夏目漱石『こころ』について

『こころ』の文学史的価値

『こころ』は夏目漱石が最後に完成させた創作的物語です。『道草』(1915)は自伝的小説であり、『明暗』(1916)は未完であるからです。そのため『こころ』は、漱石のおよそ10年にわたる執筆活動の小説における集大成と言えます。特に、療養先でたらい一杯分の血を吐き、一時危篤状態に陥った「修善寺の大患」(1910)以降は、「生と死」を正面から見つめ、深遠なテーマに足を踏み込んでいると言えます。

『彼岸過迄』『行人』『こころ』いわゆる「後期三部作」は、人間が必ず抱えるであろう喜び・悲しみ・悩みなどにおける心理描写をこと細やかに描いています。それは明治・大正という時代において、だれも到達していない深みに、漱石だけが入り込んでもがいているような印象があります。

現在においても、「人間の深み」について描いた作品として、漱石のこの後期三部作を超えるものはそう出てこないと言われています。いずれにせよ、それほどまでに深みに迫っている漱石の作品を読むことは、現代の私たちにとっても大きな価値を持つことは間違いないでしょう。

解釈の多様性

さて、『こころ』という作品は、〈先生と私〉〈両親と私〉〈先生と遺書〉の3部からなる構成ですが、当時朝日新聞に連載されたのは〈先生と遺書〉というタイトルで、単行本にする際に3部に分け、大幅な加筆をしたものです。そのことからも、〈先生と私〉〈両親と私〉は、あくまで〈先生と遺書〉につながるための前提、あるいは伏線であって、作品のメインテーマはやはり〈先生と遺書〉に集約されていると言えそうです。

では、『こころ』特に〈先生と遺書〉で、漱石が描こうとしたのはどんなことだったのでしょうか。その解釈においては、様々な人が様々な見解を示しています。登場人物の移り変わる心境についても、いろいろな考えが示されています。それだけ難しい小説ということもできれば、逆に、「様々な解釈を許す小説」ととらえることも可能です。

ヨーロッパ的個人主義

『こころ』の大きなテーマのひとつに、「愛」や「恋」の達成は可能か、という問題があると言えます。現在的な考え方からさかのぼって、まずは「愛」と「恋」を定義してみたいと思います。

昭和に活躍した伊藤整という作家が、「愛」と「恋」は違うものだと断定しています。伊藤は、「日本における愛は男女間の恋愛という意味だ」として、それは「ヨーロッパにおける愛の概念とは大きく食い違う」と言っています。伊藤の考えの根拠は、以下のようなことです。

ヨーロッパにおける「愛」は、「隣人愛」です。つまりそれは、「自分と関わっているすべての人間を愛する」ということで、もちろんキリスト教の教えから来ています。キリスト教では、「自分と同じくらい他者を大切にしなさい」と教えます。『聖書』には、「人にかくせられんと思うことを人に為せ(他者からこうしてほしいと思うことを他者にしてあげなさい)」と書かれています。少し話がそれますが、他者を自分と同価値として見るという考え方は、個人尊重の考え方を生みます。「自分の個性を認めてほしい=他者の個性も認めてやらなければ」ということになります。

祈りについて

ですから、キリスト教は非常に積極的な宗教と言えます。目の前に存在する「他者」がもし困っていたら、躊躇なく救いの手を差し伸べます。「ボランティア」や「寄付」というものが当たり前のように行なわれている背景はそこにあり、そういう「弱者へのまなざし」からくる社会福祉的な発想は、日本よりもはるかに積極的です。

ところが、そこには問題もあって、ヨーロッパを代表とするキリスト教文化圏では、徹底した個人主義が育つことになります。他者の個性を認めてやるという考えには、「自分と他人は違うものであり、根本的には分かり合えない」という前提意識が浮き彫りになってくると言えます。

「他者を自分と同じように愛する」という行為はもはや神の行動です。人間は、自分と同じように他者を愛することが、いかに困難であるかを思い知ることになります。さてそこで、「それでも神の教えに従い、自分を愛するように他者を愛したい」と考える人々はどういう行動に出るのでしょうか。

それは「祈り」です。つい自分を優先してしまうことを恥じ、それによって生じた罪を懺悔し、他者を本当の意味で愛せるように祈ります。ですから、キリスト教における「愛」は、「隣人愛」を成し遂げようとしてもがき、苦しみ、それでもなんとか本当の愛に近づけるように日々祈ることです。

ところが、明治以降の日本は、「愛」という言葉を輸入したのはいいものの、そういった考え方がなかったため、一番近かった「恋」という言葉に「愛」を被せます。しかし、「恋」は自分本位です。相手に優しくしたり、親身になったりしても、「それによって自分をよく思ってほしい」という気持ちが主である限り、それは恋です。「愛」は相手本位です。「相手の幸せをどこまでも求め、そのためならたとえ自分が嫌われても仕方がない」というところまで純化できて初めて、愛と呼ぶことができると言えます。

伊藤整からさかのぼる『こころ』

伊藤の話を短くまとめるとこうなります。

相手の存在を自分の幸福の手段とみなしている場合、それは「恋」です。たとえば、「○○さんとデートしたい」「○○さんと同じ時間を過ごしたい」と思い、それを求めるのは、「自分の幸福のために相手をその手段としている」ということになります。逆に、自分の存在を相手の幸福の手段とみなしている場合、それは「愛」と呼んでもよさそうです。「恋」は交換可能であり、「愛」は交換不可能だ、とも言えるでしょう。究極的には、「相手の幸福のために自分は障害となる」とはっきりしている場合において、それでもそばにいようと思うのは「恋」、去れるのが「愛」という区別もできそうです。ただ、「幸福」の定義もそれぞれなので、いちがいに結論は出せませんが。
そういう見方をすると、人間は他者に対して、「恋」的な感情と「愛」的な感情を併せ持っていて、その狭間を揺れ動いているということもできそうです。

さて、『こころ』には、様々な相手に対する、様々な気持ちが描かれますが、それはいったいどんなものなのでしょうか。私(先生)からお嬢さんに対する気持ち、Kからお嬢さんに対する気持ち、お嬢さんから私やKに対する気持ち、それは果たして、「恋」なのでしょうか、「愛」なのでしょうか。そして、その「恋」「愛」、場合によってはその間で揺れ動く感情を、どこかに到達させるために、私やKがとった行動にはどんな意味があったのでしょうか。

「恋」と「愛」が、前述したように真逆のベクトルを持っているとすれば、その両立はきわめて困難であり、不可能的であるとも言えます。その問題に小説という課題から立ち向かった漱石の世界を、読み込んでいきましょう。

そのころの日本

明治までの日本では、「自我」という感覚は非常に希薄でした。自分が生きる意味そのものも、「家のため」「藩のため」というように、自己とは別のところに存在していました。そこに、「西洋的自我」の考え方が勢いを持って輸入されてきます。「人間は全て違う。一人ひとりの個性がある」という発想が与えられてきた人間は次に考えることは、「では、自分とは何か?」というものです。その、「自分とは何か」という考えが「自我」だと言えます。

自分自身の「自我」だと思うものを、自分自身の言葉で説明したものを「アイデンティティ(自己同一性)」と呼ぶことができるでしょう。

森鷗外と自我

『吾輩は猫である』の書かれる15年前、『こころ』の書かれる24年前、小説の世界に「自我」という考え方が入り込んできました。森鷗外の『舞姫』です。小説は時代の鏡ですから、それまでの「小説」に自我がなかったのではなく、それまでの「人々」に自我の芽生えがまだなかったのです。「滅私奉公」という言葉に代表されるように、当時は「個」を尊重する考え方は希薄でした。

人はみな「自分のため」というよりは、「家のため」「国のため」に生きていたと言えます。当時の人々の生き方を考えるために、少し寄り道して、『舞姫』のことを話しましょう。

舞姫

『舞姫』は、主人公である豊太郎が森鷗外自身の姿だ、と評される作品です。日本からの留学生である豊太郎がドイツ人エリスと恋に落ちます。もともと人付き合いが悪かったことや、踊り子であるエリスと恋仲になったことなどを理由に、豊太郎は免職されてしまいます。けれど、友人である相沢の紹介で職を得、一緒に日本へ帰らないかと言われます。

しかし、その時、エリスのお腹には豊太郎の子供がいました。これはびっくりです。連続ドラマで言うなら、第8話くらいにあたる展開です。最終的には豊太郎は日本へ帰ることになり、エリスとは別れてしまいます。もちろん、その間に豊太郎はすごく悩みますし、病に倒れている間に話がどんどん進んでいて、自分では結論を出していないように描かれますが、結果的にエリスを捨てたことに対して、多くの生徒たちは「ひどい」と言います。

ところが、豊太郎を「ひどい」と思うことは現代人の発想だと言えます。「当時は男尊女卑の傾向があったからだ」という意見もひとまずふさわしいものですが、豊太郎がエリスを選ばずに仕事を選んだことには、違う大きな要因がありました。

前述した「滅私」の考え方です。鷗外は豊太郎に自分を重ねたと言われていますが、鷗外自身、現在でいう東京大学を主席に近い成績で卒業しています。小説だけでなく、詩・翻訳も現代の文学の基礎をつくりました。軍医としても優れた人物で、医学史の中にも、森林太郎(本名)の名は刻まれています。

これだけでも、鷗外が当時の日本にいかに必要であったかがわかります。鷗外もその自覚がありました。豊太郎も同じような設定で書かれていますが、豊太郎が仕事を捨て、ドイツで女性と暮らすということは、日本にとって大きな損失だったと言えます。

仕事か恋愛か

当時の時代観で言うと、豊太郎は自分のために生きているわけではなく、仕事で身を立てるために生きているわけです。「仕事が最も大切」という世界に生きている鷗外にとって、そこでエリスを選んだら大変なことになります。自分の生きている価値を否定するのに近いわけです。それでも豊太郎は「仕事かエリスか」で悩みました。

どちらにせよ、豊太郎は、「自分にとって何が大切か」ということで悩みます。その悩みは、「自分とは?」という根本的な問い、つまり「自我」につながってきます。

そのころ漱石は?

『舞姫』が執筆された1890年(明治23年)は、漱石23歳の時です。この年漱石は、東京帝国大学文科大学英文科に入学しました。後に漱石は、鷗外の作品を賞賛した手紙を子規に送り、西洋的な考えを安直には支持していない子規に怒られています。

近代日本の自我意識

『舞姫』からもわかるように、明治以降の日本人には、「自分とは?」という問いが色濃く出てきます。そして、それによって、「大切なのは一人ひとりの個別な人格」というようになってきます。もちろん、それ自体は悪いことではありません。しかし、決して明治以前の日本の考え方が悪かったわけでもありません。そこで歪みが生じてきます。

なぜかというと、日本には「個性重視」の考え方を素直に受け入れられる土壌がなかったからです。まずキリスト教がありません。信者はほんの一握りですし、その人たち全てがキリスト教の理念を理解できていたわけではないと思われます。

キリスト教のない日本は、西洋文化を根底の部分では理解できません。西洋で形づくられてきた文化は、そのほとんどの根元にキリスト教があるからです。ヨーロッパの建築文化を思い出してみてください。世界遺産にも指定されているような荘厳な建物のほとんどは「教会」です。絵画や彫刻でも、聖書の物語を題材にしているものがたくさんあります。転じて考えていくと、ヨーロッパの考え方や発想には、キリスト教による「個人主義」が前提として存在しています。漱石は、それが理解できなかったために、「英留学に失敗した」と述べています。

ヨーロッパ的「自我」

では、そのように日本に流れ込んできたヨーロッパ的「自我」という考え方はどんなものだったのでしょうか。

第一に、古来ヨーロッパには、「唯一絶対の神」がいました。神の存在は精神の支えであり、聖人たちの物語を綴った『聖書』は絶対無二のものです。第二に、ヨーロッパの人間たちには従わせねばならない対象がありました。それは「自然」です。ヨーロッパではかつて自然は脅威でした。人々の生命を脅かす存在です。科学の力をつかって、自然をおさえこもうというのは、西洋的な発想です。

対照的に、日本人にとって自然と神は同義でした。もちろん、現在では、少しずつ考え方が変化していますが、いろいろなものが混じってゴチャゴチャになりながらも自然信仰は形をとどめています。

ところが前述したように、ヨーロッパでは自然と神はまったく別のものでした。『聖書』に「神は自分の姿かたちを模してアダムを創った」とあるように、神は人型なわけです。それは、神が自然よりもむしろ人間に近いことを意味します。

ヨーロッパの近代

しかし、度重なる戦争や、腐敗していく教会などにより、人々にとって神の存在は揺らぎます。戦争(殺害行為)は神の教えに背く行為ですし、金儲けだけを考え始めた教会への不信感がつのります。ニーチェの「神は死んだ」という言葉に代表されるように、ヨーロッパから神の存在感が薄れてきます。

そしてまた、飛躍的な科学の発展により、自然が怖くなくなってきます。人間は、科学の力を使って自然の上に立つという目標を半ば達成することになります。

従うべき神はどこかに行ってしまい、戦い続けてきた自然には勝ってしまいます。気付くと人間は、人間だけの世界にいるのです。そこでヨーロッパは、精神的基盤とか、そもそもの「生きる意味」みたいなものをもう一度問い直さなければならない時代に突入します。それが「ヨーロッパの近代」だと言えるでしょう。しかし、ニーチェの言葉通り神が死んだわけではありません。キリスト教の精神は色濃く残っていますし、負の部分を見直した新しいキリスト教も出現したりしています。

つまり、それだけ違った土壌の中で日本は西洋文化ひいてはキリスト教を受け止めたと言えます。ですから、自然の中に神を見出している日本人が、ヨーロッパのキリスト教を根本からわかることはたいへん困難なことです。とにかくそのような状況下で、日本人はキリスト教における「個人主義」を、社会に大量に投入してしまいました。漱石が生きていたのは、そのような時代でした。

察する

少し寄り道して、西洋と日本の文化的・言語的な相違点を見てみたいと思います。

たとえば「障子」に注目してみます。最近は、障子のない家が増えていると言われます。和室そのものを持っている家がなくなりつつある昨今では、仕方ないことかもしれませんが、障子という建築文化には「日本の心」が実によく表れています。

障子は、太陽の光を柔らかく部屋に通すという代表的な効果を持っていますが、障子の持つ力はそれだけではありません。本来障子は、渡り廊下から部屋への出入口として設けられています。障子は、その場所において最も日本的な使い方をされました。

たとえば、家の主人が部屋の中で客人と大事な話をしているところへ、家内がお茶を運んできたとします。紙一枚しか隔てていない向こう側の会話は聞こえてしまいます。そこで他愛のない話をしていたら、お茶を持って入ればよいし、雰囲気を壊してはいけないほどの大事な話をしていたら、こっそり立ち去り、お茶を煎れなおしてきたものだったと言われます。

それはまさしく、「察しの文化」の代表的行為だと言えます。相手の気持ちを何とか「察しよう」とする日本の対人関係図は、そのような建築からも読み取れることができます。「察しの文化」における日本人のコミュニケーション方法は、「相手の言いたいことを行間で読み取る」ものであったわけであり、相手にはっきりとものを言わせてしまうのは、聞く側の恥だったと考えられます。

考えていることと、言葉や態度に出ることがこれほど違う文化はそうないと思います。贈り物を贈るときなど、「つまらないものですが」とよく言いますが、欧米の人はこの習慣に戸惑います。「つまらないものならいらない」という具合に。ところがそれは、習慣的に自分からの贈り物を謙虚に低めているだけです。受け取る側は、「たいしたものではないですよ」というそのセリフによって、遠慮せずに気持ちよく受け取れる構造を持ちます。それは「相手が気持ちよく受け取れるように」という配慮、言い換えれば「相手の気持ちを察する」行為となります。

説明的・感覚的

日本にはそもそも、「自然と一体になろうとする気質」が文化的に備わっていると言えます。「神=自然」「人間=自然の一部」という発想を持つ日本は、他の空間や他者との間にあまり垣根をつくれません。対して、ヨーロッパでは自然は征服すべきものでした。そこには巨大な壁が存在します。また、「ひとりひとりが大切」というキリスト教的な個人主義がありますから、自分と他者は違うものだという前提があります。「自分は自分、他人は他人」です。それによって言語が説明的になるのだと言えます。「他人と自分は違う」と考えている欧米では、自分の考えていることを表現するときに、説明的にならざるをえません。それが英語です。

一方、他者との連続性を疑わない日本人は、「抽象的に話してもわかってもらえるはず」という前提に立ちます。したがって日本語は、抽象的に発展していき、相手の言いたいことを行間で読み取ることが美とされていくのです。

このように、言語にはその地域独特の考え方や習慣などが反映されていきます。その意味で、言語は文化の一部です。英語が「説明的な言語」であるのに対して、日本語は「感覚的な言語」ということになります。もちろんそこに優劣があるわけではなく、それらは性格上の単なる差異です。

短歌・俳句

たとえば、一般的に、「日本語は漢字もカタカナもひらがなもあるから、英語よりも複雑だ」と考えたくなることがあります。しかし、それは間違いです。確かに日本語は「書く」という行為については複雑ですが、逆に「話す」という行為については英語のほうが複雑です。日本語には「アイウエオ」という5つの母音しかありません(文法上)。ところが英語は「ア」だけでも4つも5つも使い分けています。日本の中・高生が英語を勉強していて根本的に理解しにくい部分は、この発音の複雑さだと思います(外国人にとっては、日本語の「アイウエオ」はもっと多種類に聞こえるそうです)。

そのことも「説明的な英語」「感覚的な日本語」の説明要因になります。「話し言葉」はそのまま空中に溶けてなくなってしまいますから、どうしても1回でわかるようにしなくてはなりません。けれど「書き言葉」は形として残りますから、何回も見ることができます。ある程度わかりににくくても、伝えることができるというわけです。

そのように感覚的に磨かれていった日本語は、「語らずの美」を追求していくことになります。言いたいことを削り、「これ以上は削れない」というところまで言葉をまとめていきます。そして言いたいことを行間に押し込めて、その言葉を受け取る人の感性に委ねることになります。したがって、日本語においては、多くを語ることは「野暮」とされ、「語らないことによって語る」ことが理想とされます。

そうやって発展してきたのが、「和歌」であり「俳句」だと言えます。性格的に俳句のほうが、「言わずに言う」ことに自由性を持っています。正岡子規が、事実をただ描写する「写生」という文章を発展させ、同時に「俳句」をひとつの芸術として人々に理解させていったことは、西洋化する日本において、きわめて重要なことだったと言えます。そして、漱石は、その子規を尊敬する親友だったわけです。もちろん漱石の文章にも、「写生」の影響が及ぼされていると言えるでしょう。

『こころ』に映し出される漱石

「明治」とは、前述したような「ヨーロッパ的思考」がめまぐるしく輸入された時代です。ところがその「明治」という時代が、明治天皇の崩御に伴い幕を下ろします。『こころ』とは、まさにその時に書かれた作品であり、「明治」という時代への鎮魂歌のような役割を果たしているような印象すらあります。

大政奉還の前年に生まれた漱石にとって、明治という時代はまさに漱石とともにありました。文字通り、漱石の年齢は明治の元号と一致します(明治元年に1歳)。そう考えると、漱石が『こころ』を執筆するにあたって、「明治」という時代を振り返りながら書いていったことは、想像にかたくありません。そのことはまさしく、漱石自身の人生を振り返りながら書いたであろうことをも推測させます。

また、漱石は『彼岸過迄』『行人』の執筆後、胃潰瘍が極度に悪化し、血を吐きながら『こころ』を書き上げました。最後の作品になるかもしれないという覚悟さえあったと思われます。

このような状況の中で描かれた作品『こころ』に、自分の姿を埋め込んだであろうと考えることは、むしろ自然なことだと思います。

名も無き二人

Kはイニシャルです。そして「先生」は普通名詞です。つまりこの2人には名前が与えられていません。その「名無し」という考え方は、漱石の小説においてどのような意味を持つのでしょうか。

たとえば、『吾輩は猫である』を引用してみます。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。(中略)

ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。

夏目漱石『吾輩は猫である』

漱石は、生まれたばかりのころに夏目家から養子に出され、さらにまた違う家に引き取られ、実の兄たちが相次いで結核で死亡したのをきっかけに、跡取りのいなくなった夏目家に再び「買い戻されて」います。したがって、先に引用した表現は、漱石自身の過去を描いたものだと読むことができます。

続きを読んでいっても、猫は結局最後まで名前を与えられません。

名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。

前掲書

そう考えると、名前のない「猫」は「漱石」だと解釈することが可能です。さて、『こころ』においてはどうでしょうか。素直に考えると、「先生」を「漱石」だと仮定することができると思います。だとすれば、Kとは誰でしょうか。

Kは正岡子規?

「こころ」という主題をテーマにすると、Kの内面的なモデルは正岡子規だと考えることができます。それは次のような見解においてです。

事実関係だけで考えれば、当然、Kを子規とするのは無茶な解釈です。「先生とK」「漱石と子規」という内面上のつながりは、ある種の似た側面を持っています。

かねてから親友であった二人は、漱石のロンドン留学中も手紙のやり取りをします。病床の子規は、漱石から届いた手紙を読んで非常に楽しんだと言います。漱石からの手紙には、ロンドンについての愉快な記述が細かく記されていました。寝たきりの子規にとって、漱石による異国からの手紙ほど、心を弾ませるものはなかったのではないでしょうか。

子規は、「僕はもうだめになってしまった。何でもないことを夜思い出しては、泣いてばかりいる。僕がかねてから西洋を見たいと思っていたことは君も知っているだろう。こんな体になってはもう行くことはできない。せめて君からの手紙が楽しみだ。どうか再び、西洋の様子を手紙で書いてくれないか」という主旨の手紙を漱石に出します。

対して漱石は、「忙しいので勘弁してくれ」という旨の返事を出し、時間ができたらまた書こうという程度にやり過ごします。ところが、次の手紙を書く間もなく、子規は死んでしまいます。

もちろん漱石は悲しみ、嘆きます。「僕が子規を殺してしまったようなものだ」と泣きます。そして漱石はその後ずっと、その罪悪感を抱えて生きていくことになります。その後書かれた『倫敦塔』などのロンドン描写は、出せなかった子規への手紙だと言えるでしょう。

『こころ』において、先生はKに対し、自分が殺してしまったようなものだという罪悪感を抱きます。そして、その後もずっとその気持ちを抱えて生きていきます。

名に込められたもの

「漱石」という筆名は、「枕石漱流(イシニマクラシ、ナガレニクチススグ)」と言うべきところを、「漱石枕流(イシニクチススギ、ナガレニマクラス)」と言い間違えてしまった人が、石で漱ぐのは歯を磨くためで、流れを枕にするのは耳を洗うためだ、と言い逃れたという中国の故事にならい、「頑固者」をあらわすとされています。

実はこの名は子規が発表したものでした。子規は漱石から届いた手紙におけるロンドン描写があまりにも面白かったもので、それを『倫敦消息』と名づけて世間に発表していたのです。そのときに使用したのが、「漱石」という筆名です。

漱石は、子規が非常に深く関わっている「漱石」という文字を自分で書くたびに、見るたびに、子規のことを思い浮かべていたのではないでしょうか。

『こころ』において、先生はお嬢さんと結婚しますが、お嬢さんの顔を見るたびに、Kのことを思い出したことでしょう。

以上により、漱石が子規に対して抱いていた罪悪感、それを贖罪したいという気持ちは、先生がKに対して抱いた心持ちに、本質的につながるのではないでしょうか。

意味がないという意味

「漱石」という言葉の面白さは、「頑固者」という意味になるということだけではありません。もとは「枕石漱流」と言うべきところを「言い間違えた」のが成り立ちであるわけですから、「漱石」という言葉は、存在しなかったかもしれない言葉だと言えます。語義矛盾をはらんでいる「漱石」という名は、「名前がない」ことにも通じる概念が宿っていると言えるでしょう。

送籍

日清戦争の最中、漱石は戸籍を北海道に移しています。これはなぜかというと、当時北海道は内地の植民地的扱いだったので、徴兵の義務がなかったからです。つまり、漱石は出兵を避けるために、大胆な手段をつかったのです。ところが正岡子規は、病気でありながらも、従軍記者として出兵します。そして、過酷な軍隊経験を通して、ますます命を縮めることになります。

漱石は、後に「送籍」という人物を小説の中に登場させます。それは、戸籍を移してまで出兵を逃れた後ろめたさから、世間への一種の告白をしたのだと言われます。しかし、当時、その手段で出兵を逃れた人はそれこそ大量にいました。世間への後ろめたさ、というよりは、子規への後ろめたさと位置づけたほうが妥当だと考えられます。

愛とは恋とは

さて、『こころ』に話を戻し、こういう見方ができることも付け加えてみます。それは、Kと先生という一種の恋慕的な感情があるというものです。友情がより深くなったものと考えても問題ありません。

たとえば江戸時代において、「惚れる」という言葉は基本的に男性が男性に対して使用される言葉でした。主君と家臣の関係などに、この「惚れる」の感情を見てとれることがありますが、それはつまり、男が男の生き方に憧れることに近いものです。戦国時代などはそれこそ、惚れた主君のためなら、家臣はいつでも死ねたわけです。主君が死ねば、家臣は殉死するという考えもありました。

『こころ』においても、明治天皇が崩御したことに伴い、乃木将軍夫妻が殉死をしています。さらに「明治」という時代の終焉に対して、先生が殉死しています。

ともかく、同性同士であっても、一種の恋慕的な感情というものは、当時としては決しておかしなものではなく、現代においても、特定の同性に憧れるという感情は、誰しもが持つものだと考えられます。

漱石が子規を尊敬していたように、先生もKを尊敬していました。「何をやってもかなわない」と述べているとおり、Kは、常に先生の一歩前を歩いていた人物です。Kが「お嬢さんを好きだ」と告白してきた時に、先生に実感された感情は、「お嬢さんをKに取られたくない」という気持ちと同時に、「Kをお嬢さんに取られたくない」というものだったのではないでしょうか。

そう考えると、当時の先生の感情は、お嬢さんに対しても、Kに対しても、恋的なものだったと言うことができます。「お嬢さん」も「K」も「先生にとって必要」だったのです。

もうひとつ、こういう見方ができます。「殉死」という考え方は、表面的には愛的なものだということです。自分が愛している対象が失われてしまったら、自分がその人に対して、幸福のための手段となることが不可能になります。そのため、目的のない手段はあっても意味がない、対象のない愛は意味がない、という考えに至るのだということです。

本質的には何か

ところがそれでは、「愛」がただ一人に向けてのものだったということにもなりかねないので、やはりさみしい発想、本質的には誤解のある発想だと言えます。たとえば10人に対して愛的な感情を持っていれば、この生きている世界に愛の対象がなくなる、ということは限りなく少ない可能性になるからです。

極端に言えば、全世界の生命を無条件に愛することができれば、「愛」の対象は無限に広がっていくわけです。キリスト教ではその極地を「隣人愛」と見なします。「敵でさえも許しなさい」というイエスの言葉は、「すべてを愛しなさい」と言っていることになります。

また仏教では「色即是空、空即是色」「殺生禁止」などと様々な表現をしますが、「すべてのものには意味がある。見えないものにも意味がある」というような発想を持ちます。

則天去私

では、漱石自身はどのような結論を出していくのでしょうか。それは「則天去私」という言葉に表れていると言えます。「則天去私」とは、「天に則り、私を去る」という言葉であって、すなわち「天にまかせて、あるがままの私でいよう」という意味になります。

しかし、「漱石がその心境に到達した」という現在までの一般的な説には、疑問が生じてきます。漱石の、友人に出した手紙や、木曜会での発言などをみていくと、漱石は絶えず悩み続けていくわけです。自分はエゴイストである、ということも自覚的に述べています。したがって漱石は「天に則り、私を去る」というものを目指しながら、「天に則りたくも、私を去れず」という心境を絶えず持ち続けたのではないでしょうか。

そう考えると、「私を去れない」漱石が、その未熟さを省みて、「明日こそは、天に則り、私を去りたいものだ」と考えながら日々を過ごしていたと考えることが妥当だと思われます。そしてそれは、キリスト教における「祈り」の構造とたいへん類似しているものだと言えます。

明治の日本には「隣人愛」と「祈り」の感覚がない、という伊藤整の説を前述しました。しかしながら、漱石は、ここにおいて、ある意味では非常にキリスト教的な感覚を(本人が意識していた、いないに関わらず)持っていたのではないでしょうか。

漱石が最終的に頼りにしたのは仏教です。そもそも仏教というものは、宗教というよりは哲学に近いものがあります。「私とは何か」「世界とは何か」「生命とは何か」ということを突き詰めて考えていくのが仏教のひとつのスタイルです。漱石が、小説というジャンルを通して、そういったものを常に考え続けたことは言うまでもありません。

すると漱石は、キリスト教と仏教というふたつの宗教を、ある意味では本質的に体現した人物だったと言えそうです。やや乱暴ですが、区別的に定義すれば、仏教は「考えることと念じること」、キリスト教は「信じることと祈ること」、とすることができると思います。一般的に人は、そのどちらかしか選べません。「考える」ことによって「信じていること」が解体してしまうおそれがあるからです。しかしそれらは、私たちの目に触れない部分で、本質的に矛盾しない可能性があります。

そして漱石は、子規との友人関係を通して、木曜会での友人たちとの対話を通して、小説という自己解体と自己構築を通して、そういったことをすべて「突き詰めて」思考していった人物なのだと考えられます。

それを漱石の「分裂」と呼ぶことも可能ではありますが、その評価の仕方は、「まだ、わからんのか、ぞなもし」と、漱石と子規に笑われる結果をまねくだけでしょう。

先生の存在証明

親類に裏切られた経験のある先生は、やすやすと他人を信用できません。そして人間不信というものは、そのまま自分不信につながります。

たとえば、自分からは興味を持てない人に「好き」と思われるのと、自分から好意を寄せている人に「好き」と思われるのとでは、明らかに後者のほうが充足感は大きいと思います。つまり、自分という存在に対しての充足感は、次のように定義することができます。

「人は、自分が承認している他者に承認されることによって、生の実感を得る」

先生は他人を信用できません。ということは、自分がまず他人を承認して、その相手に承認されているという実感を持つ、という行為を、なかなか達成できないことになります。先生は今にも消えそうな存在として自分を見つめています。ところが、自分を認めてくれそうな存在がここで二人登場します。

「お嬢さん」と「K」です。ここにおいて先生は、自分の存在証明を、お嬢さんとKに映し出そうとするのだと思われます。

トゥルーマン・ショー

『トゥルーマン・ショー』という映画があるのですが、それは、トゥルーマンという主人公が住む町はすべてセットで、周囲の人間は俳優で、トゥルーマンだけがその事実を知らないという設定で物語が進行していくものです。途中、そのおかしさに気づいたトゥルーマンは、町を出て行こうとするのですが、そのときのトゥルーマンの心境は、「他人を信用できない」ということから自分自身に返ってきた、「自分の存在証明もできない」というものだったと思われます。

自分の周囲のものがすべて信用できないものだと気づいた瞬間に、「自分が承認している他者に承認してもらう」という行為が不可能になるわけですから、これは、『こころ』における先生の心境にとても近いものがあると考えられます。

トゥルーマンは、唯一自分に本当のことを教えてくれて、そのため町から追放されてしまった女性をずっと探しています。嘘に満たされた世界において、自分を承認してくれそうな存在が、トゥルーマンにとっては、その人だけだったわけです。

『こころ』の先生に置き換えれば、お嬢さんとKの存在を、近いものとして考えることができるでしょう。

消えそうな先生

このように、私たちは何によって自分の存在を認知しうるのかを考えたときに、おそらくそれは他者からの承認であると言っていいでしょう。「他人に必要とされる」ということは、自己肯定のために非常に重要なことです。先生は、お嬢さんとKによって、「自分」いうものをこの世界に位置づける可能性を見出していったのだと考えられます。ところが、それが崩壊する危機がやってきます。

「Kの告白」です。Kがお嬢さんを好きなのだという事実は、Kのこころの大部分がお嬢さんに向いていることを意味します。すると、「先生」はどうなるのでしょうか。先生は、お嬢さんとKから承認されること、言い換えれば、お嬢さんとKの「こころ」に住むことで、自分自身を肯定しようとしています。Kのこころがお嬢さんでいっぱいになるということは、そのまますなわち、先生の住む場所がなくなるということです。するとそのことは、先生自身の自己肯定がうまくいかなくなることにつながってきます。

さらに、その相手は「お嬢さん」なのです。もしKの恋が成就されたならばどうなるのでしょうか。お嬢さんのこころにも、先生は住めなくなるのです。

お嬢さんやKのこころの側から見れば、そんなことはないのかもしれませんが、先生のこころの側からしてみれば、これは重要な問題です。先生は、「Kのお嬢さんへの恋が成就してしまったならば、二人のこころに住めなくなり、そのまますなわち、自分自身が消えてしまう(自分の存在証明ができなくなってしまう)」という、決しておおげさではない感情を、無意識的に増幅させていったのだと言えます。

そう考えると、Kのことを邪魔した先生の行動は、かなり本能的なものだと思われます。先生は、消えそうな自分に危機感を持っていたのではないでしょうか。

消えてしまった自分

この感覚をKの側に当てはめるとどうでしょうか。先生の保持していた感覚は、そのままKにも当てはまると考えられます。つまり、先生とお嬢さんの婚約の話を知った瞬間に、Kは自分を失ってしまったのです。お嬢さんと先生のこころに住むことで、自分の承認をしようとしていたKにとって、お嬢さんと先生の婚約は、住む場所をなくす宣告に近いものです。Kは世界から消えてしまったのです。

一般に、人間には家族がいます。なので、失恋くらいで自己承認がゆらいだりはしません。しかし、先生には「親類の裏切り」、Kには「家族からの勘当」があったように、家族による承認が二人にはありません。二人とも、消えそうな自分を、「お嬢さん」という存在を経由して、ぎりぎりのところで補完しあっていたのです。

ラスコーリニコフ

ドストエフスキーの名作『罪と罰』は以下のような話です。

鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸しの老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合わせたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。

これは文庫本からの引用なのですが、注目すべきは、「罪の意識におびえるみじめな自分」というところです。この感情はすなわち『こころ』における先生に一致するものではないでしょうか。ラスコーリニコフは、最終的には罰を受けるべく法廷に足を向けるのですが、先生の場合、Kを実際に殺したわけではないので、誰も罰を与えてくれません。罰を与えられないということは、罪を消せないことになります。とにかくずっと背負っていかなければいけなくなるので、これはたいへんつらいことでしょう。

自分自身への罰

先生はKを殺害したわけではないので、法的に罰を受けることができません。罰を受けることもないということは、許されることもない、ということを同時に意味します。この感想文が指摘しているとおり、先生に「許し」を与えることができるのは、他でもない、Kだけだったのです。

ですから、Kの遺書に、「先生へのつらい文句」も「お嬢さんへの気持ち」も書かれていないことは、ある意味では余計に先生を苦しめます。もし、Kに遺書に、つらい文句でもあったならば、先生はそれを罰として受けとめることができたかもしれないからです。

サイダーハウス・ルール

『サイダーハウス・ルール』という映画においては、登場人物のほとんどが、何かしらの罪を犯しています。しかしながら、それは法的には罪であるとわかっていながらも、その状況に応じて、自分が信じているやり方を適用していきます。「自分のルールは自分が決める」というセリフが、作品中では大きな意味を持ちます。

嘘もひとつのテーマとなります。嘘をつくことはいけないことだと私たちは知っていますが、作品中では、嘘によって救われる物事が様々に描かれます。たとえば、孤児院の中である子供が死んでしまったとき、他の子供は、「その子はもらわれた。ここよりずっといい環境だ」と嘘を教えられます。おそらくほとんどの人にとって、この嘘を責めることはできないと思います。

私たちは、いつもルールを遵守しているだけでは、誰かを救ったりすることはできないのかもしれません。大切なことは、ルールを破れ、ということではなくて、自分の信じたことを選べ、ということだと思います。

『サイダーハウス・ルール』では、あらゆる登場人物が、様々な選択を迫られる場面において、ある覚悟を持って、何らかの決意をします。その覚悟は、「自分による、自分へのルール」と言うことができるでしょう。『こころ』において、先生は、自分自身しか知らない罪に対して、自分自身で悩み、苦しんでいきます。では、先生はどういうかたちで罪を背負い、そして許されればいいのでしょうか。

自分へのルール

あえて言うなら、先生は罪を背負うという罰を自身に与えています。先生は、「許されない」という究極の罰を自らに課します。お嬢さんに真実を打ち明けないのは、それが理由だと私は思います。お嬢さんに真実を打ち明けてしまったら、もしかするとお嬢さんによって、「あなたは悪くないわ」と、完全なものではないにしろ、許されてしまう可能性があります。先生はそれをよしとしなかったのです。

おそらく先生はずっと死にたかったのです。そのことによって罪を消したかったのです。しかし、そんなに簡単に罪を消してはいけないと考え、「許されない」という罰を受けながら生きていくことを選んだのではないでしょうか。

江戸から明治、明治から大正、大正から昭和へ、転換する愛

先生が生き続けてきたのは、罰を受け続けるためだとしましたが、それだけだったら、死ぬことによって許されるという「切腹的」な感覚、つまり、「死んでお詫びを」という感覚が勝ったかもしれません。先生が生き続けるためには、もうひとつ大きな理由が必要だと思います。

それはやはり「お嬢さんへの愛」ではないでしょうか。

「何かのために生きる時代」である江戸から明治においては、お嬢さんが生きる理由をつくるためには、先生は「存在」していたほうがいいのです。お嬢さんの生きがいのひとつとなりえるために、先生という存在は「必要」なのです。その時代において、自分という存在が相手の生きがいになりえると判断した先生は、死に場所を探す身の上でありながら、生き続けることを選択したのだと思います。

では、最終的には、先生はなぜ死を選ぼうとするのでしょうか。そのきっかけは、明治という時代の終焉です。ここで時代は、「何かのために生きる時代」から「自分のために生きる時代」へと転換していくことになります。

殉死

生きがいが自分自身の問題へと転換してきた時代において、お嬢さんの生きがいを設定するために、先生が存在する理由がなくなってきます。おそらく、明治の晩期において、その必要性が徐々に薄れてくるのを、先生は感じていたのではないでしょうか。

罪を消さないために、そして、お嬢さんのために生き続けてきた先生は、「何かのために生きる時代」の終焉をきっかけに、死に場所を設定できたのです。さらに言えば、「自分の人生は自分のために」という時代において、お嬢さんが自分自身の人生を自分のものとして受け止めるためには、自分の存在が足かせになる可能性も、先生は発見していたのかもしれません。

「明治の精神に殉死する」という考えは、「何かのために生きる時代が終わるならば、罪と罰と妻のために生きてきた自分もその時代とともに死ぬ」ということであり、ひるがえって、「自分のために生きる時代ならば、生きなくていい」ということであるのだと、私は思います。

遺書

そしてもうひとつ、「罪と罰」の問題があります。感想文にも指摘されているように、先生の「罪と罰」は、もはや先生だけの問題となっています。そこで先生は、自分自身を投影できる相手として、自分の若いころによく似た学生に、問題を「預ける」のです。新しい時代において、この罪がどう消化されるのかを、「自分とよく似た人間」に引き渡します。

新しい時代の「自分とよく似た人間」に、「罪」として記憶してもらうのもよし、「こんなことくらいで死ぬなんて馬鹿だ」と笑い飛ばされるのもよし、というような心境だったのではないでしょうか。

いずれにしても、先生は、他者にゆだねます。Kの死後、他者とまともに向き合えなかった(奥さんともまともに向き合えなかった)先生は、明治の終焉と、自分によく似た学生との出会いをきっかけに、「罪を告白する」という行為を通して、ようやく他者と関われるのです。さらに言えば、「自分の自分による自分自身への懺悔」と感想文で述べられているように、この懺悔は、学生を経由して「自分自身」に届くものです。つまり先生は、学生に宛てた遺書を通して、ようやく自分自身と関われるのです。

秘密

このことは、私たちの日常にも言えることです。おそらくほとんどの人にとって、秘密を打ち明けられる他人ほど、仲のよい人物だと思います。「告白」というものは、そのように、他者との人間関係を築いていくうえで、ひとつの大きな要素になるものですが、これは自分自身の自己形成にとっても重要な意味を持ちます。

誰かに秘密を打ち明けると、何らかのジャッジをされることがあります。

たとえば、「誰かが好きだ」と言えば、「応援してるよ」とか「やめときなよ」などとジャッジされることがあります。「悪いことしちゃった」と言えば、「自分からあやまったほうがいいよ」とか「私以外には言わないほうがいいよ」などと言われると思います。

この「ジャッジ」は、ある意味での「承認」です。一回他者に問題を放り投げて、投げ返してもらうことによって自分という存在の承認を得る、ということは、前述した存在証明の考え方において、重要な価値を持ちます。つまり、人は、本来自分自身の問題を、他者を通して考えることによって、自分自身に戻す、ということを日常で頻繁におこなっているわけです。これは、何も、友達とか家族との会話によってしかおこなわれないわけではありません。たとえば、小説を読んで、今自分が抱えている問題における解決の糸口になりそうなものを得たら、それは、他者を通したことと同義です。

(おわり)