷静」が「熱中」になる、というような話題ではありません。


「私の意識が~分裂し」が因果関係不成立です。「(一体化した状態が)分化した時、意識の世界が現れてくる」のですから、「分化」によって「意識」が出現するのです。にもかかわらず選択肢③は、「意識」が最初からあったような書き方をしてしまっているので、前提をミスしてしまっています。


設問に答えていません。内容的には間違っていないのですが、選択肢⑤には、「どうなる」の部分しか書かれていません。「主客が一体化した状態」が「分化」して「意識の世界」が現れる、という文意がほしいのですが、この選択肢は、そもそもの前提である「主客が一体化した状態」を無視しているので、設問にある「なにが」の部分に答えているとは言えません。

問3 正解は③

傍線部の説明そのものなので、典型的な「言い換え問題」です。傍線部の直後に「ところで」という話題を変える関係語があるので、正解の根拠は原則的に傍線部の前にあるはずです。ここでも「動物v.s.人間」という二項対立があるので、注目します。

  (人間における食事という言葉は)
  動物におけるような現在の現象だけに限らず
  過去のことも未来のことも示す記号として使われる。

  だから

  動物の言葉が
    現在において一対一の関係で
    直接にものごとを示す信号である
      
  のに対し、 ⇔
  
  人間の言葉は、
    あらゆる時の
    一定の類似した現象すべてを表す
    一般的記号 ≒ 特に象徴と呼ばれる。
            
  ↓
言葉を話す人間は象徴を操る動物である。

この二項でもっとも注目すべき対立は、動物の言葉が「現在」におけるものであることに対して、人間の言葉は「過去のことも未来のことも」示すことができるということです。その、過去のことも未来のことも言語化できることを、筆者は「象徴」と呼んでいます。ここがポイントです。

象徴という言葉は、「かたちにならないものをかたちにしたもの」のことですが、その意味では、「言葉」もまさしく象徴です。なぜなら、「昨日の太平洋」や「明日の富士山」は、決して今かたちとしてあるわけではないからです。「太平洋」「富士山」という「言葉」を私たちが使用するとき、その言葉は、「いまここにかたちとしてあるわけではないもの」を「言葉」という身代わりに「置き換えたもの」であると言えます。

そういう意味では、一週間くらい会っていない友達のことを思い出して、「よしお、今元気でいるかなあ」と言ったとすると、その「よしお」という言葉は、「今目の前にでかたちになっていない【よしおそのもの】の代わり」であるという点で、「象徴」であると言えます。「よしお」という「象徴としての言葉」は、「(昨日の)よしお、おもしろかったな」「(明日には)よしおに会えるだろうね」などというように、過去や未来における【よしお】をも意味することができるのです。反対に、今目の前に「よしおそのもの」がかたちになって現れていれば、「よしお」という象徴(代わり)としての言葉は、ほとんど必要なくなります。よしおのほうを向いて「元気?」と言えば済みますし、「こいつ」「お前」などという指示語でもほとんど通じてしまいます。

正解の選択肢③には、「時間を超えて」という、直前の話題がきちんと入っています。また、気をつけたいのは、「人間の人間以外の動物も感覚的イメージを表現できる点では同じだが」という説明は、この段落冒頭の、「感覚とイメージに生きる点では人間も動物も同じ」という部分を生かしているということです。

不正解の選択肢


「複数の異なるイメージを一つのイメージに集約」が説明不十分で△です。やはり「時間」という話題にふれているほうが正解に向いているでしょう。

また、「人間以外の動物が身振りや鳴き声で表現する信号しか持たない」が限定しすぎで×です。「身振り」「鳴き声」は確かに、動物の表現手段として書かれていましたが、その二つしかないとは、筆者は述べていません。「たとえば身振りや鳴き声」ということなのであり、あくまで「例」なのです。これは常識的にもアウトです。たとえばコウモリは超音波を出しますし、イルカやクジラなども「身振り」「鳴き声」以外の手段でコミュニケートすることができます。


「各自のイメージ経験の微妙なズレを解消」がここでの話題にないので×です。次の段落からは確かにその話題が展開さえていくのですが、「ところで」という言葉でつながりが遮断されているので、「ところで」以降を根拠にしてはいけません。


「時とともに変化するイメージに名前」が話題なしです。直前には「一定の類似した現象」とあり、段落三行目には、「類似したイメージに対してはその類似性に基づいて一つの共通の名前が与えられる」と述べられています。確かに私たちの常識で解釈しすぎてしまうと、「昨日の食事」と「明日の食事」が「まったく同じもの」であるはずはありませんから、「変化する」という説明があっているように感じてしまうのですが、本文には「時による変化」の話題は書かれていません。この段落で何度も繰り返されているのは「類似した感覚イメージ」です。昨日と今日で「似ている」からこそ、同じ名前が成立するということです。たとえば道端に猫がいたとして、「あれ、この猫、一昨日も昨日もいた猫と似てる。きっと同じ猫だな」と考えるからこそ、「ニャンコ先生」と名前をつけることができます。もし、「一昨日いた猫」と「昨日いた猫」と「今日いた猫」に類似性が認められなければ、同じ名前で呼ぶことは不自然ですよね。「類似」がみつからなく、「変化」のほうがみつかるのであれば、その猫たちは「別の猫」と考えるのが妥当であり、その場合「プックル」「ゴロンボ」「ゲレゲレ」などと、「別々の名前」になるはずです。


「曖昧なイメージ」が話題なしです。また、「個人の経験を超えた共通の世界を出現」も、直前の話題には出てこなく、「ところで」以降に書かれていくことであるため、正解の根拠を拾う場所として不適当です。

問4 正解は⑤

傍線部における抽象表現を具体例にする設問で、少々変わっている形式ですが、あわてずに、傍線部で述べている内容をつかまえます。「そのような」という指示語がありますので、指示内容を必ずおさえます。

言葉には、個々人によって異なった過去の経験に基づく異なったイメージが反映している。
   ↑
そのような日常言語は、人によってニュアンスが異なり多義的である。

「そのような」
「このような」
「そんな」
「こんな」
「そうした」
「こうした」
「そういった」
「こういった」

などの指示語の直後は、キーワードになりやすく、そのキーワードの発展的説明を、直後でしていく目印になります(これらの言葉の後は、「こと」「もの」などの準体言に置き換えられている場合も多いのですが、その場合は、「こと」「もの」に置き換えられている言葉が何なのかを直前から探し、それをキーワードとして扱います)。

さて、キーワードは「日常言語」です。指示内容でも、「言語」とありますので、話題は「言語」です。まずこれを見落とさないようにしたいところです。正解の選択肢⑤は、「近い」という言葉について、「おじ」と「語り手」のニュアンスが異なっていることを説明できていました。

不正解の選択肢


「受け止め方は人それぞれだ」というのはあっていますが、対象が「言葉」になっていません。これは「見たことによる感じ方」ですから、傍線部のキーとなっていた「日常言語」とはズレてしまいます。


「数の数え方を知らない弟」が不適です。これでは「日常言語」が人によって多義的になるということの例になりません。「弟」は「数え方」を知らないわけですから、「弟」にとって「いっこ、にこ」は日常言語ではないのです。


「普遍的」が逆です。みんなが「傑作だ」と同じように感じているわけですから、これは多義になりません。また全体的に見ても、「日常言語」が話題になっていません。


これは難しい選択肢ですが不適です。これは、デパートの入り口がたまたま複数あったから発生したトラブルです。もしもこのデパートの入り口が一つしかなかったら、このトラブルは発生していません。しかし、「言語」はそうではありません。「日常言語」は、人それぞれが異なるニュアンスで受け止めるので、細かく言えば、十人いれば十の解釈が成り立つのです。十人に「ラーメン大盛ってどのくらい?」と聞けば、おそらく十人がほんの少しずつ違う量をイメージするでしょう。〇・一グラムまでぴったり同じ量をイメージできる人は、むしろ少ないはずです。「多義」とはそういうことです。対して「デパートの入り口」は、小さいデパートなら二つくらいです。二つ程度のものを「多義」とは言うのは大げさですし、前述したように「入り口が一つ」である可能性だってあるわけですから、「日常言語は人によってニュアンスの異なる多義である」という具体例としては不適です。一〇〇人いればイメージが一〇〇通りになるのが「多義」ですが、デパートの入り口は、一〇〇人いても一〇〇のイメージになるわけでは当然ありません。二つか三つに絞られます。
(ただし、選択肢⑤がなければ最も近いことは確かです。)

問5 正解は②

 二項対立の文脈なので、整理しながら解答します。〈傍線部C〉からの流れで考えてみましょう。

 〈傍線部C〉
  日常言語は多義的
   ⇔ (そこでその曖昧さを解消するため)
  意味が明確に定義された言葉 が現れてくる。
             ↑   
         それが概念、専門語 
            ↑
         そしてこの言語の客観性をさらに高めたものが
         数学(という自然科学の言語)
            ↑
         これは概念のもつ質的本性も量的単位に還元する
         最も抽象度の高い記号・数式
           ↓
    数学という言語を用いる科学において
    ・人間の意識は「対象」から最も明確に分離
    ・対象とつながる感覚性やイメージ性は完全に排除
       ↑
  それはものごとの客観化や対象化が極度におしすすめられたもの。
  
  これは物と心との一体的関係から最も遠ざかっている
  (ものごととの生きたつながりを失った抽象的な世界→悟性・理性)
   
   ⇔ 我々が世界とのつながりを持つのは感覚やイメージにおいてである。
     ・芸術は美のイメージ  ・道徳は善のイメージ
     ・宗教は聖のイメージ  ・哲学は真のイメージ
    イメージの持つ象徴性が想像力によって様々な形を与えられる
    (感覚的経験と同様、世界とつながった実存の世界)
   ⇔ これに対し
    科学は、「意識」と「物」との直接的なつながりを完全に断ち切り、
    対象化を徹底した知の世界である。
   だから
    感覚の主観性やイメージの象徴性は完全に排除されている。

私たちの感覚は、本当に人それぞれで、説明がつきません。しかし、「概念」や「専門用語」を用いると、多少はその感覚などを共有でき、説明がつくようになります。「むねがもやもやして、いかんともしがたくて」と感覚をいくら述べても、「はあ? お前なに言ってんの?」とわかってもらうことはできませんが、「俺、【恋】してる」というように「概念」を持ち出すと、「ああ、あれね」となんとなく理解してもらうことができます。

しかしながら、その「概念」も、だいたいの共通性は持ちまずが、やはり人によってぴったり同じに理解しているわけではありません。そこで、「数」が出てきます。「ラーメン大盛」という「ラーメン屋の専門用語」を使えば、だいたいのイメージは共有できますが、「大盛」の度合いは店によって異なるので、「ぴったり同じ」には理解できません。そこで、「ラーメン600グラム」という「数」を持ち出せば、誰にとっても「ぴったり同じ基準」を共有することができるようになります。その「600」という数字には、個人的な主観やイメージは入り込む余地がありません。「600」は「600」なのですから。この「数」を用いるのが「科学の世界」なのだ、と筆者は述べています。そのため「科学」は、主観を排除した「対象化・客観化」されたものになるのです。

正解の〈選択肢②〉は、

「概念でもまだ曖昧さがある」
「その曖昧さを完全に排除したのが数である」
「その数を用いるのが科学である」
「そのため科学は主観を排除した客観的な学問である」

というポイントがほぼ入っています。

不正解の選択肢


「数学という言語は」が言いたりないです。傍線部の主語はあくまで「科学」です。選択肢①の説明は、数学の話で止まってしまい、科学にまで話題が及んでいないので、傍線部の説明としては不十分です。


選択肢の結論領域に「より客観的な物の見方」とありますが、傍線部では「対象化を徹底した」と述べられていました。「より」は「比較的」ということですが、本文では「徹底」なのです。ここにニュアンスのズレがあります。正解の選択肢では「最も客観的」と説明されていますから、相対的に劣ると判断します。難しい選択肢です。


これも選択肢①③と同様に、話題が「科学」にまで及んでいません。言いたりないと判断し、不適です。


「感覚やイメージ」→「近代科学の基礎」という因果関係が不成立です。「感覚やイメージ」は近代科学において「排除」されるのですから、二項対立を混ぜてしまっている点が不適です。

問6 正解は①と③

消去法で考えましょう。


本文の5・6段落で述べられていたことに、前半が一致しています。後半も、9段落で述べられていたことになっています。


「科学は~人間の営みからは独立」が逆です。1段落には、「本当は、人間を離れて科学があるのではない」と書かれています。前半はあっています。


選択肢前半は2段落に、中盤は10段落に、後半は7・8段落に述べられていることに一致しています。


「日常言語が~主客合一的」が因果関係不成立です。本文に即していえば、「主体」と「客体」が分化することによって「意識」が現れます。その「意識」は最初はイメージですが、そのイメージが薄れていくのを防ぐために、名前をつけるようになります。それが「言葉」です。したがって、「言葉の世界」はその存在の前提として「主客」が分化していなければいけませんから、「日常言語=主客合一的」というつながりは不適です。


「長くつき合い同じ生活をすることでその曖昧さを解消することが可能」が言いすぎです。「解消」はまったく消えてしまうことですが、言語のニュアンスのズレ(曖昧さ)がゼロになるとは言っていません。本文では「分かり合うためには長くつきあって同じ生活経験をすることが必要」と述べられてはいますが、言葉の曖昧さを「解消」するまでにはいたっていません。「解消」に近づくためには、「概念」さらには「記号」「数字」を用いていくしかないのです。もしもこの「解消」が、「緩和」などであったら、正解候補なのですが、やはり言いすぎです。常識的に考えても、たとえばみんなの家族や友人との関係を考えた時に、長くつき合っているからといって、「言葉のズレが解消」されるわけではないでしょう。「新しくできたデパート行こう」「それデカい?」「うん、デカい」「全然デカくないじゃん」「何言ってんの、デカいじゃん」というような「ズレ」は、長くつき合っている家族でも十分に起こりうることです。反対に、はじめて出会った人でも、「駅までどのくらいですか?」「100mです」「ああ、100mですか」という具合に、数字を使えば、ズレは基本的になくなります。
⑥ 「見るという働きを徹底化させることによってはじめて原初的な世界を分化」というつながりが因果関係不成立です。「見る」→「分化」という順序が逆になっています。傍線部Aの2行後には、「(主客が)分化することによって現れる意識の最初の形態が感覚(知覚)である」と述べられています。つまり「分化」することによって、次に「感覚」が現れるのですから、「見る」というひとつの感覚行為(視覚)は、分化の前には現れていないことになります。