子どもへの理解を無限に強いられる

「自分のことば」を必要とする問題の多くは、複数の語が列挙されているときに、それを「一般化」するタイプのものになります。とはいえ、答案の全体が「自分のことば」になることはまずありません。多くても、答案の半分くらいまでが、「自分のことば」の限界値です。

さて、今回は、やや発展的な、「自分のことば」を必要とする問題について見てみましょう。このケースだと、限界値、すなわち「答案の半分くらい」まで「自分のことば」を使用する可能性が出てきます。

ラニョーは、プラトンとスピノーザのテクスト講読だけを授業の内容とした。アランは、ラテン語と幾何学だけが、人間になるための真の必須科目であると信じていた。そういう教師に、工場の技師や商杜のセールスマン、あるいはふつうの杜会人を志望する生徒が「帰依」するとは考えにくい。(中略)しかし、子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない。(中略)しかし、子どもの自発性を尊重しつつ、なお大人が意図する方向へ子どもを導こうとする誘惑術まがいの教育の技術を発達させる動機には、やはり、後継者見習いの関係が成り立ちにくくなったという事情が投影しているように思われる。見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた。それとは対照的に、近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる

〈設問〉傍線部とあるが、教師が「子どものへの理解を無限に強いられる」とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。

他の設問には書かれていないのに、この設問にだけ「わかりやすく」という付帯条件があるということは、「何か特別なことが求められている」と考えたほうがいいですね。

「何か特別なこと」とは何なのでしょうか?

それは、「本文の表現をつないだだけでは正解を記述できないから、ある程度自分のことばで書いてね」ということです。

もちろんこのような条件がなくても、文脈から正解を推論しなければならない問題はあるのですが、そうはいっても、多くの場合は「文中の表現を適切につなぐ」という方法論で半分以上の点が取れます。しかし、今回は違います。

今回は、わざわざ「わかりやすく」と書いてあるのですから、「正解の核心部分」の表現が「本文中に存在しない」と考えましょう。

また、傍線部全体を問うているわけではなく、「子どもへの理解を無限に強いられる」という部分のみが焦点化されていることにも着眼しましょう。この問いは、この部分を中心的に聞いてきているのですね。

特にどこを「わかりやすく」すればよいのか。

さて、この部分で「わかりやすさ」が求められている箇所はどこでしょうか。

「わかりやすくせよ」と言うからには、問われている部分に「わかりにくい」表現があるはずですね。

さて、この設問で「わかりやすさ」が求められている箇所はどこでしょうか。

傍線部を分けて、

子ども 理解 無限 強いられる

と並べてみると、どれも、別に「わかりにくく」はありませんが、あえて言えば、「無限」が「一意」になっていません。ここが「わかりにくい」と言えます。

「一意」になっていないとは、どういうことでしょうか。

この語句だけポンと置かれていても、様々な意味で解釈できてしまうということです。つまり、「多義」のままになってしまうということです。

そこで、「無限」を辞書で引いてみると、次のような説明があります。

無限

数量や程度に限度がないこと。また、そのさま。インフィニティー。

「無限な(の)空間」「無限に続く」⇔有限。

「数量」「程度」とあります。また用例には「空間」「続く」とあります。

つまり、「無限」とは、「数」にも、「量」にも、「程度」にも、「場所」にも、「時間」にも使用できる言葉であると言えます。そういう意味で、「多義語」であると言えます。「多義語」は、文脈にあわせて「一意」にする必要があります。

この傍線部のように、ただ単に「無限」と書いても、

いったい「何」に限りがないのだろうか?

「時間」に限りがないのだろうか? 

「場所」に限りがないのだろうか? 

「数」に限りがないのだろうか? 

「程度」に限りがないのだろうか? 

という具合に、「多義語であるがゆえの混乱」が生じます。そこで、「無限」という多義的な語を、「一意」にしてあげることで、「わかりやすい」答案を目指します。

このように「無限」とは、「きりがない」ということですから、あっさりと読んでしまうと、「子どもへの理解をずーっと強いられる」というように読解してしまう可能性があります。

しかし、そのように、「無限」を時間的な意味合いで解釈してしまうことは誤読です。

もしも「これからずっとそうなる」という時間的な意味での「無限」であるならば、この傍線部の別箇所に、わずかでもそれを支える根拠が存在するはずなのです。ところが、そういった記述はありません。

また、「これからずっと子どもへの理解を強いられる」という「時間的解釈」は、本文全体と照合すると、矛盾が生じてきます。

なぜならば、「教師の側が子どもを理解しなければならない」世の中になってきたのは、「近代」に入ってからであるからです。「中世はそうではなかった」ときっぱり書いてありますね。ということは、「子どもへの理解を強いられる」状態は、せいぜいここ100年くらいの出来事なのです。

その、「ここ100年くらいで発生した状態」に対して、「永続的に(すなわち無限に)それが続く」と判断するのは、早合点しすぎですよね。数年後に大きな社会変革があり、「学校に通う子どもがみんなたこ焼き屋を目指す世の中」が来ないとは限らないのです。

以上のように、「文全体」で判断していけば、ここでの「無限」は「時間」に対してのものではないことがわかります

では何なのでしょうか? ――これは、量・程度に対しての「無限」です。つまり、「数えきれないほどいっぱいある」という意味での無限なのです。

何がいっぱいあるのでしょうか? ――「子ども」です。より正確に言えば、「ひとりひとり異なる子どもの個性」なのです。

最終段落の2つ前の段落に、「工場の技師や商社のセールスマン、あるいはふつうの社会人を志望する生徒」という例示的表現があったことに着眼しましょう。ここは、生徒の志望が多様化したことを意味しています。多様化したからこそ、数ある生徒に対し、そのすべての多様性を見なければならなくなったのです。

以上のことから、「多様」あるいは「個性」といった表現を書き込むことができれば、「わかりやすく」説明したことになります。「多様」という表現も「個性」という表現も本文には存在しませんが、「わかりやすく」という設問の付帯条件を加味すれば、むしろこのくらいの「作文」ができたほうがよいことになります。

河合塾の答案には、「多様」も「個性」もあります。このように、ある程度自分の言葉で答案を作成しなければならない場合での河合塾の答案は、たいてい見事です。

推奨答案

学校が後継者養成の場所として機能しないため教師が子どもの自発性を尊重しつつ、意図する方向へ導くには、すべての子どもの多様な個性を見出す必要に迫られるということ。

赤字の部分は、「子どもへの理解を無限に強いられる」という箇所に対して、解答の「核心」に該当する部分です。ここが一番大切です。ここで②点分です。

次に大切なのが、「後継者養成の機能が失われた」というところです。これは、傍線部(エ)における「子どもを社会人に育てあげる能力を失った」という部分を言い換えた表現です。設問において焦点化されている部分の「外」になりますが、傍線部そのものが引かれているわけですから、ふれておいたほうがいいですね。この部分の説明が解答に不要なのであれば、最初から傍線部を「子どもへの理解を無限に強いられる」というところだけに引けばよかったはずです。「見習う」という語句を使用してもいいですね。ここで②点分です。

さて、近代の学校が失ったのは、「後継者を養成する環境」「見習いという機能」です。そのような中で、「子ども一人一人の個性を発見していく」必要があるのはなぜなのでしょうか?

――それは、「学校である以上、教育をしなければならないから」です。そのことを本文から拾ったのが、「子どもの自発性を尊重しつつ、意図する方向へ導くため」という箇所です。これは、近代の「教育のあり方」なのです。このようなことが目的とされているからこそ、すべての子どもの多様な個性を理解する必要に迫られるのです。

つまり、「教師が子どもの自発性を尊重しつつ、意図する方向へ導くためには」という箇所は、答案の核心に対して、密接につながる「前提」として機能しています。したがって、解答にも書き込んでおいたほうがよいことになります。とはいえ、ここはあくまでも「核心ではない部分」ですので、自分のことばに直してでももっと短くしたいですね。この緑字のところで①点分です。

答案の圧縮がうまい受験生であれば、これを、次のように書きます。

圧縮した答案①

後継者として育成できない中、子どもの自発性を尊重しつつ意図する方向へ導くには、教師はあらゆる子どもの多様な個性がわからなければならないということ。

圧縮した答案②

多様な将来に向かう子どもたちを、教師を後継しない存在として教育するには、教師は子ども一人一人の限りない個性を見出すことが必須だということ。

圧縮した答案③

自身の仕事を見習わせる方法をとれない中で、後継者ではない子どもを教育するには、教師は子ども個々人の際限ない多様性を見ていく必要があるということ。

②のように「教育」とまとめてしまってもよいですし、さらに③のように「見習う」というワードを利用してもよいです。

いずれにしても、「赤字」の部分が「核心」であって、その前は「前提」になりますから、思い切ってある程度は「自分のことば」にしていくことも重要な態度です。

特にこの問題は「わかりやすく」という条件がついているわけですから、「本文の語句」を「切り貼り」するだけでは正解にならないと考えたほうがいいですね。

とはいえ、このように「自分のことば」を必要とする問題であっても、課題文に存在しない語句を用いる領域は半分程度にとどまります。よほど特殊な問題でない限り、答案の全領域に複数の「自分のことば」が散らばっているという事態が発生することはありません。

さて、実際の二次試験の採点では、「圧縮した答案」くらいの字数にまとめられるほうが好まれると考えられています。
(東大の13.4㎝×2行の解答用紙は、通常の字の大きさで書くと70字以内くらいになります)

しかし、先に示した「推奨答案」を小さめの字で書き込んでも、「論点の数」と「論理構成」が変わらないので、得点に差はありません。「まとめること」に時間がかかってしまうのであれば、小さい字で書き込んでしまったほうがよい場合も多いです。そのことから、結果的に、東大二字の国語で高得点(70点オーバー)を取る受験生は、「75字くらい」で答案を仕上げてくることが多くなります。