詩と舞踊はもと同じだった。詩を伴わない舞踊はなく、舞踊を伴わない詩はなかった。サッフォーは舞踊教師でもあった。そして、詩は、バッハオーフェンによれば、そのまま法でもあった。ちなみに、詩と絵もまた必ずしも別物ではなかった。両者は、たとえば教訓として、しばしば同じものと見されていた。地獄絵は絵である以上に物語である。太宰治は、幼い頃、地獄絵を見て恐怖に慄いたと書き記しているが、絵に怯えたというよりは物語に怯えたのである。絵にもまた法の要素があったと言うべきだろう。
三浦雅士『考える身体』
未開においてはすべてが混沌としていたと言うのはたやすい。だが、混沌にこそ真実が潜むとすれば、文明はいたずらに世界を細分化してきたにすぎない。むろん細分化は何ほどか生産性の向上にかかわってきたのだろう。
事実、生産性の観点に立てば、たとえば、精神と身体の区分は、土器や皮袋の普及に応じて一般化したのだと考えることができるかもしれない。身体は精神を入れる器であり袋なのだ。比喩が、精神と身体の実体化に一役買ったのである。いや、ある段階で、比喩が実体と化したのだ。
しかしまた逆に、死者への怖れが生者をして精神と身体の区分へと駆り立て、生者はその区分を確証するために土器を作り皮袋を作るにいたったのだと考えることもできる。魂の器が土器へと転化し、霊の袋が皮袋へと転化した。すなわち聖なるものが日用品に転化したのであって、その逆ではない、と。
起源論はしばしば循環論に陥る。起源の探求は現在の要請だからである。とはいえ、起源論を侮ってはならない。起源は投影された現在にすぎないと言うのはたやすいが、逆にいえばそれは、現在を考えるに起源を論じるにしくはないということでもあるだろう。事実、起源は日々繰り返されているのである。精神分析の例を引くまでもない。どのような器も、どのような袋も、靄のような起源の光彩を帯びているのだ。陶芸がいまも人を魅了するのは、そこに分離し融合する精神と身体の劇が潜んでいるからである。
だが、繰り返すが、舞踊ほど根源的な芸術はない。精神と身体のこの分離と融合の劇にしても、身体という場において、よりいっそう直截にあらわにするものこそ舞踊だからである。比喩のからくりをあらわにする。頭脳を通してではない。頭脳を含む全身体を通してあらわにするのである。
〈問〉傍線部「どのような器も、どのような袋も、靄のような起源の光彩を帯びているのだ」とあるが、どういうことか。100字以内で説明しなさい。
ひとつ前の段落では、「魂の器が土器へと転化し、霊の袋が皮袋へと転化した」と書かれています。そのことから、「器」は「魂」を入れるものとして、「袋」は「霊」を入れるものとして実体化していったことになります。
「身体は精神を入れる器であり袋なのだ」という説明もあることから、「魂」「霊」というのは、「精神」とひとまとめにすることもできます。
いずれにしても、「器」「袋」は、「精神(魂や霊)を入れるもの」と説明することができます。
さて、「精神を入れるものとしての器や袋」が、「起源の光彩を帯びている」というのは、どういうことなのでしょうか。これは、直後にある、
陶芸がいまも人を魅了するのは、そこに分離し融合する精神と身体の劇が潜んでいるからである。
というところをヒントにして考えましょう。
「陶芸」は「土器を作成する作業」です。筆者によれば、その作業に「分離し融合する精神と身体の劇が潜んでいる」から、人は陶芸に魅了されるのです。
しかし、「分離し融合する精神と身体の劇」は、特に「劇」という表現が比喩的なので、そのまま書くわけにはいきません。
もともと、「精神」と「身体」は、古くは区別されていませんでした。それが、文明が発達するにつれて、生産性の向上に伴い、「精神」と「身体」に区分されていきました。逆に言えば、「文明≒生産性」が発達する前、すなわち「未開」の状態においては、「精神」と「身体」は区分される前の状態であったのだと言えます。筆者はそれを「混沌」と表現しています。
さて、陶芸の例で考えてみますと、陶芸というのは「器を作る」作業です。お茶であったりご飯であったり、何を入れるのかは用途によって様々ですが、とにかく「何かを入れるもの」を作るわけですね。
まさにそのこと自体が、もともと混沌であった(精神と身体が未区分であった)状態から、「入れられる側の精神」と「受け入れる側の身体」を区別する作業を追体験するかのような作業であることになります。人類の歴史を個人が再現するわけですから、「劇」と表現するのは上手な比喩です。ただし、この「劇」という語は、傍線部の内部にあるわけではないので、「再現」「追体験」などと言い換えて答案に出す必要はありません。
要するに「陶芸」は、その作業の過程において、「精神と身体が合一である状態(融合状態)」と、「精神と身体が区別された状態(分離状態)」を、どちらもイメージさせる行為になりうるわけです。
そうすると、「起源の光彩を帯びている」という比喩については、次のような読解が可能です。
どんな器や袋であっても、精神と身体が未分化であった未開の混沌状態から、それらを身体を区別して考えるようになった過程を、人に想起させるということ。
「起源の光彩を帯びる」というのは、「起源の光があたっている」ということです。「起源」については、「精神と身体が未分化であった未開の状態」から、「精神と身体を分けて考えるようになった文明の状態」に進む過程に「器」「袋」の起源があったということです。その「光」があたっているというのは、解釈が難しいポイントですが、後ろの「陶芸」の例から考えると、「器・袋」には、「精神と身体が未分化であった状態」を考えさせる性質がある、というように捉えることができます。
最後に「靄のような」という部分は、青本で指摘されているとおり、直後の「舞踊」との対比においてヒントを抽出できます。
「舞踊」は、精神と身体が未分化であった混沌の状態を、「よりいっそう直截にあらわにする」と述べられています。ということは、「器・袋」があらわにしている「分離し融合する身体の劇」は、「舞踊」に比べると「直截」とまでは言えないことになります。
そのことから、「直截ではないにせよ」とか「明確ではないが」とか「はっきりとはしていないが」などと表現することが可能です。
推奨答案
未開の混沌においては未分化であった精神と身体が区別されていった過程と、器や袋の普及が無関係でないことから、あらゆる器や袋は、身体が精神の容器とみなされた起源を、直截ではないにせよ想起させるということ。