(一)「芸術のジャンルが、近代の美学あるいは芸術哲学のもっとも主要な問題のひとつであったのも、むしろ当然であろう」とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。

「なぜか」の問題であるので、「論理の流れ」を説明することになります。
今回の傍線部は長いのですが、「論理の流れ」に必要な部分を抽出できるといいですね。
傍線部は、かみくだいていえば、「芸術のジャンルは → 近代の美学にとって → 大切」ということになる。

そのうえで、「いえるのはなぜか」という問題になっていることに着目します。
シンプルな「なぜか」とは異なり、「いえるのはなぜか」という問い方は、「原因」を答えるというよりも、「その傍線部(を含む一文)における論理の流れについて、不足を補って説明する」というものになりがちです。
河合塾はこの種の問題を「意味内容説明型の『なぜか』」と名付けています。
実際、この問題も、「原因」とみなせるものが書いていないので、「傍線部の論理の流れをくわしく説明する」という方針を立てます。
さらにいうと、「なぜか」の問題は、「主語や目的語」を説明することが重要なので、そういった「前提項」にあたるところをくわしく説明しましょう。
①「芸術のジャンル」の説明 (ジャンルとはどういうものなのか)
②「近代の美学(芸術哲学)」の説明 (近代の美学とはどういうものなのか)

では、見ていきましょう。
①「芸術のジャンル」の説明
まず「ジャンル」について、直前には次のように書かれている。
個と全体という矛盾する項を媒介し、連続的な関係をもたらす集合体
これが書けるだけで①点は入る。
さらに、「個」と「全体」という意味不明瞭な箇所を具体的にすれば、さらに①点入る。
したがって、「難しいな」と感じたら、この「基礎点」を取って次の問題に進んでもいいくらいである。
守りの答案
様々なレヴェルの集合体としてのジャンルは、唯一で個人的な営みや作品と、それら全体を包摂する芸術の領域という矛盾する項を媒介し、連続的な関係をもたらすから。
②「近代美学(芸術哲学)」の説明
傍線部の次の次の文に、
近代の美学において、「芸術の体系」がさまざまな観点から論じられた
と書かれている。
段落を変えて「ジャンルは、~」という説明が始まるので、ここに着眼したい。
ジャンルは、個々の作品からなる集合体であると同時に、個々の作品をその中に包摂し、規定する全体としての性質をももつ。個々の作品は、あるジャンルに明確に所属することによって、はじめて芸術という自律的な領域の中に位置づけられるが、この領域の自律性こそが、芸術に特有の価値(文化価値)の根拠であるのだから、ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。
使用したい語句がたくさんありすぎて困るが、次の〈③段落〉の冒頭まで進むと、
近代から区別された現代という時代の特徴としてしばしばあげられるものに、あらゆる基準枠ないし価値基準の、ゆらぎないし消滅がある。
と書かれている。
「近代」とは異なり、「現代」は、「基準枠・価値基準」の「ゆらぎ・消滅」があると述べているので、これを裏返していうと、「近代」は、「基準枠・価値基準」が「ある」ことが「特徴」なのだといえる。
このことから、傍線部内の「近代の美学」については、
個々の作品は、ジャンルに所属することで、芸術の領域に位置づけられた
というように説明することができる。
「大切」とのつながり
結論が「大切」ということなので、①②が重要である理由に言及できるとよい。
〈②段落〉の最後に、
ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。
とある。つまり、「ジャンル」に所属することが、「作品」の「価値の根拠」になるのである。ここまで拾うと、次のような答案が成立する。
解答例
個人的な作品と、全体を包摂する領域という矛盾する関係を媒介する、多様なレヴェルの集合体のどこかに位置づけられることが、近代芸術の価値の根拠となるから。

補足しておくと、「ジャンル」というのは、「個」と「全体」の「あいだ」にあるものなのですね。
たとえば、次のような相関である。
個人の作品 < ジャンル < ジャンル < すべてを包摂する全体
クロード・モネの絵 < 印象派 < 絵画 < 芸術
↑ ↑
「個の営みや作品」と「芸術という全体領域」の「あいだ」を「媒介」するもの
*この「媒介物」である「ジャンル」がないと、芸術理解はできない。

大雑把に分けましたが、「作品」と「芸術」の「あいだ」には、種々様々、大小様々な「ジャンル」があります。
それは、最小単位である「個の作品」と、最大単位である「芸術」という枠組みを「つなぐ」ものなのですね。
こうやって「ジャンル」に「つなげてもらう」ことによって、「個の作品」は、「芸術」という大きな枠組みにおいて、「価値」を持つことができるのだといえます。
参考(再現答案)
近代の美学において、相反する個別的な作品と全体的な芸術という領域の間に連続的な関係を持たせるため、法則的なレヴェルでの集合を介在させる必要があったから。

非常によい答案です。
(二)「かつては、芸術の本質的な特徴として、その領域の自律性と完結性があげられ」とあるが、どういうことか、説明せよ。
①「かつては」は、「近代以前は」「近代は」と規定すればよい。

「近代」という語は、「なければ減点」あるいは「あれば加点」のどちらかになると考えられます。
②「自律性」に関しては、〈①段落〉に、
自律的な――固有の法則によって完全にbトウギョされた――領域。
とあるので、そこを使用すればよい。トウギョは「統御」に直して書き込もう。

「漢字の設問になっているところは、答案には不要だろう」と考える受験生が多いのですが、そんなことはありません。
東大は、「漢字の設問になっていても、そのカタカナを漢字に直したうえで、答案に書いたほうがいい」と思われるワードも時々あります。
つまり、出題者側が、「ここは正解に必要な論点になるところだから、漢字の問題にはしないでおこう」という考え方をしていないということです。
「自律」とは、「自分で自分の行動を規制すること」「外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること」ということなので、「固有の法則によって完全に統御されている」という論点を書き込むと、そのまま「自律」の意味内容になる。
③「完結性」に関しては、「閉じている」という意味で使用することがある。

たとえば、一般には、「自己完結」などという言葉がありますね。
「他と関わらずに完結する」という意味です。
ここでも、「他の世界とは縁を切っている閉じた世界」と考えられるとよい。
〈②段落〉には、
ある作品のジャンルへの所属が曖昧であること、あるいはあるジャンルに所属しながら、そのジャンルの規定にそぐわないこと――ジャンルの特質を十分に具体化しえていない――、それは、ともに作品の価値をおとしめるものとして、きびしくいましめられていた。
とある。
ここをヒントに反対して書くと、「あるジャンルに明確に所属し、その規定に沿う」などと説明することができる。これが、「完結性」の意味するところであると考えられる(「曖昧」の対義語は「明確」である)。
さらに、傍線部の直後には、
とくに日常的な世界との距離ないし差異が強調されることがおおかった。
とあるので、そこも補充できるとよりよい。
解答例
近代以前の芸術の本質的な特徴は、固有の法則で完全に統御されることと、日常とは隔絶されたジャンルに明確に所属してその規定に沿うことであったということ。
参考(再現答案)
近代では、芸術を超越的で絶対的な原理にもとづき分類することにより固有の法則を持ったひとつの体系にしており、そのことが芸術に特有の価値を与えていたということ。

お見事です!
(三)「欠かすことのできない作業(操作)のはずである」とあるが、それはなぜか、説明せよ。
作為的に傍線部が短くされているので、傍線部を含む一文をきちんととらえること。
たしかに、「分類」は近代という時代を特徴づけるものだったかもしれないが、理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめようとするかぎり、「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――欠かすことのできない作業(操作)のはずである。
傍線部を含む一文がけっこう長いが、取り急ぎ「主語ー述語」をとらえておくと、
「分類(むしろ区分)」は、「欠かすことのできない作業である」
となる。「なぜか」の問題は、とにかく「主語―述語」を把握することが重要である。
さて、本問は、シンプルな「なぜか?」の問いである。シンプルな「なぜか?」の問題は、「原則的に三段論法」だと考えよう。
つまり、シンプルな「なぜか?」には「前提」は2つある、という考え方である。(前提が一つしかないような問題を、70字レベルで記述させるということはまずない)
理論の面でも、芸術ジャンル論や芸術体系論が以前ほど試みられないのも、むしろ当然かもしれない。しかしすべての、あらゆるレヴェルのジャンルが、その意味(意義)を失ったのではないだろう。無数の作品が、おたがいにまったく無関係に並存しているのではなく、なんらかの集合をかたちづくりながら、いまなお共存しているのではないだろうか。……変わったのは、おそらく集合体の在り方であり、集合相互の関係とそれを支配する法則である。……超越的ないし絶対的な原理にもとづいて、いわば「うえから」(von oben)芸術を分類し、ジャンルのあいだに一定の序列をもうけるという考え方は、すくなくとも現在のアクチュアルな芸術現象に関しては、その意義をほぼ失ったといっていいのだろう。たしかに、「分類」は近代という時代を特徴づけるものだったかもしれないが、理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめようとするかぎり、「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――(ウ)欠かすことのできない作業(操作)のはずである。
第一に目を引くのは「かぎり」という「条件」である。理由問題において、傍線部の関連する場所に「条件」を導くラベルがあれば、「前提」として処理してよい。

重要な方法論です!
したがって、
理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめるから
という「前提その1」が発見できる。
さらに、具体例をさかのぼっていくと、
無数の作品が、おたがいにまったく無関係に並存しているのではなく、なんらかの集合をかたちづくりながら、いまなお共存しているのではないだろうか。
という表現がある。「まったく無関係」ではなく、「なんらかの集合」をかたちづくっている状況があるからこそ、理論的ないとなみにおいては、「法則」を求めたくなるのである。
したがって、
無数の作品が、おたがいに無関係に並存しているのではなく、なんらかの集合をかたちづくりながら共存しているから。
という「前提その2」が発見できる。
以上のことから、次のような下書きが成立する。
下書き
無数の作品が無関係に並存しているのではなく、集合しながら共存しているため、理論的ないとなみにおいては、個別的、具体的な現象に埋没せずに、普遍的な法則を必要とするから。
これだけでも半分くらいの得点が入るが、基本に戻るとあと2点入る。基本とは次のことである。

「なぜか」の問題は、「主語」をきちんと説明することが最も重要です。
これは、シンプルな「なぜか?」でも「いえるのはなぜか?」でも同様です。
さて、最初に見たように、本問の「主語」は
「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――
である。
どうしてわざわざ「分類」を「区分」と言い直しているのであろう。それは、
超越的ないし絶対的な原理にもとづいて、芸術を分類し、ジャンルのあいだに一定の序列をもうけるという考え方は、現在のアクチュアルな芸術現象に関しては、その意義をほぼ失った
からである。
「アクチュアル」は「現在的」ということであるが、それは、「芸術のジャンルが曖昧になってきた」ことを指している。
そのことから、
芸術のジャンルが曖昧になった現在では、超越的(または絶対的)な原理で芸術を分類する意味は薄れた
ということが書けると、答案の充実度はいっそう高まる。
「分類」の意味が薄れたからこそ、筆者は「区分」と言い直しているのである。
誤解を生まないために念押ししておくが、ここでいう「区分」とは、「個々のレベルまで細分化した区別」ではない。あくまでも「個が集合している区分」である。
たとえば、「ジャズ」「ポップス」「ロック」「演歌」などと「教科書的」にあらかじめ「カテゴリー」が決まっていて、『フライングゲット』は「ポップス」で、『津軽海峡冬景色』は「演歌」などと「振り分けていく」ことを「分類」と呼んでいるのである。
しかし、現代ではそのいった「分類」は不能になりつつあるのである。たとえばクイーンの『ボヘミアンラプソディー』は、その楽曲の中に「オペラ」も「ロック」も「バラード」も入っているため、「ボヘミアンラプソディーはロックである」などとは一概に言えないものになっている。そのように、「分類できない」芸術はとても多くなってきた。とはいえ、「クイーンの曲」という「区分」はできるわけだし、「1975年に発表された曲」という「区分」もできるし、「2018年に映画化された」という「区分」もできる。つまり、「教科書的」「権力的」に、「これはロックである!」という「意味づけ」「価値づけ」はしにくくなったものの、「同じ作曲者による曲」とか、「同じ年に発表された曲」などというシンプルな集合は必ずあるのである。
たとえばそこで、「1970年代のヒット曲を研究したい」とか、「クイーンの楽曲を研究したい」という作業をする場合、そういったシンプルな集合までまったく無視してしまうと「研究」そのものが成り立たない。そういった意味で、「理論的ないとなみ」においては、「シンプルな区分」くらいはしておかないと、他の曲との類似点とか、相違点などといった「見解」は発生しない。
たとえば「ジョン・ケージ」の「4分33秒」という楽曲は、楽譜に「休符・休符・休符」と書いてあって、「4分33秒間何もしない」という楽曲である。近代以前の「すでにあるカテゴリーがあってそれをもとに分類する」というやり方では、この楽曲はどこにも仕分けることができない。そういう意味で、近代以前の「分類」という作業は、意味を失ってきているのである。とはいえ、「4分33秒」も、「ある作曲家による作品」であることや、「演奏会で発表された作品」であることから、「音楽作品」という「シンプルな区分」には入れることができる。その「区分」があることによって、「他の作品と比較して、観客の反応も異様だった」などと「研究」することができるのである。もしもこれを絵画作品の「モナリザ」と比較しても、理論的な研究はなかなか進まないであろう。なぜなら、一方が「見る芸術」で、一方が「聞く芸術」であるからだ。これらは、「区分」が離れてしまうので、なかなか比較しにくい。このように、「分類」がしにくいとはいっても、最終的には「見る芸術」である「絵」と、「聞く芸術」である「曲」くらいの「区分」は残るのである。
問いに戻ろう。以上のような考察から、次のような答案が成立する。
解答例
ジャンルが曖昧になった現在、超越的原理による分類の意味は薄れたが、無数の作品の集合がある以上、理論的な営みが普遍的法則を求める際、区分は必要になるから。
参考(再現答案)
現代ではかつてのジャンル区分は意味を失ったように思えるが、変わったのは集合の在り方で、理論的に芸術の普遍的な法則を求めるには、区分することが不可欠であるから。

とてもよい答案です。
(四)「『感性』の基礎となる『感覚』の領域にしたがって区分される」とあるが、どういうことか、説明せよ。
「どういうことか」であっても、「なぜか」であっても、傍線部が部分的に引かれている場合、きちんと一文を把握しておくことが重要である。今回はその「一文」が長いのであるが、少なくとも「主語」は把握しておくべきである。
モニターの画面を消して、音だけに聞きいるとき、いくぶんかグールドの意図からははなれるにしても、そのいとなみにふれていることはたしかである。「聞く」という行為、あるいは「聴覚的」な性質を、彼のいとなみとその結果(作品)の根本と見なすからこそ、ためらわず彼を音楽家に分類するのだろう。同じように、「見る」という行為と「視覚的」な性質が、デュシャンを美術家に分類させるのだろう。社会構造がどのように変化し、思想的枠組みがいかに変動したとしても、「感性」にもとづき、「感性」に満足を与えることを第一の目的とするいとなみが――それを芸術と名づけるかどうかにはかかわりなく――ひとつの文化領域をかたちづくることは否定できないだろうし、その領域が、(エ)「感性」の基礎となる「感覚」の領域にしたがって区分されるのも、ごく自然なことであるにちがいない。
ここでの主語は「その領域」である。指示語があるので、「チャンス!」と考えること!

指示語の指す対象を過不足なく書きこめれば、それだけで少なくとも①点入ります!
「その領域」が指すのは、
感性に基づき、感性に満足を与えることを第一の目的とするいとなみがかたちづくるひとつの文化領域
のことである。したがって、下書きは次のようになる。
下書き
感性に基づき、感性を満足させることを主目的とする営みが形成する文化領域は、感性の基礎となる感覚の領域にしたがって区分されるということ。
ただし、「感性」とか「感覚」といった語は、客観的かつ一般的な語なので、そのまま「 」を外してもよいが、できれば、「人間の」くらいはつけて、何らかの「補充」をする努力をしたい。

傍線部内の「 」つきの語句は、
①言い換える
②何らかの補足をしたうえで語句そのものはそのまま使う
どちらの方法でもOKです。
ここでは「感性」「感覚」という語そのものは、一般的かつ客観的なことばなので、答案に存在していても問題ありません。けれども、何の補足もせずにそのまま「感性」「感覚」と書き込むことは避けましょう。
「人間の」くらいはつけたいですね。
〈傍線部エ〉の少し後に「人間の感覚」とあるので、まず「人間の」という付言ができればよいが、〈傍線部エ〉の前には、「聞く」「見る」という「例示」があるので、その例示を一般化できる表現を導けるとよい。〈予備校〉の解答は「五感」と一般化している。これこそまさに出題者が求めている一般化であると考えられる。この設問の解答に「五感」と書き込める受験生は、高得点を取ることになるだろう。
なお、「五感」という一般化が果たせない場合は、「視覚や聴覚など」と思い切って書いてしまおう。一見例示的にも思える表現であるが、挙げられているものをすべて書き込むのであれば減点はされない。これを「完全枚挙」という。ただし、挙げられていないだけで、他にも「嗅覚」や「触覚」などがあるので、「視覚や聴覚など」「視覚や聴覚といった」という表現をしておくほうがよい。
解答例
感性に基づき、感性の満足を主目的とする営為が形成する文化領域は、感性の根本にある感覚、すなわち人間の五感にしたがって区分されるということ。
参考(再現答案)
表現活動は鑑賞した人の感性を満足させることを目的とした文化領域を形成しており、それは感性を生じさせる人の五感の領域に従い集合に区分されるということ。

ベリーグッドです!
(五)「厳密な理論的態度とともに、微妙な変化を識別する歴史的なまなざしが要請される」とあるが、どういうことか、全体の論旨に即して100字以上120字以内で述べよ。
あくまでも「傍線部問題」であるので、まずは「傍線部の説明」を主眼とすること。
単純に傍線部の内容を仕分けていけば、
a.厳密な理論的態度
とともに
b.微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的なまなざし
が要請される
となるので、〈a〉〈b〉をそれぞれ考えればよい。
〈傍線部エ〉の後から追いかけてみると、次のように述べられている。
ところで、同じ「色彩」という視覚的性質であっても、もちいる画材――油絵具、泥絵具、水彩絵具など――によって、かなりの――はっきりと識別できる――ちがいが生じるだろう。「色彩」という感覚的性質によって区分される領域――絵画――の内部に、使用する画材による領域――油絵、水彩画など――をさらに区分することには、十分な根拠がある。「感覚的性質」と、それを支える物質――「材料」(la matiere, the material)――を基準とする芸術の分類は、芸術のもっとも基本的な性質にもとづいた、その意味で、時と場所の制約をこえた、普遍的なものといえるだろう。もちろん、人間の感覚は、時と場所にしたがって、あきらかに変化を示すものだし、技術の展開にともなって新しい「材料」が出現することもあるのだから、この分類を固定されたものと考えてはならないだろう。もっとも普遍的であるとともに、歴史の中で微妙な変動をみせるこのジャンル区分は、芸術の理論的研究と歴史的研究のいずれにとっても重要な意義をもつかもしれない。あるいは、従来ともすれば乖離しがちであった理論と歴史的研究を、新たな融和にもたらす手がかりを、ここに求めることすら可能なのかもしれない。
ここで、「理論」と「歴史」について説明されているので、この部分を大きなヒントにすると、
人間の感覚的性質と、それを支える物質である材料を基準とする芸術の分類は、
a.芸術の最も基本的な性質に基づくという意味では、普遍的である。 → 理論的
一方で、
b.人間の感覚も、材料も、微妙な変動を見せるという意味では、固定できない。 → 歴史的
と整理できる。
この〈a〉が、「理論的」につながる。
「普遍的」というのは、「変わらない」ということなので、「理論」の対象になる。たとえば「数学」なども、「1+1=2」という「普遍の公式」があるからこそ、理論的研究ができるのである。「芸術」でいえば、「人間の感覚」と「物質としての材料」をもとにつくられるという点では「普遍的」である。逆を考えてみよう。たとえば「カエル」が「頭の中で想像しただけの世界」は「芸術」とはいえない。あくまでも、「人間」が「五感」をもとにした「感覚」にしたがって、現実世界に物体として顕現している材料をもって表現することが、「芸術」の基本的な条件なのである。
一方で、〈b〉が、「歴史的」につながる。たとえば「材料」は、古くは「粘土」とか「木」とか「石」であったが、今は「アルミ」とか「チタン」とか「プラスチック」とかで表現することもできる。逆に、絵画に使用する天然の「顔料」などは、なかなか採取できなくなっているといわれる。そういった意味で、「材料」は「変化」するものである。「人間の感覚」も、たとえば「夏」と「冬」では異なる。「10歳」と「20歳」でも異なる。「昭和」と「平成」でも異なるだろうし、細かく言えば「昨日」と「今日」でも異なるだろう。そういう意味で、「感覚」も「微妙に変動」していくものである。
つまり、「人間の感覚」と「物体としての材料」を土台とするという点では普遍性があり、理論的研究の対象になるが、「それらが時と場所にしたがって変動する」という点では可変性があり、歴史的研究の対象になる、ということである。
なお、〈b〉については、本文に「固定されたものと考えてはならない」とあるので、対義語をうまく生かせば「可変的」「可塑的」などといえる。

*本文に「 A ではない」という重要箇所がある場合、「A」の対義語で表現できないか考察してみましょう。字数圧縮のうえで大きな効果を発揮します。
(例) この法則は特殊なものではない → 一般的な法則
抽象的に考えてはならず → 具体的な思考
さて、以上の考察をもとに、次のような〈下書き〉が成立する。もちろん、主語を補充しよう。
下書き
個別と普遍を媒介するジャンルの把握には、人間の感覚的性質と、物質としての材料を対象とし、芸術の最も基本的な分類であるという点で、その普遍性を理論的に研究するとともに、感覚と材料が微細に変動するという点で、その可変性を歴史的に注視する必要があるということ。
さて、「最後の圧縮」に行く前に、もう一度設問を振り返っておこう。設問には「本文全体の論旨に即して」という「条件」が付いている。ところが、先に見た「下書き」は、最終段落のみで答案が「できてしまって」いる。
(五)は、あくまでも「傍線部問題」として処理することが重要だが、「本文全体の論旨に即して」とついている場合には、「傍線部問題としての解答」に対して、何らかの前提として、「前のほうに書かれていた重要な表現」を補充できないか考えてみること。
特に考えるべきことは「テーマ」とその「定義」である。本文全体を貫くテーマに対し、それを「定義」しているような文(段落)があれば、そこを上手く解答に含めていけると、加点される。
今回の問題文も「テーマ」を一言で言えば「ジャンル」である。
そういう観点で課題文を眺めると、〈②段落〉にこう書いてある。
ジャンルは、個々の作品からなる集合体であると同時に、個々の作品をその中に包摂し、規定する全体としての性質をももつ。
設問(一)で問われていた論点と多少重複するが、(五)が「本文全体の主旨」を含めることを条件にしている場合、「テーマとその定義」を答案の前半部に入れていく姿勢を見せておこう。
以上の考察により、論点を落とさないように圧縮をかけていくと、次のような答案が成立する。
解答例
個の作品と、それらを包摂し規定する全体を媒介するジャンルの把握には、人間の感覚と、物質である材料を対象とし、芸術の最も基本的な分類ゆえの普遍性を理論的に研究するとともに、それらが微細に変動する可変性を歴史的に注視する必要があるということ。
*「理論」「歴史」などの語句は、すでに一般的かつ客観的なので、言いかえなくてよい。
ただし、「どういう点」で「理論」につながるのか、「どういう点」で「歴史」につながるのか、という「本文内での実態」を補足する必要がある。

傍線部内にある語句は、「言い換え」をすることが基本的行為なのですが、ここでの「理論」「歴史」などの「語句」は、「言い換え」は難しいですね。
あまりにも一般的かつ客観的な語句だからです。
そのような場合は、「補足をしたうえでそのまま書く」という方法も「あり」だと考えておきましょう。ここで大切になるのは「ほんのちょっと補足する」という考え方です。
(六)
通念
統御
流布
融和
排除