自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ。

「誇張表現(大げさ表現)」は「実態」に直そう。

「誇張表現(大げさ表現)」は、「実態」とはかけ離れています。

たとえば、近所の八百屋さんに行くと、「300円」のおつりを返すのに、

はいよ! おつり300万円!

なんて言ってくるご主人がいることがありますね。

もちろん、「300万円」のはずはありません。その実態は「300円」です。

下町の駄菓子屋に行けば、「50円」のおつりをわたすのに、

はい、おつり50両

なんて言ってくるおばあちゃんがいることがありますね。

もちろん「50両」のはずはありません。その実態は「50円」です。

このように、私たちは、日々何らかの「誇張表現」をしながら生活しています。

たとえば、

朝から何にも食べてなくて、おなかと背中の皮がくっつきそう!

などというセリフも「誇張表現」です。おなかと背中の皮は実際にはくっつかないからです。この場合、「胃腸に何も入っていないと実感するほど空腹であるということ」などと説明することになります。

こういった「誇張表現(大げさ表現)」がある場合、その実態のほうを答案に書き込みます。

では、問題を見ていきましょう。

 数年演出助手として修業しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる――「よかったよ」とだれかれから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとはずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり。シーンとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでえ、自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。
 実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでもなんでもない。主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂っている。その頂点で役者がふっと主人公の状況から自分を切り離して、自分自身がかつて経験した「悲しかった」事件を思いおこし、その回想なり連想に身を浸して、「ああ、なんて私は哀しい身の上なんだろう」とわれとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙がわいてくるのだ。つまりその瞬間には役者は主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っているわけである。このすりかえは舞台で向いあっている相手には瞬間に響く。「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である。

竹内敏晴『思想するからだ』 

傍線部「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。

傍線部を大きく分けると、2つのポイントになります。

〈論点a〉自分ひとりでいい気持ちになりやがって
〈論点b〉芝居にもなんにもなりやしねえ

〈論点a〉は、傍線部のある「次の段落」の最後にその経緯が語られています。

「自分ひとりでいい気持ちになりやがって」となる所以である。

と書いてあるのですから、その直前はキーポイントです。

その部分の情報を拾うと、次のようにいえます。

「いい気持ちになる」というのは、「主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っている」ということです。

「なりやがって」と批判的に語られている理由は、「そのすりかえ」が「舞台で向かい合っている共演者には瞬間的に響く」からです。

したがって、〈論点a〉を重視して答案を作ると、次のようになります。ここだけでもしっかり書ければ、合格点ラインの答案になります。

合格答案

役者が、主人公の行動の展開とは無関係に、一人で回想や連想によるわが身あわれさに浸っていると、そのすりかえが舞台上の共演者にはすぐにわかり、芝居にならないということ。

答案をハイレベルにしていくために、〈論点b〉を説明していきましょう。

芝居にもなんにもなりやしねえ

とは言っていますが、そこで実際の芝居が終了してしまい、幕を降ろしてしまうわけではありません。

「芝居そのもの」は成立しています。

ということは、「芝居にならない」というのは、一種の誇張表現です。

その観点で傍線部周辺を探ると、傍線部の直前には、「共演した連中はシラーっとして」という表現があります。

「共演者たちがシラーっとしている」ということは、決して質の高いよい舞台であるとは言えません。

そのことから、「芝居にならない」というのは、

「よい芝居にならない」とか「芝居の質が下がる」などと表現したほうが、「実態」を表現したことになります。

「芝居」という語そのものは、十分客観的な語なので、そのまま使用してもかまいませんが、傍線部中の語なので、念のため「演技」などに言い換えておきましょう。

ハイレベル答案

役者が、演じる人物の境遇とは無関係に、一人で回想や連想によるわが身あわれさに浸ると、そのすりかえが共演者にはすぐにわかるため、よい演技にはならないということ。

トップレベルへの+α

よい演技にならない理由は、「共演者がシラーっとしてしまう」ことにありました。ということは、この「シラーっとしてしまう」という論点を追加しておくと、この文の論理関係はいっそう充実することになります。

すりかえが伝わり → シラーっとしてしまうため → 演技の質が下がる

と書くほうが、理屈が強くなります。

トップレベル答案

役者が、演じる人物の境遇とは無関係に、一人で回想や連想で自己陶酔すると、そのすりかえが共演者にはすぐにわかり、しらけてしまうため、よい演技にはならないということ。

「わが身あわれさに浸っている」という部分は、「自己陶酔」などの熟語を使用すれば圧縮できます。もちろん、「わが身あわれさに浸っている」のままでもOKです。同じ意味であれば、どちらで書いても同じ点が入ります。

「シラーッとしてしまう」は、そのまま書くと「おしゃべり言葉」のようになってしまいますので、「しらけてしまう」くらいに言い換えましょう。

採点基準 ⑤点

役者が一人で              (ないと減点)
登場人物の行動の展開とは無縁の位置に立ち  ① 同趣旨なら可
回想や連想                 ①
自己陶酔                  ① 「わが身あわれさに浸る」も可
そのすりかえが共演者に伝わる        ①
舞台がしらけてしまう            ① 同趣旨なら加点
(よい演技にならない・芝居の質が落ちる など)
ということ。  

選択肢なら……

主演女優が一人で、演じる人物とは関係なく、自分の経験などをきっかけに涙を流すなどの行為に至ると、共演者は敏感に察知してしまうため、舞台がしらけてしまうということ。

ひとつ前の問題で、筆者は、

「感情を伴わず、典型的なパターンにすぐにおさまる演技」を批判していました。

では、「感情」があればいいのかというと、そういうわけではありません。

「芝居の流れ」とは無関係の「自分自身の過去」などを思い出し、涙を流す演技をしたりしても、共演者たちにとっては、「あれ? こいつ今、関係ないことで泣いているんだな」とわかってしまうのですね。

それは、いわゆる「嘘の感情」です。

「芝居の中の話の流れに没入して、その登場人物になりきって、悲しみの気持ちを味わい、涙を流す」という演技が、最もよい演技なのです。

まとめると、

ひとつめの問題では、「感情を無視して、典型的な型通りの演技をしてはいけない」ということが述べられていました。

そして今回の問題では、「感情的になって、涙を流すことができたとしても、それが芝居の展開には無関係の回想によって引き起こされたものであれば、共演者たちにはわかってしまうので、結局はいい演技とはいえない」ということが述べられていました。

チャレンジ答案

演技として涙を流すとき、自分の身の上を哀しいものだと思い込み、わが身あわれさに浸っているだけなのに周りからその演技を褒められ笑っているのが妬ましいということ。1/5

本来、悲しみというのは怒りと似ているもので現実との闘いとも捉えられるが、その女優は役の行動や展開とは無縁の位置に立って涙を流して悲しみを表現しているので、ワキ役はそれに対して違和感を覚えるということ。2/5

演者は涙を流す際役柄の行動と展開とは無縁の位置に立ち悲しい感情を味わいたがり、結果すりかえを起こしてしまい同じ演者のテンションが落ちてしまうということ。3/5

役者がうまく泣くことができいい気持ちになっているが、それは演じている役の涙ではなく、役者が悲痛なことを想像し、泣いただけであって、芝居になっていないということ。3/5

役者であれば実際に涙を流す演技は案外難しくなく、主演級の役者でなくても出来ることであるため果たしてそれを芝居と言うのかということ。1/5

涙を流す時、役の状況と自分の体験をすり替えて涙を流すため、芝居ではなく自分の体験に浸っており、役者なのに芝居で涙を流しておらず、ましてや浮かれていることに腹立たしいということ。2/5

二流の役者は自分自身の悲しい経験から涙を流し、テンションが落ちてしまうが、そのすり替えは舞台で向き合っている相手に響く為、本来の悲しみとは違うということ。2/5

芝居とは役に入り込んで感情を表現することであり、舞台上で泣ける役者がやっている、自分の過去を思い出して涙を流すこととは違うということ。1/5

そんな難しい演技ではないのに、やり切った雰囲気を出して、いいとこ取りで脇役からしたら、芝居でもなんでもないこと。1/5

主役は、素人が考えるほど難しくもない嘘泣きを見事に美しくして褒め言葉を期待しているような一人でいい気になっているようなものを脇役が恨んでいること。1/5

わが身を憐れむ感情に浸るために舞台の流れでリズム、呼吸を作り、ピーク時に役から自分を切り離すことで芝居が主演女優の個人的な感情に浸るための道具となっていること。3/5

悲しい情緒を十分に味わいたいがために、悲しかった事件を思い出し、登場人物とは関係のない所であわれさに浸り、その気持ちが共演する相手に響くこと。3/5

主役が演技を終え、いい気持ちで楽屋に戻ってくる反面、脇役は主役の満足いく演技にする手助けをしている立場なので、自身はいい気持ちにはなれないということ。1/5

ワキ役が主人公の涙を流す土台を作っているから泣くという演技は難しいことでもない。しかし、主演だけで誉められることに対して、少し嫌気がさしているということ。1/5

涙を流す局面までは体全体を使い主人公を表現するが、泣く場面では自分を主人公から切り離し、自分の思いに浸っているため、芝居になっていないが、女優はいい気になってかえってくるため。2/5

いくら華々しく涙を流したとしても、自分自身の身の上の哀れさに浸って流した涙では、向かい合っている相手にもそれが伝わり、芝居とは言えないということ。3/5

役者が様々な局面を通過してきた主人公の行動と展開とは無縁の位置に自分の位置をすりかえ、テンションを落とし、自分の感情に入り浸っているということ。2/5

役者として演じている状況から、悲しかった事件を思い起こすことに切り替え涙を流すことは、主人公を演じているのではなく自分の悲しい思い出に浸っているだけということ。2/5

主演としての演技を行うことで、ワキ役の人からしたらそのくらい出来るという気持ちになり恨みを買い、せめてもの自分の思いをぶつけようと毛落とすようなことを言うということがあること。1/5

主演の人自身は自分の中で良かったと思い他の人にも褒められると思うが、楽屋で笑っていて客観的に見ると心がこもってなくて、褒められるために演技していること。1/5

役者のやるべきことは現実に対する闘いであるから悲しみを意識する余裕はないのに,主演女優は見事に泣いて,褒め言葉が降ってくるのを期待してはずんだ足取りで楽屋に入ってくるから。1/5

役者は主人公と無縁の位置に立って,回想や連想の中のわが身の哀れさに泣いているのにそれを主人公として泣いているということに置き換えているから。2/5

実際、役者の「涙を流す」という行動は主人公の感情や行動、展開とは関係なく、役者の己がかわいさのみで行われている事であり、その瞬間役者と主人公は完全に切り離された存在となってしまっているから。2/5

涙を流す瞬間に役者は主人公の状況から自分を切り離して、主人公の行動と展開とは無縁の位置に立ち、向かっている相手に瞬間に響くほどわが身あわれさに浸っていること。2/5

役者は芝居で涙を流す時、我が身の哀れさに浸っているだけなのに、芝居が終わった後楽屋に場違いな女優がいて脇役である人の怒りが込み上げてきているということ。1/5