問1
(ア)挑 正解は⑤
①風潮 ②清澄 ③懲罰 ④前兆 ⑤挑発
(イ)促 正解は③
①拙速 ②推測 ③催促 ④側転 ⑤消息
(ウ)追及 正解は③
①球根 ②吸着 ③波及 ④不朽 ⑤紛糾

「ツイキュウ」は、「対象が具体的でないもの」を追い求める場合は「追求」を使用します。一方、「具体的なもの(あるはずのもの)」に追い及ぶ場合は「追及」を使用します。したがって、
「真理を追求する」「普遍性を追求する」「利潤を追求する」
「真犯人を追及する」「理由を追及する」「原因を追及する」
などと使い分けます。
要するに、「追い求めていっても〈オワリ〉がないもの」に用いるのが「追求」であり、「追い及んでいけば〈オワリ〉に辿り着くもの」に用いるのが「追及」です。
なお、「学問」を究めようとすることは「追究」です。「心理学を追究する」のように、「○○学」といったものが目的語になっている場合です。
(エ)奴隷 正解は⑤
①非礼 ②霊妙 ③励行 ④馬齢 ⑤隷属
(オ)停戦 正解は③
①進呈 ②締結 ③停滞 ④提唱 ⑤偵察
問2 正解は⑤
〈①段落〉の最後には、
真実に目覚めた少数の人間たちが、このコンピュータの支配に闘いを挑んでいるわけである。
と書かれている。そして〈③段落〉では、
コンピュータと闘う人間が、コンピュータにつながって夢を見ている人間とは違って~
と書かれている。
ここでいう「夢を見ている」は、傍線部における「魔法にかけられている」の同義表現と見てよい。ということは、傍線部における「魔法にかけられている」のは、「コンピュータと闘う人間」ではなく、「コンピュータにつながって夢を見ている人間」であるということになる。
「真実に目覚めた、コンピュータと闘う人間」は「少数」なのであるから、対立項である「コンピュータにつながって夢を見ている人間」は「多数」であるという読解が可能である。それを的確に表現しているのは〈選択肢⑤〉のみであるので、これが正解である。
文の先頭に、「彼らにとって」とあるので、すいすい読むと、〈傍線部A〉の「主語」も「彼ら」であると読めてしまう。しかし、内容的に見ると、「魔法にかけられている」に対応する「主語」は「日常世界は」である。設問は、「だれのどのような状態か」という問い方であるので、主語として「人間」を措定しなければならない。「真実に目覚めた、コンピュータと闘う少数の人間」との対比で考えれば、「魔法にかけられている」のは、「コンピュータにつながって夢を見ている多数の人間」ということになる。
すると、そもそも「だれが」の説明において、本文の事実に整合している選択肢が〈選択肢⑤〉しかないことになるので、それを選ぶことになる。
不正解の判断基準
①
「真実の存在を認めていない多くの人間」がズレる。傍線部における「魔法にかけられている」というのは、「真実がわかっていない(見えていない)状態」なのであるから、「認める/認めない」という話ではない。
また、「幻想にすぎないと思っている」が〈逆〉である。この文脈は、
コンピュータが「幻想」を上演している。 〈A〉
少数の人間が〈A〉という「真実」に気づき、コンピュータに闘いを挑む。
多数の人間は、〈A〉という「真実」を知らず、「幻想」の中にいる。
ということなのであるから、「多数」の人間のほうは、「幻想」を「幻想」だと気付かないでいるのである。したがって、「多くの人間が~幻想にすぎないと思っている」という説明は、本文に矛盾する。
②
「真実の存在に気づきかけている大方の人間たち」がおかしい。「大方の人間たち」は、「真実」の存在に気づいていないのであり、本文ではそのことを「魔法にかけられている」と述べているのである。「真実」の存在に気づきかけている(気づいている)のは「少数の人間」のほうである。
③
「真実を求める少なからぬ人間たち」がおかしい。「少なからぬ」は「少なくない」ということなのであるから、「真実を求める多数の人間たち」という意味になる。前述してきたように、「真実を求める」のは「少数の人間」なのであるから、〈逆〉になる。
④
「真実の存在に恐れを抱く一般の人間たち」がおかしい。「一般の人間」という語は、意味上「ほとんどの人間」ということになるから、要するに「多数の人間」という文意になる。「魔法にかけられている状態」は、「真実の存在に気付いていない状態」なのであるから、その存在に「恐れを抱く」というのはおかしい。傍線部の後半も、むしろ「真実に気付いている少数の人間」の説明になっている。そうであれば、主語は「一般の人間」ではなく、「少数の人間」となっていないと、主述が不一致になる。
記述想定答案
参考までに、「記述想定答案」を示しておこう。
コンピュータにつながって夢を見ている人間たちが、コンピュータによる支配的解釈のイデオロギーに捕えられ、真実に反した、上演された幻想を現実だと思い込んでいる状態。
採点基準 ⑧点
コンピュータにつながって夢を見ている人間たち ② (真実に目覚めていない人間たち なども可)
支配的解釈のイデオロギーに捕えられている ②
上演された幻想を ② (ヴァーチャルな世界を なども可)
現実だと思い込んでいる ② (真実だと疑わない なども可)
〈④段落〉に、支配的解釈の魔法(イデオロギー)と書かれている。ということは、「魔法」の端的な言い換えは「イデオロギー」であるので、記述であれば、その語句は解答に使用すべきである。
また、記述であれば、「多数・多くの」といった修飾句をつける必要はない。本文に「多数」と書かれているわけではないからである。
さて、この〈問2〉を解くうえで必ずしも必要にはならないが、〈④段落〉の内容を検討しておこう。〈④段落〉で言っていることがつかめると、〈問2〉を解くうえでの強力な補助線となる。また、〈問3〉を解くうえでの前提として生きる。もちろん読解が難しいところであるので、〈④段落〉の内部で意味をつかもうとしてあがくのではなく、わからなければ先に進めばよいのであるが、解説においてはいったん立ち止まって説明しておこう。
〈①~④段落〉の同義関係を追っていくと、次のようなつながりが見える。
〈A〉≒〈B〉≒〈C〉≒〈D〉
〈A〉幻想を夢見ている人
〈B〉夢に固執している人
〈C〉魔法にかけられているような人
〈D〉実在と意味をぴったり一体化しているように見ている人
(「この世界」の実在を固く信じる人々)
この「実在と意味をぴったり一体化しているように見ている人」は、「今いる世界」の秩序にそのまま収まっている人である。
次元が違うたとえではあるが、たとえば、「地球上どんな場所でも家に入れば靴を脱ぐのが当然」と思っている人は、「日本」という秩序に支配されている人である。その人は「家で靴を脱がない行為」を「おかしい」と思うだろう。しかし、家の中でも靴を脱がない国や地域はたくさんある。そこで暮らす人々から見れば、靴下のままでリビングを歩く日本人を「おかしい」と思うかもしれない。
「正しさ」というのは、その閉じた世界から一歩出れば「正しくない」ことも多く、「悪い」ことかもしれないということだ。そうはいっても、ある一元的な秩序の「内側」にいるだけでは、その秩序を外側から客観化し、考え直すということは難しい。本文で述べられている、
『マクベス』にあるように、「きれいが汚い、汚いがきれい」となることもないし、ハムレットが言うように、ラクダに見える雲が時にはイタチにも、またクジラにも見えるということもない。しかしそれは単に、彼が 支配的解釈の魔法(イデオロギー)に完全に捕えられているからにすぎない。
というのは、そのことである。
つまり、「閉じた世界の秩序」にがんじがらめになっているのである。
発展的な話になるが、ひとつの現象や、ひとりの人物も、角度を変えればまったく違う様相を示すことがある。たとえば、「井戸の矛盾」という話がある。
(1)あるボクシングのチャンピョンがファイトマネーで砂漠に井戸を作った。
(2)水が出て、周辺の人々は喜んだ。
(3)動物が集まり、そもそも少なかった周辺の草や樹を食べつくした。
(4)植物がなくなったので、風の通り道になり、砂漠化が余計に進んだ。
(5)それ以降、井戸を掘ることについて綿密な調査がされるようになった。
(6)似たような失敗は繰り返されなくなった。
さて、「最初の井戸」が、人間たちにとって、「いいものなのかどうか」は、結局わからない。なぜなら、「よかった」「悪かった」の評価が、「評価する観点」で変わるからである。
この「観点」が無数に存在する世界であれば、プラスマイナスがまるで逆になることもあるので、「ネズミが王になったり、道化が知者になったりする」のである。それが、本文で言うところの、「たがが外れた世界」なのである。
「ある一つの観点からの世界」に縛られている人は、コンピュータの夢の奴隷であり、一方、「今の私たちの世界観は、一つの解釈に過ぎない。もっと別の解釈もあるはずだ。解釈によって世界はガラッと変化する」と思うことのできる人は、その世界から脱する可能性を保有するのである。
本文でいう「テクスト」とはそのことである。たとえば私たちにとって「小説」は「テクスト」である。「ある街」を描いた小説があるとして、読み手によって、イメージされる街は全く違うだろう。このように、「読み手によって解釈が変容するもの」を、ここでは「テクスト」と述べている。「世界」を「テクスト」とみなせば、「生き方」によって、解釈が変容するのである。
問3 正解は①
構造的には難解である。記述問題なら相当の難問であろう。なぜなら、〈項〉と〈結論〉が2つずつあるからだ。いわば、「論理」が2つある状態である。
【論理x】
あらゆる理由 は 不十分 であるのはなぜか?
〈S1〉 〈P1〉
【論理y】
あらゆる推論 は 決 断 であるのはなぜか?
〈S2〉 〈P2〉
ただし、センター試験は選択肢があるので、本問は考え込まずに消去法に頼ってしまってよい。
なお、本問は「なぜか?」の問題ではあるものの、「どういうことか?」に限りなく近い問題でもある。次のように考えよう。
「どういうことか?」に近い「なぜか?」について
通常、「なぜか?」の問題は、〈結論P〉の「前」までを答えるものであり、〈結論P〉そのものについては解答に示さないことになるが、次の2つの場合には、その限りではない。
①「いえるのはなぜか?」と問われている場合。 〈言える型〉の「なぜか」
②「SはPである」のはなぜか」と問われている場合。 〈S≒P型〉の「なぜか」
上記①②の場合の「なぜか?」は、「意味内容」を説明することが求められており、「結論部」の「言い換え」も答案に入れたほうがよい。そのことから、結果的に「どういうことか?」に限りなく近い問題として成立している。とはいえ、「なぜか?」と問われている以上、通常の「どういうことか」とは異なるので、前提から結論への「流れ」が見えるように説明する必要はある。
さて、〈傍線部B〉は、段落の最終文に引かれており、また〈傍線部B〉の直前に何のラベルもないので、傍線部は、〈段落⑤〉のまとめ的な文であるとみなしてよい。したがって、〈段落⑤〉自体に解答根拠が散りばめられているという強い気持ちを持って探しに行く。すると、〈段落⑤〉の中盤には、
我々の経験の中には、これこそが疑いもなく現実の経験だという確証を与えてくれるものは、何一つないのである。〈A〉
それゆえ、 〈演繹〉
回路に侵入してイデオロギー闘争を闘う者たちも、自らの確信を正当化できる絶対の合理的根拠が欠けており、〈A´〉
そのため、
夢の中にまどろむ人々への説得も、単に理性的ではあり得ない。
という「因果のラベル」が明示されている。この「因果のラベル」の直前を拾ってくることができれば、〈論理x〉の説明は果たせる。
ただし、一つ目の「それゆえ」というラベルの前後は、「我々~」という「一般論」から、「闘う者たちも~」という「個別的な話題」に展開されているだけであり、 部の情報も、内容的には同じことを述べているので、〈A〉と〈A´〉の関係は、「原因と結果の関係」というよりは、「抽象と具体の関係」と見てよい。〈普遍的公式〉を〈個別的事象〉に当てはめた関係であるとも言えるので、この関係を「演繹」と言う。たとえば、
あらゆる国で、太陽は東からのぼる。それゆえ、日本でも太陽は東からのぼる。
〈P〉 〈P´〉
という例文では、結局〈P〉と〈P´〉は同じことを述べている。このように、〈公式〉を〈個別〉に当てはめることを「演繹」と言うのである。反対に、
ニホンザルはすばやい。メガネザルもすばやい。キツネザルもすばやい。
〈P1〉 〈P2〉 〈P3〉
ゆえに、あらゆるサルはすばやい。
〈P´〉
といったように、〈個別的事象〉の共通項を抽出して〈公式〉を作ることを「帰納」と呼ぶ。
すでにある公式を個別的事象に当てはめるのが「演繹」であり、個別的事象をいろいろ見ていって、公式を新しく作ることが「帰納」である。いずれにせよ、〈P〉と〈P´〉は、結局のところ同じことを述べている。
本文に戻ると、〈A〉から〈A´〉への展開は「演繹関係」なので、内容的には同じことを述べている。答案に書き込む場合は、どちらかを採用できればよいだろう。どちらを使用しても同じくらいの得点が見込める情報である。ただし、さらに高得点を狙いに行くのであれば、それぞれに点在しているキーワードを、「おいしいとこどり」してまとめる手段も有用である。
要するに、〈A〉→〈A´〉の間に強引に因果関係を見出さなくてもよい、という話である。内容的に同じ話をしているのであるから、両方からキーワードを拾いながらまとめることができると、答案の充実度が上がる。
さて、その後に続く文を読んでいくと、〈対比〉のラベルである「むしろ」がある。〈対比〉の直後には重要箇所があるという意識で「むしろ」の後を追っていくと、次のように書かれている。
夢の中にまどろむ人々への説得も、単に理性的ではあり得ない。
むしろ、
この確信はいったん疑い始めると、いたって脆いものであることがわかる。確信に基づく次なる行動と決断のみが、そのつど更なる確信を生み出すのであり、逆にいったん受動的に証拠をかぞえ始めると、たちまち夢と区別がつかなくなってくるだろう。「十分な理由」はどこにもない。
「疑う」は「決断」の対になっている。つまり、「確信」を疑えば、「考えの土台」が崩れてしまうので、「次の確信」は発生しないことになる。そうなってしまうと、「論」を「進めていくこと」はできなくなってしまう。「考え」というのは、何かを事実とみなすこと、すなわち「措定」することで、はじめてそれが「足場」となり、次の段階へ進めていくことができるものなのだ。
論の足場となる「根拠(理由)」が不確かなものであれば、当然のことながら論を次の展開に進めることはできないので、「推論」は進まないことになる。そのため、「推論」するためには、「こういうことにしとこう!」「そんで次はこういうことにしとこう!」と措定を繰り返していくしかないのである。言い換えれば、仮説を積み重ねていくしかないのである。
措定
ある事物・事象を存在するものとして立てたり、その内容を抽出して固定したりする思考作用。
仮説
ある現象を合理的に説明するため、仮に立てる説。実験・観察などによる検証を通じて、事実と合致すれば定説となる。
以上の考察により、応用的ではあるが、次のような答案が成立する。
記述想定答案①
人間の経験が現実である合理的根拠はないのであり、(そのため)推論は、確信に基づく行動と決断によって事実を措定し、更なる確信を生んでいく仕方でしか成り立たないから。79
「措定」などという語は本文にないが、「とりあえずそれとして決める」という意味を持つ熟語としては、最も使い勝手がよいので、答案に取り入れた。正解の選択肢にも、「措定」または「仮説」などといった熟語が混入している可能性がある。そういう「本文に存在しない熟語を用いた説明」は、選択肢問題では十分成立する。
記述問題において、本文に存在しない表現を使用する場合、その表現はできるだけ解答の他箇所を圧迫しないように〈コンパクトな語句〉にしておくべきである。その場合、「熟語」というのは本当に便利で、漢字二文字で多くの意味を解答に詰めることができる。記述問題というのは、難関大においては、そういう能力を見ることもある。
ただし、この問題に関しては、「措定」という言葉がなくても答案が十分に充実するので、この意味内容に部分点が入るとしても、高い配点にはならないだろう。
①選択肢問題ならば、本文にない熟語が登場することがある。
②記述問題でも、必要であれば本文にない熟語を書き込んでよい。
ということを念頭に言うために、あえて〈記述想定答案〉に入れたが、「本文にない熟語を書き込む」という行為をしなければ答案が成立しない問題は、決して多くはない。あくまでも記述の「基礎」は、本文に書いてある熟語を活用して解答化していくことにある。
しつこくまとめておこう。
① 〈記述想定答案〉の「措定」のように、本文中に存在しない熟語を書いてもよい。適切ならば加点される。
② ただし、それが必要になる問題はまれであり、難度も高いので、余裕があるとき以外はその手段はとらない。
③ その一方、選択肢問題ならば、本文中にない熟語を使用していることも多い。
したがって、「基本」に忠実に行くなら、「措定」などという「本文にない熟語」を使用するよりも、傍線部を分割的に翻訳していき、次のようにまとめるほうが無難である。
記述想定答案②
すべての理由は、現実の経験である確証がない点で合理的根拠に欠けており、すべての推論は、確信に基づく行動と決断によって、更なる確信を生むことでしか果たせないから。
採点基準 ⑧点
すべての理由は (ないと減点) *「理由」は「根拠」でも可
疑いなく現実の経験だという/確証がない ②/②
(確信を正当化できる/絶対の合理的根拠がない)
すべての推論は (ないと減点)
確信に基づく行動と決断によって ②
更なる確信を生む ②
ことでしか成り立たない
〈想定答案〉に最も近いのは〈選択肢①〉であり、これが正解。
「理性的になされるべき推論」という表現が本文には存在しないが、〈⑤段落〉中盤に、「人々への説得も、単に理性的ではあり得ない」とあり、また、〈⑥段落〉中盤にも、「なんら理性的説得はない。ただ決断が求められるのである」と書かれている。
いったん、評論文というものの本質に言及すると、「評論とは、一般論を乗り越え、筆者独自の主張を述べるものである」と言える。その「本質」を念頭に置いておくと、
A ではなく B / A 。 しかし B
という〈対比〉の構文は、もちろん単なる対比になることも多いが、少なくない可能性で、「前で一般論を否定し、後ろで筆者の主張を述べる」というスタイルになることがある。その場合、〈A〉が一般論であり、〈B〉が筆者の主張である。そのことから、「理性的説得はない。ただ決断が求められるのである」という本文の一節に、補充をしたうえで読解すると、
一般に説得は理性的におこなわれるとされているが、実はそうではなく、ただ決断が求められているだけだ。
ということを述べていることになる。したがって、〈選択肢①〉の「理性的になされるべき」という表現はOK。OKどころか、「うまい説明」と評価される表現である。「理性的になされるべき」の「べき」というのは、「普通そうなる」「常識的に考えてそうである」という助動詞であるから、たいてい「常識的見解」「一般論」を述べるときによく使用される。つまり、〈選択肢①〉は、本文において「逆接」の前に置かれていた一般論をうまく利用した選択肢なのである。
また、「絶対的な根拠を持たない」という説明もよい。「絶対」という熟語はそもそも本文にあるのだが、仮になかったとしても、この選択肢の説明は○である。いくつかの言葉を、「抽象的なものになりやすいグループ」と「具体グループ」に分けて考えると、次のようになる。
〈抽象的なものになりやすい〉
絶対・普遍・一般・客観
〈具体的なものになりやすい〉
相対・特殊・個別・主観
本文における「確信・決断」は、あくまでも「確信を持ち、決断をする」主体者の個人的な作業である。つまり、主観的・相対的な行為である。強いて言えば、「決断」の根拠となるのは、「主観的・相対的・個人的」な理由であり、みんなが認めるような「客観的・一般的・絶対的」な理由はないということである。それを〈選択肢①〉は「絶対的な根拠を持たない」と表現している。いい説明である。

なお、「客観化」の類義語に「相対化」が挙げられることがあるので、「客観」と「相対」自体を同義語の関係だと考えてしまうことがあるが、それは違うので注意しておこう。
「相対化」というのは、「他の主観の側に立つ」「他の立場もあることを意識する」「たくさんある中の一つに過ぎないことを認める」というニュアンスであり、いわば、「それぞれにそれぞれの個別性がある」ということが「相対」ということの一つの意味である。「客観化」も「相対化」も「自己の主観から離れる」という意味において、結果的に似たような意味になるのだが、「客観=相対」なのではない。「客観」は単純に「それを外から見てみようよ」ということであり、「相対」は「それだけじゃなくて他にもあるんだよ」ということである。
以上のことから、「自己を客観的に見る」というのは、「自分の外側に立って見る」ということであり、「自己を相対的に見る」というのは、「他の主観を想定して見る」ということである。一文全体においては、結果的に同じような意味になるが、語そのものが近い意味を持つわけではないのである。
別の例を考えてみよう。たとえば、「フィギアスケートの審査にはもっと客観的な基準が必要だ」という文と、「フィギアスケートの審査にはもっと絶対的な基準が必要だ」という文は、意味がほぼ同じである。この場合では、「客観」と「絶対」の置き換えが可能である。ここでいう「絶対」は、「誰が審査しても同じ結果になる基準」すなわち「主観が入り込まない基準」ということである。
また、「絶対評価」と「相対評価」という言葉を考えてみよう。「絶対評価」は、統一の「基準」を設けて、それに到達した生徒にはもれなく同じ評価が与えられる。そこでは評価する側の主観は入り込まない。客観的なのである。一方で「相対評価」は、生徒同士を比較して順位付けしなければならない。したがって、どこかに教員の主観が入り込む可能性が生じてくる。
また、「客観問題」という設問形式がある。選択肢問題をそう呼ぶのだ。この場合、受験生が⒑万人いても、「正解」と「不正解」にしか分かれない。これでは10万人の受験生同士の相対的な学力は測定できない。「客観問題」は「絶対の答え」があらかじめ用意されているので、相対評価は困難なのである。
いずれにせよ、ここで挙げた複数の語を、「単語」のレベルで、対義語・類義語関係に整頓していくことは困難だが、「抽象なかま」と「具体なかま」にグループ分けした場合には、「客観⇔主観」「「絶対⇔相対」という関係が成り立つ。そのことを意識しておこう。
不正解の判断基準
②
「ヴァーチャルな世界が現実化する」という話題はここでは出てこない。「真実に気付いた少数の者」が目指しているのは、逆に「ヴァーチャルな世界を離れて、真実の世界へと覚醒することである。
選択肢中盤では、「幻想からの覚醒を目指す」と書かれているが、それがまさに「真実に気付いた少数の者」が目指していることである。そのことと、「ヴァーチャルな世界が現実化する」というのは、逆の出来事なので、選択肢の内部で矛盾が生じていることになる。
③
「合理的な理由づけよりも経験上の直観を優先する」という文意が本文に存在しない。このような〈比較〉の問題なのではなく、筆者は、合理的な理由付けがそもそも不可能なのだと述べている。したがって、「合理よりも経験がよい」などといった相対的な比較問題なのではない。
④
「受動的に数え上げた証拠に基づく」が決定的な×である。本文では、「受動的に証拠をかぞえ始めると、たちまちすべては夢と区別がつかなくなってくるだろう」と書かれている。言い換えれば、「夢と現実の区別をつけていくためには、受動的に証拠をかぞえるようなことをするのではなく、確信を基にし、能動的に決断をしていくべきだ」といったところになる。
また、「真の理由がつかめない」という説明が本文と矛盾する。傍線部〈B〉の直前には、「十分な理由はどこにもない」と述べられていることから、「理由」は「あるけれどつかめない」のではなく、「そもそもない」のである。
⑤
「周囲から求められるままに行動を起こすしかない」という話題はない。〈傍線部⑤〉の後半部分はOK。そのため、後半部分だけなら、〈選択肢①〉と〈選択肢⑤〉で決着がつかないことになる。前半を理由にして、〈選択肢①〉のほうが優勢。
余談だが、そこに「ある」ものについて徹底的に疑い続けた代表格がデカルトである。最終的には、対象を疑っている自分の心だけは疑いえないというところに辿り着き、「我思う、ゆえに我あり」という、いわゆる「コギト説」を唱えた。大雑把に言えば、「思念の内容はすべて疑いうるが、思念しているということそのものは疑いえない」ということになる。デカルトの思考方法で、他に有名なものは、「困難は分割せよ」である。これは読んで字のごとく、事態を細かく分けて考えていくというものである。
このように、対象を懐疑し、かつ分割することは、近代社会に大きな影響を与えてきた。たとえば「保険」という制度は、「今ある」ものが明日あるとは言いきれないという思考態度を根に持っている。「分業」という生産制度は、困難を分割する思考態度を根に持っている。
しかし、そのような懐疑主義や分割主義は、ある側面では「ひずみ」を生じさせることになる。何事も疑いすぎていては、現象としてすでに「ある」ものの内容についてまで思考が進みにくい。たとえば、目の前に「本」があるとして、「これは本か?」「そもそも本とは?」と言いすぎていては、それが「よい本」なのかどうかまでは吟味が進まない。分割主義も、分割されているモノとモノとを「つないでいるもの」を無視してしまっては、総体としての存在がかえってないがしろにされてしまう。たとえば医療で、ある臓器に不具合が生じたとする。そこを治療することだけに集中した結果、そこに連結する臓器にかえって欠陥が生じてしまい、総体としての生命力が弱まってしまう、ということが起こりうる。起こりうるどころか、近代の医療は大規模にそういうことを行ってきたのである。もちろん、「分割的視点」で進んだ医療により、救われてきた命は数えきれないが、それにより縮まった命というものも確かに存在する。そういった反省から、生命を総体としてとらえていく視点が、20世紀後半から見直されてきている。東洋医学、漢方学、食事療法、免疫学など、もともと身体を「総合物」としてとらえてきた分野に、注目が集まってきている。
問4 正解は⑤
難しい問題だが、読解が困難な設問ほど、基本に忠実に、ホームランではなくヒットを狙いに行こう。記述なら「部分点狙い」でかまわない。選択肢なら、「暫定解答」にしておいて、後で戻ってくるのも手段の一つだ。
さて、この場合の「基本」とは、〈対比〉〈定義〉〈因果〉の「関係」から情報を集めてくることだ。
AかBか(Aか非Aか)いずれも決断し得るものと思われよう。
しかし、
本当はいずれか一方だけが本当の決断であり得、他方は単に決断の回避でしかないのだ。
その後「レーニン」の具体例を挟み、〈傍線部C〉が来る。上記の論点は、〈逆接〉の後ろであり、かつ〈具体例〉の直前であり、しかもその〈具体例〉の直後が〈傍線部〉なのであるから、ほぼ間違いなく解答に必要な論点と考えてよい。「ブレスト=リトフクス講和」は知らなくても問題はないが、いちおうの内容を貼っておこう。
〈ブレスト=リトフクス条約〉
第一次世界大戦の長期化に苦しむドイツと、革命政権を樹立したソヴィエト=ロシアは停戦交渉に入り、1917年11月にバルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立。翌月、ブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・トルコの同盟側四国代表と、ロシアとの講和条約交渉が始まった。ドイツ側は引き延ばしをはかり、交渉は難航、またソヴィエト側でもドイツとの戦争を革命戦争としてとらえ、戦争を継続してドイツ国内の革命を支援すべきであるという主張が台頭した。トロツキーは交渉打ち切りを主張してレーニンと対立し、代表を解任された。1918年2月、ドイツ軍のロシア攻撃が再開されると、レーニンはただちに講和条約締結を決断し、ようやく3月3日にブレスト=リトフスク条約の調印を行った。
この間、連合国側はソヴィエト=ロシアの単独講和をなんとか阻止しようとさまざまに働きかけた。1918年1月のアメリカ大統領ウィルソンの十四カ条の原則の発表もその意図から出されたものであったが、レーニンは単独講和の方針を曲げなかった。ソヴィエト=ロシアとドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦した。ロシアはポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などの諸地方を放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲った。この時ロシアが喪失した領土は合計320平方kmに及び、それはヨーロッパ史上未曾有のことであった。またロシアは、人口の約三分の一、最大の穀倉地帯、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地などを失うことになった。戦争継続を主張する左翼エスエルは政権を離れ、農民パルチザン闘争を主張するようになり、ボリシェヴィキ内部にもブハーリンなどの反主流派を生み出すことになった。ドイツは東部戦線の重圧がなくなり、西部戦線に戦力を集中できる態勢となったので、一時勢いを盛り返したが、11月に入りドイツのキール軍港での水兵反乱が起き、ドイツ軍は残る連合国に対して降服した。この条約は第一次世界大戦が終結しドイツが敗北するに伴い、廃棄された。しかしポーランド、バルト三国、フィンランド、ウクライナなどの独立派そのまま認められた。
結果的には、レーニンが停戦を「決断」したために、少なくとも外部の国との緊張関係においては、一定の平穏が訪れたことになる。ボルシェヴィキ(現在はボリシェヴィキと表記することが多い)の他の者たちは、「戦争状態引き延ばし」を支持する者が多かったようだ。この場合、「停戦などしない!」という立場は、一見「決断」のように見えるが、実際には「存置」の立場を取っているにすぎず、その意味で「決断の回避」でしかない。たとえば日本において「死刑制度に賛成」と言う人に理由をたずねてみて、「実際に今あるから」と答えるのであれば、それは「存置」の立場を取っているにすぎず、決断しているわけではない。
さて、傍線部は〈定義文〉に引かれているが、締めくくりが「ものなのだ」と、「のだ」でまとめられていることからも、先ほどの「ブレスト=リトフスク講和」の例を遡って、
本当はいずれか一方だけが本当の決断であり得、他方は単に決断の回避でしかないのだ。
の一節にやはり行き着く。
この一節は、かなり重要であると判断できる。「本当の決断」と「決断の回避」という〈対比関係〉をぜひとも押さえておこう。
また、傍線部の直後には、「これが」という指示語がある。傍線部の内部を指す指示語なので、これもまたきわめて重要である。
これが決断の事後的効果である。認識はおしなべて決断の事後的効果としてのみ与えられるのであり、決断を回避する者には決して与えられない。
このことは、現実の諸君の生活を考えても頷けることであろう。「今まで通り」を選択しても、その選択の「意味」は見えにくい。反対に、「今まであったものを変える」という選択をした場合、仮にその選択が「一見すると失敗」であって、「ああ、続けていたほうがよかったなあ」と考えるのであっても、それは「変えた」からこそ見えてきた本質であって、既存のものを無批判に続行しているだけでは、事態の本質はなかなか見えてこないものである。そもそも、その「一見すると失敗」に思えたものも、違う角度からみると「やってよかったこと」かもしれない。どちらにしても、やってみないと、ある事態の意味・価値は浮き彫りにされない。こういった「事後的な理解」は、前提として「決断」が為されたからこそもたらされるものである。
以上のことから、次のような解答が成立する。
記述想定答案
選択行為は、いずれを選んでも一見「決断」に思われるが、事後的に決断の真の意味を認識できる選択こそが本当の決断であり、それ以外は決断の回避に過ぎないということ。
採点基準 ⑧点
いずれの選択も一見は決断に思われるが ②
(本当の)決断とは (ないと減点)
事後的に ②
決断の真の意味を認識できる選択であり ②
それ以外は決断の回避に過ぎない ②
最も近い選択肢は〈選択肢⑤〉であり、これが正解。
前半の「その選択自体は見せかけの決断でしかなく」という説明がやや引っ掛かるが、これは「事後的にしかわからない」という文意を反映させたものであり、「選択したその瞬間には、その選択の本質的意味はわからない」ということを応用的に述べた一節であると言える。
受験生も、受験校を選び、それに向かって邁進することになるが、実際には「その大学を選んだことによる人生の意味」は、その大学に通い始めた後でなければわからない。そもそも受けようと思っている大学を「自分で決める」ということを曖昧にしている場合、「決断」自体がないことになるため、「自分の決断にどのような意味があったのか」ということを、事後的に認識することはできない。反省もなく、自己評価もなく、主体性のない人生が続いていくだけである。これは「決断の回避」と言えよう。
不正解の判断基準
①
「決断を回避したかのような~行為もまた正しい選択であったことが後になって明らかになる」という箇所が、本文と矛盾する。「事後的な認識」が与えられるのは「本当の決断」に対してのみであって、「決断の回避」には何ももたらされない。
②
「選択を回避したとしても~それは正しい選択~決断しなかった行為の正当性が後になって明らかになる」というところが、本文と矛盾する。理由は〈選択肢①〉と同じ。
③
「仮象世界のリアリティが立証される」が本文の具体例と矛盾する。本文の例え話においては、「決断」をすることによって、仮象世界の「外」に出ることができ、そのことによって、仮象世界の「仮象性」に気づくのである。仮象世界の「リアリティ(現実性)が立証される」としてしまっては、逆のことになってしまう。
④
「悪魔の誘惑に乗った選択さえもひとつの決断」が本文と矛盾する。「悪魔の誘惑に乗った選択」は、「実はなんら決断ではない」と〈⑦段落〉にきっぱり書いてある。
たとえば、ヘビにそそのかされて知恵の身を食べたイブとアダムは、「自分で」意志を持って決断したのではない。「流れに乗った」だけである。
ここで、読解の補助線として、〈⑨段落〉の内容について考えておこう。試験本番では熟考する余裕はないので、さっさと先に行って、〈⑩段落〉以降の情報で〈問4〉を解けばいい。「設問を解く」という観点だけで言えば、〈⑨段落〉はさほど重要ではない。センター試験はこのように、「解くうえではあまり必要ではない段落」がいくつか存在する。特に小説で、「ここは中略してもよかったのになあ」という箇所が増えてきている。おそらく著作権の影響で、中略をしにくくなったのであろう。いずれにせよ、センターのような時間の厳しい試験においては、本文全体をつぶさに精読することは不可能である。「大きく」話をつかんで、必要な箇所を見つけに行くという態度が望ましい。そのこともあり、意味不明な段落があったら、そこで留まる時間は最小限にし、次に進んだほうがよい。次に進むことによって、遡って、難解な段落の意味がわかることも多い。
しかしながら、今は試験本番ではないので、少し脱線し、迂回的に本文に戻ってくることにしよう。
さて、「真実に目覚めた少数の人間たち」は、まず「デカルト的態度」によって、「コンピュータの作り出す夢の世界」を疑い、「外」に出ようとする。しかし、その「出ようとしている外」すら、疑い始めればきりがないのであり、ここでも「デカルト的態度」を貫けば、どこにも行くことはできなくなってしまう。したがって、「少数の人間たち」は、「コンピュータの世界」か、「真実かもしれない世界」か、いったんはどちらかを信じてみなければならないのである。これは、今までの議論をふまえれば、デカルトの「方法的懐疑」をしつつ、一方ではウィトゲンシュタインの「措定」をするという、矛盾のただ中に自らを置くことでもある。このあたりまでが、〈⑧段落〉までのおさらいである。
そのことをふまえ、〈⑨段落〉に進むと、
かくて決断した人間のみが現実に直面する。
と書かれている。「それ以外の者は、~相変わらず夢を見ているだけ」という記述から推論すると、この「現実」は、コンピュータの支配から逃れた「外の世界」を指すものとして読みたくなる。しかしその後ろに、
言い換えれば現実とは、ただ決断の瞬間にだけひらめき現れるもの、ある魔法からもう一つの魔法への転換の一瞬にだけ輝く自由に対して、ほの白く浮かび上がるものなのである。
と書かれている。そうであれば、「外の世界」そのものを「現実」と呼んでいるわけではないことになる。そうではなくて、「外の世界」に行こうとするその自由な瞬間のみ、我々は現実に直面する、ということである。
このことは、(次元はまったく違うが)卑近な例で言えば、「遠足の前日が一番楽しい法則」に似ている。「目的地につくバスの中が一番ウキウキするの法則」でもいい。とにかく遠足は、目的地に着いた途端に、「帰り」が脳裏をかすめる。あるいは、行ってみた目的地が、想像していたよりは楽しくないかもしれない。いずれにせよ複合的な要因が重なり、「心」が最も遠足を満喫していたのは、むしろ前日や、行きのバスの中だったなあ、ということは、十分に起こり得ることである。
本文の話で考えても、「コンピュータの世界」から、「その外の世界」に飛び出したとして、もしかすると「外の世界」は、見るも無残に荒廃した世界であるかもしれない。その場合、そこに来てしまった者たちは、「やべー、こっち来んじゃなかった。マジ後悔。MGKK」と思うかもしれない。仮にそれなりにいい世界であったとしても、「社会」が構築されている以上、一定の文化や習俗、そして規則や倫理観などがあるだろう。そのため彼らは、新しく足を踏み入れた世界の「秩序」に、何らかのかたちで再び取り込まれていくことになるのだ。
たとえば、2001年センター試験評論は、「日記」をテーマとし、次のような主旨のことが書かれていた。
自己というものに沈潜・耽溺する日記は、出口のない迷路、あるいは牢獄のような場所でありながら、むしろそのことによって世間のあらゆる価値や評価からは距離を取っているという点で、逆に自由な想像力がはばたく場所でありうる。
なるほど「自由」とは、多彩な定義の仕方がある。言語や文化、建築や芸術……、とにかく様々な社会の営為があるが、ある意味でそれらは、自分を縛り付ける装置であるとも言えるだろう。私たちは、日本的な美意識や、平成の世の価値観などから、なかなか距離を置くことはできない。もしも、「それがイヤだ」と思って、イタリアに高跳びしても、やがて結局はイタリアの常識や社会通念に縛られることになるのである。そうであれば、「あるひとつの世界」から、「違うひとつの世界」に「飛ぶ」時こそ、人が最も自由な瞬間だとは言えないだろうか。
そしてその「自由」こそが、私「以外」からの影響を最大限取り外してくれるという意味で、最も「素の我が身」が露わになる地点であると考えることができる。つまり、「私にとっての現実」、言い換えれば、「私が私の人生を生きるというかけがえのない主題」が、最も浮き彫りになるところだと言える。
考えてみてほしい。たとえば受験生は、受験という儀式を経て、大きな転換点を迎える。そこでどのような進路を選ぶか。先にも述べたが、それは「決断」であろう。その後、大学に行くのであれば、その大学の「通念」に取り込まれていくことになる。そうであれば、遡って考えたときに、最も受験生個人の自己が開花したのはいつであったか。もちろんゼロにすることは不可能であっても、世間の「縛り」をできるだけ取り払って、できるかぎり素のその人自身(何がしたいか・何になりたいか・何をすべきか)を生々しく取り出したのは、いつであったか。
それはかけがえのない選択をしたそのときである。次の世界に飛び込もうとしているまさにその瞬間である。それこそが、自由をきっかけにして、その人自身が、その人の内部から取り出した「現実」なのである。
就職先を探すとき、新しい仕事を立ち上げるとき、旅行先を決めるとき、社会に怒りを覚えて何らかの行動を起こすとき、友人や家族にプレゼントを選ぶとき、落ち込んでいる人を励ましたくて言葉を選ぶとき、それとも言葉にしないことを選ぶとき……。事の大小は様々であるが、「選択」の瞬間は、その人の人生の主題が浮き彫りになる現場なのである。
〈⑩段落〉で、
我々のリアリティを支えているものが実際には理性ではなく信仰であり、信仰への決断であるということ
と述べられているのは、まさにこのことである。私たちが、理性的判断をもって、「かくかくしかじかだからこれをやろう」という判断には、おしなべて「社会的な合理性」が通底している。しかし、先に述べたように、その合理性は、一時代、一地域のものに過ぎず、それがよいとされる普遍的な根拠などない。むしろ、周囲の雑音に耳栓をして、内側の声に耳を傾け、「私自身との会話」によって、「これをするのが正しい気がする」という直感を信じて、そして「えいやっ」とやってみること。その「信念」と「行為」にこそ、その人自身の「リアル」が体現されるのである。そうであれば、その「信念と行動」の瞬間瞬間は、夜空に輝くきら星のように、私たちの人生に点在しているということができる。
そしてそうであれば、その星々をつないで星座をつくるように、「あの瞬間」と「あの瞬間」が「つながった」と認識できたとき、言うなれば「ああ、この瞬間のために、あの瞬間があったのだ」と痛感できたとき、それは人生において最も幸福な〈現実〉のひとつだと言うことができるだろう。
話がだいぶ逸れたが、本文で言うところの、自分の存在する世界に対する「価値観」をひっくり返すような場合は、プレゼントを選ぶことなどとは比較にならないほど大きな「転換」である。そのような「転換」に際してこそ、「生身の自分」というリアリティが露骨に出現する。そのように、今まで自分を縛ってきた社会通念から、ある程度自由になったときに、人はどのようなものをよりどころにして「飛躍」することができるのか、またすべきなのか。そのことが問われているのが〈問5〉である。
問5 正解は③
傍線部を説明する問題ではないので、ある程度消去法に頼ることになる。ただし、この〈傍線部D〉と〈段落⑪⑫〉は、〈Q.andA.〉として機能している。
「事前に何のよりどころも与えられていない盲目の飛躍なのか?」という「Question」に対して、「いや、未来への行動のひな形があるよ!」という「Answer」が述べられている。
その「ひな形」の一例が、「愛・自由・正義」なのである。愛や自由や正義を信じて生きるべきだという「論拠」は実はないが、それを信じて「決断」し、行動することによって、事後的にそれは現実世界で「真実」へと固定されていくのである。
戦国時代を舞台にした漫画『花の慶次』で、慶次は「疑って安全を保つより、信じて裏切られた方がよい」と言う。戦国の世なので、このような生き方は非常にリスキーに見える。本当に裏切られて、斬られてしまうかもしれない。ところが、このようなセリフを真剣に言われると、みんな慶次の漢気に惚れてしまうのである。そしてそのことによって、慶次を死ぬ気で守る人間が増えてくる。つまり、慶次がまず人を「信じる」ことによって、事後的に周囲の人物は慶次を「信じる」のである。慶次が最初にやっているのは、本文になぞらえて言うならば「暗闇への飛び込み」である。あっさりと死んでしまうかもしれない生き方である。しかし、それができてしまうことによって、慶次は誰にも達成できない「信頼の輪」を得ていく。金欲や、物欲にまみれ、計算をし尽くした生き方では、このような「信頼」を得ることは不可能であろう。
最初はまず信じて身を投げ出す。そしてその「身を投げ出すこと」によってしか達成しえない世界を構築する。そのような事例を、『花の慶次』は雄弁に語っている。このことは、何も戦国時代を舞台にした漫画でなくても、我々から見れば超人的なボランティアをこなす人など、現在でも枚挙にいとまがない。
選択肢比較
①
「巨大コンピュータの支えも必要」という説明が決定的に×。コンピュータはむしろ「闘う相手」である。文章の最後でも、「理論・組織・財産・前例」に支えを求めても、結局は無駄だろうと述べられているが、「巨大コンピュータ」は、このうちの「理論」に近いものである。
②
決断は「救世主」が「もたらす」ものではなく、まずは「個人」にすぎなかった者たちが「決断」をしていくことによって、次第にその「個人」が「救世主」へと導かれていくのである。
また、「財産や前例に心の支えを求めた者は暗闇に落ちる」というのは言い過ぎである。何かを信じて、根拠がなくとも「決断」をすることこそが、「暗闇に身を投じる」ことなのであるから、「財産」や「前例」に支えを求めている生き方は、そもそも暗闇に足を出していないのである。
③
〈段落⑪⑫〉と整合する。これが正解である。
④
「楽観主義」が不適当。「決断」をすることは、たしかに「ポジティブ」なことではあるが、それが「楽観」に基づいているという話題は一度も本文に出てこない。そもそもその「根拠のない信念への跳躍」は、非常に危険なものでもあるため、むしろ「楽観」は逆になると言ってもよいだろう。
⑤
「情熱」が不適当。「根拠のない信念への跳躍」がハイテンションなパッションで実施されるかどうかはわからない。冷静に行われる「跳躍」もあり得るだろう。
また、「愛や正義に深く根差した」という表現も、本文との対応関係が△である。これらは、本文における「未来への行動のひな形のようなものが、いくつか与えられている」という見解に対する〈例示〉である。「愛とか自由とか正義……」というように、「……」が付されていることからも、書こうと思えば、「夢とか希望とか謙虚とか敬虔とか自律とか……」と、まだ書くことができるだろう。したがって、そのうちの「愛・正義」の二つだけを取り出して語るというのは、〈例示〉を断片的にそのまま取り出して主題化してしまっているという点で、説明として非常に雑である。仮にこのように語るのであれば、〈⑫段落〉で挙げられた例示に対して、
(a)それらを一括して表現できる抽象表現に換言する(一般化する)
(b)そこで挙げられた例示すべてに言及する
上記(a)(b)の、どちらかで対応するのが望ましい。ところが、〈選択肢⑤〉の表現には、なぜか「自由」だけが抜けている。本文で「3つ」だけ挙げられているもののうち「2つ」を取り込むというのはいかにも不自然である。しかもその「3つ」のうち「自由」は、本文で最も登場回数の多い熟語である。よりによって本文で最も重要度の高い熟語だけをあえて抜くのは、やはり不自然である。
また、「根ざした」という表現には、×をいれてしまってもよい。〈⑫段落〉の二文目には、
我々がそれら(愛・自由・正義……)を理解するには、根拠も支えもないまま前のめりにそこ(愛・自由・正義……)へと半ば身をゆだねなければならず、
と書かれている。「根拠がない」と述べられているにもかかわらず、「根ざす」という表現を使用するのはミスマッチである。本文に即したかたちで述べるならば、「根ざしていないにもかかわらず、愛や自由や正義などの存在を信じ、その未来への行動のひな形に見合う行いをしようとする」などと説明すべきであろう。
また、「決断」と「他者と共に生きる」ことの密接な関係は説明されていない。たしかに、「決断」においては、何らかのかたちで「他者」が関わってくるケースが多いだろう。〈⑫段落〉の「分かち与えた力」というのも、他者が想定されているからこその表現であろう。しかし、「共に生きる」とまできっぱりと示されているわけではない。無人島のような場所であっても、生きていくための「決断」は必要になるはずである。
問6 正解は①・③
本文全体にかかわるので、完全な消去法である。①③には×をつけるべきところがない。
不正解の判断基準
②
本文中で、「現実」と「真実」は違う役割を持たされている違う語なので、「置き換え可能」ではない。
④
「人生の謎」が何なのかわからないので、△。
また、「幾何学の補助線は引かれた後事後的に適切かどうかがわかる」というのは、数学をやっている人間にとってはどちらかというと「当たり前」の話である。したがって「逆説」とは言えない。ここで×が入る。
⑤
〈③段落〉の疑問文に対する解答は、〈⑤段落〉にあるので、答えとなる説明は同段落内ではない。
⑥
「マトリックス」という語を前半と後半で「異なる意味合い」で使用しているのであるから、文章はむしろ「発展関係」にある。「多義語」が前半と後半で異なる意味で用いられていることによって、「文章が一貫する」というのは矛盾であるので、不適である。
(以下余白)