日本人とは何か

問1 イ

ここでの主語(S)は、「文芸復興期のイタリアに住んでいたとする彫刻家」です。本文の対立関係でいえば、これは「かつての彫刻家」の例になります。

「かつての彫刻家」にとって、彫刻の定義を、

中世の教会の石とギリシャ(の彫刻)である!
またはそれを真似したローマの彫刻である!

というふうに言いきれるのは、それ以外の地域の彫刻を知らないからです。

逆に現代の彫刻家は、あらゆる地域のさまざまな彫刻を知っているので、彫刻とは〇〇だ!という定義がしにくいのです。

つまり、「かつてのイタリア」という、(現代に比べれば)「閉じている世界」に生きている人々にとっては、他を知らないからこそ、

言語とは〇〇だ!
建物とは〇〇だ!
服装とは〇〇だ!

などというように、「一定のルール」を設定しやすくなります。

「建物は石でつくる!」など、人々の共通理解が、統一的になり、習慣や文化的習俗が、統一的になるのです。

このように、「彫刻とは教会の石! ギリシャの彫刻! またはそれを真似したローマの彫刻!」と、「かつての彫刻家」が言い切れるのは、人々の意識(精神)や、文化などが、その閉じた世界のなかで統一的になっているからなのです。

そのことを、〈選択肢b〉は、「精神と文化による統一を前提におく世界に生きていたから」とまとめています。

文中にその根拠があるのは、〈④段落〉です。そこには「ローマの権力による統一の後には、精神と文化による統一があった」と書かれています。続いて「(かつての西欧では)世界が、一つの文化概念によって統一されていた」と書かれています。文の距離はやや遠いのですが、同じ話題を述べている箇所だと判断できますので、十分根拠になります。

不正解の選択肢

「不正解」については、常に「ウソを見破る!」という態度で臨みましょう。

ここでは、「選択肢のウソ」のパターンについていくつか見ておきましょう。

① 論点ずらし 「今その話していない」のパターンです。
② 話題の捏造 「そんなことは言ってない」のパターンです。
③      「意味的に逆のことを言っている」のパターンです。
④ 対比の混入 「反対側の話題が混ざっている」のパターンです。
⑤ 誇張    「そこまでは言っていない」のパターンです。
⑥ 矮小    「狭くしすぎている」のパターンです。
⑦ 因果の捏造 「そのつながりはない」のパターンです。
⑧ 価値の捏造 「いいとか悪いとかは言ってない」のパターンです。

選択肢ア

迷う選択肢ですが、×です。

①段落では、

技術的な面では、核エネルギーの解放があり、
社会的な面では、大衆の進出と世界歴史の舞台へのその決定的な登場ということがある。

しかし それだけではなく、      〈話題の発展〉

文学、思想、芸術の面では、資料の蒐集・保存・分類が発達して、世界規模に拡大されたということが、
大きな特徴であろう。

と述べられています。

ここでは、「①技術的な面の話題」「②社会的な面の話題」をひとまず出していますが、「本題」は、「③文学・思想・芸術の話題」なのです。実際、これ以降は、①②の話題は全く出てくることがなく、最後まで③の話題が続いていきます。

つまり、〈選択肢ア〉における「大衆の進出」は、〈傍線部ア〉とは論点が違うのです。論点が違うということは、「なぜか?」に対する答えにはなりません。

このように、傍線部自体が何の話をしているのかについて〈話題の特定〉をすることは非常に大切です。本文に書いてあるからといって、傍線部で話題にされていることと違うものについて語っている選択肢は、〈論点ずらし〉という観点で×にします。

ただし、遠い段落で同じ話をするケースは少なくないので、「違う段落の語句を使っているから×」とはなりません。語っている場所が近いとか遠いということではなく、〈話の内容〉が近いのか遠いのかを考えましょう。

選択肢ウ

「比較」とは「比べること」です。

さて、本文では、「比べる」ということ自体、現代的な現象であるという主旨で語られています。

かつてのイタリアでは、世界中の様式が異なる彫刻たちを「比較する」という行為そのものがありません。そのため、比較のための「基準」は必要なかったことになります。

かつてのイタリアでも、もちろんたくさんの彫刻はありましたが、「ひとまとめに語る」ことがそれなりにできていたのです。今日の「インドの彫刻」と「アフリカの彫刻」の「違い」を比べるほどの必要はありませんでした。

したがって、「比較」という行為は「現代的行為」とみなせます。〈論点ずらし〉または〈対比の混入〉の観点で×です。

選択肢エ

本文に、「敬虔」ということについて説明されている箇所がありません。〈話題の捏造〉の観点で×です。

問3 ア

まずは、傍線部イの内部にある「一般」と「概念」という語をおさえておきましょう。

一般 → 特別でないこと 全般にわたること 普遍・普通であること

概念 → ある事物の概括的で大まかな意味内容

この理解のうえで、〈傍線部イ〉の文は、次のように言い換えることができます。

(現代のように)彫刻という概念のおおう領域が広げられると、
その状況でも、普通の彫刻という大まかな考えが成り立つだろうか。

  

せっかくなので、現代彫刻をもう少し見てみましょう。

さあ、このへんまで見てきたあとで、「彫刻とは○○のことだ!」という〈まとめ〉をしてみましょう。はたしてうまく言えるでしょうか? うまく共通項を抽象化することができるでしょうか? いや、きっと、「これもう無茶なんじゃないか?」って気がしてくるのではないでしょうか。
この、「共通項をまとめて抽象化することはちょっと無茶なんじゃないかなあ」という感覚こそが、本文で述べられている「概念の成立する余地があるかどうか」ということです。
そのことを、〈問2〉の〈選択肢ア〉は、「定義しえないのではないか」と説明しています。いい正解です。本文に「定義」という語句自体は出てきませんが、「概念」と「定義」はそもそもかなり似た語なので、おさえておきましょう。

〈重要語〉概念 ものごとについての大まかな考え

 (近い言葉)定義・観念

「観念」は「かたちのないものについてのイメージ・心(頭)の中にしかないイメージ」のことであり、「概念」はそれを説明するために、多くの人に共通するイメージを抽象した「客観性のある大雑把な説明」のことです。その意味では「概念」は「観念」に含まれます。
細かいことを言えば、「観念はイメージそのもののこと」「概念はそのイメージを説明した言葉のこと」になります。たとえば「愛」は「観念」です。愛はかたちにすることができません。心の中だけにあるイメージです。そのため本質的には、「愛に対する観念」は人それぞれ違います。しかし、それでは不便なので、「愛とは自分と他者を同様に大切にすることだ」などと、「多くの人が共通して理解できる言葉」にすることがあります。それが愛の「概念」です。したがって、「概念化する」ということは「○○とは△△だ」と言葉でまとめることです。その点において、「定義する」こととほとんど同じ意味になります。

不正解の選択肢

選択肢イ

「特別な意味で彫刻という言葉を使う」というのが、「彫刻一般の概念」という語句の意味と〈逆〉になります。

選択肢ウ

「彫刻に何か新しい意味を与える」という部分が、「彫刻一般の概念」という語句の意味と〈逆〉になります。

選択肢エ

「もはや現代的な問題以外にはありえない」という部分が、本文に書かれていませんので、〈話題の捏造〉です。設問も、「問題提起の内容は何か」というものです。その点で、〈選択肢エ〉は結論めいた書き方をしてしまっているところもいまいちです。

問4 ウ

前の段落の後半から解決していきましょう。(  )内の言葉は、解釈のために補足として入れたものです。

(現代の)ジャコメッティーが、(彫刻の専門領域として)ギリシャ(の様式)をとるとすれば、世界中を比較した上でなければならず、

と書かれています。

現代では、「ギリシャ彫刻とはこういうものだ!」ときっぱり言うためには、ギリシャ彫刻以外の彫刻も知らなければなりません。

かつてのように、ギリシャの彫刻以外を見ることができず、そこで世界が閉ざされているなら、ギリシャの彫刻以外は、知らないものとして扱ってかまいません。実際に知らないのですから、これは当たり前のことです。

しかし、〈今〉の彫刻家たちは、幸か不幸か、世界中のひととおりの彫刻を見てしまっています。もちろんすべてを見ることができるわけではありません。しかし、たいていの土地の〈典型的作品〉〈標準的作品〉は、現代に生きる以上、書籍やインターネットによって目に入ってきてしまっているのです。

その膨大な数の彫刻に、たとえば〈日本式〉とか〈アメリカ式〉とか〈ドイツ式〉といった「個性」が現れるわけですが、それらの作品に対して、「いやいや、これはギリシャ式ではない」「ほほう、これはギリシャ式だ」「むむむ、これは近いとは思うが……、ギリシャ式とは違うなあ」と見渡し、「ギリシャ式」と「それ以外」を区別しなくてはなりません。それこそが〈現代〉の宿命なのです。

続きを読んでいきましょう。

世界中を比較するには、比較の基準、つまりジャコメッティーにとっての彫刻一般の概念がなければならない。

〈比較〉のためには、何らかの〈土台〉が必要です。その〈土台〉を作るうえでは、何らかの〈共通項〉がなければなりません。そうでなければ、比較の意味や価値が出ないのです。

たとえば〈保育園児〉と〈幼稚園児〉を比べることには意味や価値があります。なぜなら、「社会的に子ども」という〈共通項〉があるからです。あるいは、〈タコ〉と〈イカ〉を比べることには意味や価値があります。なぜなら、「軟体生物」であるという〈共通項〉があるからです。

一方、〈保育園児〉と〈会社の社長〉を比べることには意味や価値がほとんどありません。なぜなら、年齢も、社会的立場もまったく違うからです。あるいは、〈クマ〉と〈金魚〉を比べることには意味や価値がほとんどありません。なぜなら、生物学的な身体も、習慣も、生息環境も、必要とする食物も、まったく違うからです。

このように、比較のためには、共通する〈土台〉がある程度そろっている必要があります。物体Aと物体Bの重さを比較するならば、〈同じはかり〉に乗せなければなりません。

本文にあてはめて考えれば、「ギリシャの彫刻」と「日本の彫刻」と「オーストラリアの彫刻」との〈特徴の違い〉を比較するには、「彫刻とは○○である」という〈概念〉が、土台として存在している必要があるのです。

たとえば「野球とソフトボール」を比較するのは価値があります。それは、「小さなボールをピッチャーが投げてバッターが打つ球技」「9人対9人の球技」といった〈共通項〉があるからです。同様に「硬式テニス」とソフトテニス」を比較することにも価値があります。「テニスと卓球」も、ラケットを使用してボールを打ち合う観点から、比較に値するでしょう。

しかし、「バドミントンとサッカー」になったらどうでしょう? あまりにも性質に類似点が見出しにくいため、比較することに違和感を覚えることになります。同様に、「バレーボールと相撲」とか、「バスケットとアイススケート」といったものも、比較の意義を感じにくいものです。この違和感は、〈比較の基準〉がしっかりしていないことから発生するものです。つまり、共通項が確認しにくいもの同士は、「比べる意味あるのかな?」という感想を持ちやすいのです。

仮に、「〈サッカー〉と〈ハンドボール〉と〈野球〉と〈ドッジボール〉と〈相撲〉の違いを述べよ」と質問されたとしましょう。すると我々は、「あれ、一個へんなのが混じってるけど……、相撲がここに入ってるのはなぜだ?」と思うでしょう。それは他のすべてが〈球技〉という概念で包括できるスポーツであるからです。

続きを見ていきます。

その概念は自明ではない。なぜなら、世界中の造形芸術には、自明の統一があらかじめ存在してはないからである。

「現代の世界中の彫刻の共通項を抽象した〈概念〉は、明らかではない」と述べられています。世界中の彫刻の共通項を抽象した概念は存在しないときっぱり言っているわけではありませんが、「明らかではない」と言っていることになります。

「自明」という語の意味をおさえておきましょう。

自明

証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。
ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。

筆者は〈現代の彫刻の概念〉について、「絶対にない」と言い切っているわけではないものの、「はっきりとは示されていない」という考えで話を進めていきます。

では、〈傍線部ウ〉のある段落を読解しましょう。

同様のことは彫刻のみならず他の造型芸術についても言える。
造型芸術のみならず音楽・文学についても言える。
しかも音楽家や文学者にとってばかりでなく、一般の市民にとってさえそうである。

「同様のこと」と述べているので、この段落は前段落の話題をそのまま引きずっています。文脈上、「そう」という指示語は、

(彫刻という)概念が自明ではない / 自明の統一があらかじめ存在しない

という箇所を指していると考えられます。

〈概念が自明ではない/自明の統一があらかじめ存在しない〉ということが、

① 造型芸術だけでなく、音楽や文学にも言える
② 音楽家や文学者だけでなく、一般市民にも言える

ということを、〈事情〉が受けていると考えられるため、正解は〈選択肢ウ〉になります。

本文では、

彫刻 < 彫刻だけではなく他の造形芸術 < 造形芸術だけではなく音楽や文学

といったように、広範囲の芸術領域において、「概念が自明ではない/自明の統一がない」と述べているわけですから、〈選択肢ウ〉のように、「どのような分野の芸術に関しても」と述べても、間違いではありません。時代についても、「ラジオの放送番組~古典文庫」という例から考えると、「今」や「昔」に限定した話ではありません。現代の一般の市民にとって、あらゆる時代のあらゆる芸術について知ることができるがゆえに、それらを〈まとめる〉ことが困難になっているのです。「明らかな統一感」は存在しないのです。

不正解の選択肢

選択肢ア

「古典作品」に限定した話ではないので、〈矮小〉で×です。

選択肢イ

「難しく理解しにくい」が〈話題の捏造〉で×です。

選択肢エ

「現代的作品」に限定した話ではないので、〈矮小〉で×です。

問4 正解はウ

デカルトは、ろうそくの残骸を見ながら、「なぜろうそくはなくなったのに、存在していたなどと言えるのであろうか。疑いの余地があるぞ。でもそれを疑ってる俺自身の思考には疑いの余地はないぞ。考える。ゆえに俺はいる。コギト エルゴ スム」などと、ややこしいことを考えていました。同時代に生きていた本居宣長は、そのことを知りません。

しかし今では、大学生でもそれを知っています。我々の知識は、歴史上のどの偉人よりも〈広い〉のです。聖徳太子よりも、福澤諭吉よりも、我々は世界の広範囲を見渡すことができます。しかし、そのことは、知識が〈深い〉ことを意味するわけではありません。常識的に考えれば、我々が福澤諭吉よりも「深い知を有している」という感覚を持つことはないでしょう。それは、世界を広範囲にただ見渡せるだけであり、本質的な知を深めているわけではないからです。

筆者は、このあたりのことまで述べた後で、「しかしとにかく」と話をいったん切ってしまいます。「とにかく」は、話題は存続させつつも、論理の流れを分断するためのラベルです。そのため、「とにかく」の前の論理関係にはあまりこだわらないようにして、〈空欄エ〉を埋める努力をしましょう。

地球の向うのことが気に掛るのは、
東京の大学生に固有の現象
ではなく、
【  エ  】に固有のことであり、
世界中の学者
文学者
芸術家 に深い影響を及ぼさずにおかないことである。

「であり、」という表現で、【  エ  】は「であり以降」と密接なつながりを持ちます。

そのため、「世界中の学者」「文学者」「芸術家」に共通して該当する表現が【 エ 】に入らなければなりません。

すると、〈ア 造形芸術〉は、「学者」「文学者」に該当しないため、不適ということになります。

〈イ 大学生〉は、直前で「ではなく」とされています。また、後置の「世界中の学者」「文学者」「芸術家」のどれもに該当しないため、かなり根拠の強い×になります。

〈ウ 文化〉は迷う選択肢ですが、この段落が〈かつてと今〉の対比で構成されていることを意識しましょう。文章全体も〈かつてと今〉の対比です。すると「文化」はおかしいということになります。なぜなら、「文化」の存在は〈かつてor今〉のどちらかに分別されるものではなく、太古の昔から、現在に至るまで、その都度その都度ずっと存在していたものであるからです。

「文化」は、人が集団で生活する以上、どの時代にもどの地域にも必ず存在し、その間に優劣は存在しません。

たとえば「文化が発展する」などとは基本的には言いません。ただし、「機械を信奉する文化が発展した」などと、文化を限定的に修飾する表現がついていれば、まれに言うことはあります。

そのため、「地球の向うのことが気に掛るのは、文化に固有の現象」と言ってしまうと、「宣長やデカルトの時代は地球の向うのことは知らなかった」という本文の文脈と矛盾することになります。これが、「現在の文化」などとなっていれば正解になりますが、単なる「文化」は正解にはなりません。

以上のことから正解は〈ウ 現代〉になります。

現代では、地球の向う側への知識欲は、大学生だけではなくて、学者・文学者・芸術家といった広範囲の分野に影響を与える、と述べていることになります。

問5 エ

「今日の世界に似た状況」について、決定的なヒントは最終段落にあります。

現代の人間が          S(項1)
人間の仕事のすべてを      O(項2)
考慮しなければならない状況は、 P(述部)

中世の西欧の人間が、      S(項1)
彼ら自身にとっては人間の世界のすべてに
ほかならなかった西欧の全体を、 O(項2)
考慮のうちに置いたのと、    P(述部)

似ていると言えるだろう。

端的に言えば、「世界全体」を考慮に入れなければならないことが「似ている」ことになります。

選択肢検討

選択肢ア

「共通の言語」が〈現代〉にはないので不適当です。

選択肢イ

「精神と文化による統一」は〈現代〉にはないので不適当です。

選択肢ウ

「西欧が人間社会のすべて」は〈現代〉にはあてはまらないので不適当です。

*「似た状況」を答えるので、「現代」と「中世」に共通する状況でないと正解になりません。

選択肢エ

「世界が多様であること」は、本文前半で散々述べられてきたことであるので、確実に「現代」にあてはまります。では、〈かつて〉は多様ではなかったのかと言うと、そうではありません。〈傍線部オ〉の後に、「世界は多様であった」ときっぱり述べられています。

〈かつて〉も〈今〉も、「多様」であることはたしかなのです。しかし、その「次元」がまるで違うのです。〈かつて〉は、「多様」ではありながらも、それらを「まとめて語る」ことができる程度のものでした。地球全体を想定していたわけではないからです。

〈今〉は、地球全体を見なければならないので、「多様」の次元が広大になりすぎています。そのため、「まとめて語る」ことが不可能なほど困難になっているのです。

明治維新の日本を例にしてみましょう。外国との交流がある前の日本の内部も、それはそれで「多様」でした。薩摩藩、会津藩、水戸藩、長州藩など、それぞれ違っていたわけです。多様ではありましたが、たとえば「刀とはこういうものである」「弓とはこういうものである」といった〈まとめ〉ができないわけではありませんでした。ところが、外国との交流が始まると、「刀」にはフェンシングのようなものもありますし、「弓」にはアーチェリーのようなものもありますから、だんだん〈まとめ〉がしにくくなります。現代までくると、もうその〈まとめ〉が不可能に思えるほど、「多様」のレベルが上がってきてしまっているのです。

文脈上、「世界のすべてを考慮に入れなければならないこと」が、本当の正解になるはずなのですが、選択肢にないので、近いものを選びましょう。すると、〈エ〉が正解になります。