傍線部内の語句は、原則的にはいちいち言い換える。

傍線部内の語句は、ひとつひとつ言い換えていくのがよいのか?

原則的には、傍線部内の語はいちいち言い換える姿勢をもったほうがよいです。ただし、「人」とか「駅」とか、それ以上簡単にできない「一般的な語」まで言い換えていく必要はありません。

どこからどこまでが「一般的な語」なのか、判断が難しい。

基本的には、「日常生活にごくありふれた語」以外は言い換えていくほうがよいでしょう。
迷うのは「熟語」ですね。
採点の内情を言えば、「普遍」とか「秩序」などといった「熟語」に関しては、重要なのは本文中の何を指して「普遍」とか「秩序」といった語を当てはめているのかということにあります。ですから、語そのものの言い換えよりも、本文中の現象や実態を指摘することのほうが大切です。
まずはそれができることが「優先事項」です。時間に余裕があるのであれば、さらに辞書的な意味にかみくだいたほうが、説明としていっそう優秀になります。
現代文の「説明」は「訳」ではない。
一般に、古文の口語訳は、文を品詞分解し、そのひとつひとつを訳していくことによって成立します。古文では、徹底的な逐語訳こそが、満点に近づく方法です。「主語の追加」くらいはありますが、基本的に余計なことは書きません。
しかし、現代文の場合、「訳」ではなく、「わかりやすくする」ことが求められているわけですから、傍線部の外側から、説明に必要な情報を追加しなければならないことも少なくありません。
また、たとえ傍線部の内部であっても、「特別な意味を持たされていない語句」や、「傍線部の他の箇所を参照せずとも意味が通る語句」まで、すべて言い換えなければならないわけではありません。
予備校の解答例をみると、たとえば傍線部に「畏敬」と書かれている場合に、解答例で「尊敬」などと置き換えているようなものがしばしばあります。
本文の別箇所で、筆者自身が同じ意味内容として「尊敬」と書いてあるのであれば、言い換えることに一定の価値はあります。しかし、自身の語彙力を用いて言い換えるのであれば、「熟語」を「別の熟語」にする作業に特別な価値はありません。そういった「同次元の置き換え」は、意味がないばかりか、かえって筆者の使用している語の意味から遠ざかってしまうので、注意が必要です。
「畏敬」と「尊敬」という2つの表現は、どちらも比喩ではなく、客観的な語です。そして、両者の間に「分かりやすさ」の優劣はありませんから、取り換えただけでは「説明」していることにはなりません。この場合、「畏れ敬うこと」といったように、辞書的な語義を説明したほうが価値があります。
いずれにせよ、「現代文」の傍線部には、必ずポイントとなる「わかりにくさ」がありますから、文節に区切ってひとつひとつを逐語訳していくという態度ではなく、「わかりにくい部分」がどこなのかをまずは考えてみるべきです。
傍線部の分かりにくいところはどことどこか。
昭和から平成の現代文の講師として最も重要な方である堀木先生は、著書の中でこう述べられています。
傍線部を「説明」するというのは、傍線部の逐語訳をすることではありません。傍線部がいっていることを分かりやすく解説することなのです。だから、逆にいえば、
堀木博禮『Z会必修現代文』
傍線部の分かりにくいところはどことどこか
を考え、その分かりにくいところを解説するのです。
「傍線部の分かりにくいところはどことどこか」を考えるとあります。
そういう部分があるからこそ、「説明問題」として出題されるのですから、「わかりにくい部分」を考えることは、「出題意図」を考えることとほぼ同義になります。
「出題意図」を考えながらトレーニングするほうが、設問を解く力が向上することは言うまでもありません。傍線部問題であれば、「分かりにくいところ」を考えることは非常に重要です。
出題者は、「答えさせたいポイント」があるからこそ、傍線を引くわけです。多くの場合、それは「比喩的表現」か「指示語」か「省略(論理のヌケ)」です。
比喩的表現もなく、指示語もなく、省略(論理のヌケ)もないところに、傍線を引くということは原則的には起こりません。問題にならないからです。
特別な意味を担わされていない単語はそのまま使用できる。
さて、堀木先生は、前掲書のある課題文中の
アマチュアの写真は、私的イメージそのものであり、なんら普遍性を必要としない。それは、彼の経歴なり体験なりの文脈の中にあり、写真の自立性や自己完結性など、不必要だ。
という傍線部に対し、
アマチュアの写真は、撮影者の経歴や体験という彼の一連の人生と結びついて、意味をもつものであること。
という解答を用意しています。
「経歴」「体験」という語をそのまま使用している点に注目したいところです。
「解説」では、次のように述べられています。
傍線部の分かりにくいところは、
下線引用者
「それ(=アマチュアの写真)」が、その写真家の経歴なり体験なりの「文脈の中にある」
という点であって、「経歴・体験」という言葉はここだけの特別の意味を担わされてはいませんから、このまま答案の中に使ってよいのです。説明のポイントは、
写真が経歴や体験の「文脈の中にある」とはどういうことか
にあります。
ところが、そのことを説明した箇所は問題文中にありません。記述説明問題の解説を、文中にある使える言葉だけを探して、それをつなぎ合わせることだと信じているみなさんは、ここで行きづまってしまい、例の〈記述問題はむずかしい〉という固定観念ができあがるのです。
「ここだけの特別の意味を担わされていませんから、このまま答案の中に使ってよい」というところは、重要な考え方です。
「本文の別箇所と無関係に理解可能」 であれば、その語句はそのまま使用しても問題ありません。(なお、「本文の別箇所と無関係に理解可能」という言い方は、中崎先生、甫先生による『世界一わかりやすい東大の現代文』によります。)
比喩の解除
「アマチュアの写真が、撮影者の経験なり体験なりの文脈の中にある」という表現のなかで、比喩的な表現は「文脈」です。
良い答えを作るための出発点は、説明しなければいけない、傍線部のポイントを作っている言葉の意味をおさえることなのです。
「文脈」の意味は、「文と文のつながり」のことです。撮影者の経験や体験は「文」ではありませんから、本来は文章に使用する「文脈」という語をここにあてはめるのは、通常であればおかしいことです。
しかし、我々は、たとえば映画のストーリーにおける、ある場面とある場面のつながりのことを「文脈」と呼んだりもします。「映像」は文ではありませんから、本来であれば「文脈」という語はふさわしくありません。とはいえ、この意味で使い慣れている話し手と聞き手のあいだであれば、「ストーリーの前後関係」という意味で了解することは可能です。
そのような使い方をここでもあてはめて、「前後関係」とか「つながり」といった意味で「文脈」という語を解釈すれば、
アマチュアの写真は、撮影者の経験や体験とのつながりの中で意味づけされるということ。
などと説明することが可能になります。
このとき、「経験」「体験」といった語を、これ以上説明的な表現にすることはできませんし、する必要もありません。それよりも、明らかに「分かりにくい」ところに集中し、そのポイントをしっかりと説明するほうが重要です。
しかしながら、時間があるのであれば、「撮影者自身が見聞きしたものや感じたもの」などと説明したほうが、いっそう説明の充実度が上がります。余裕があれば、基本的には傍線部内の語句は言い換えておくほうが無難です。
まとめ
傍線部に対する「どういうことか」という問題において、「傍線部を細かく分けて、それぞれを徹底的に同義置換していく」という姿勢は、たしかに、解答づくりの基礎的態度として重要なものです。
しかし、傍線部の内部には、出題者が「しっかり説明してほしい」と考えている「ポイント」があります。そもそもそういうポイントがないところを設問にはしません。
したがって、傍線部の中でも特に「わかりにくいところ」を見極めて、その説明に時間と字数をかけたほうが、結果的に部分点を得やすいと考えましょう。

傍線部のどこを答えさせたいのか、すなわち「設問意図」を考えてみましょう。
とはいえ、原則的な姿勢としては、傍線部の中の語は言い換えるくせをつけておいたほうが、結果的に答案を早く仕上げる力がつきます。